第四話
群れの若狼、明牙は死んだ。明牙は流行り病ではなく、はっきりと人間に殺されたのだ。霧牙の群れは悲観に暮れた。狼が人間に殺されるなどということは、少なくとも霧牙の群れではかつて無いことであった。
特に明牙を可愛がっていた右牙の悲しみは尋常一様ではなかった。
右牙は自分の巣穴に閉じこもって姿を現さなくなってしまった。
霧牙にもその心情はよくわかったと見え、狩りには誘わなかった。いつも鹿の肉の一片を右牙の巣穴の前にそっと置く。いつの間にかその一片は無くなっていた。無くなると霧牙は安心した。
或る満月の夜が来た。霧牙はまた狼の王、万年の大神の元へ向かった。
「万年の大神様、霧牙でございます」
「おお霧牙か」
「万年の大神様。先日我が群れの若者が人間に殺されました」
「うむ、それは痛ましいことじゃった」
「わたくしには狼の未来が見えませぬ」
「これも時のなせる所業じゃ」
「我々はどのように生きていったら良いのでございましょう」
「狼は狼として生きるしかなかろうぞ」
「お言葉ですが万年の大神様、大神様には我々の未来が見えているのではございませぬか」
大神の眼の光は紅く強い光に変わった。
「狼の未来ははっきりは見えぬ。しかしこの日ノ本の民の未来は見えるぞよ」
「何を呑気なことを。大神様は狼の王なのではございませぬのか」
「間もなくこの国の民は大きな戦を始める」
「人間のすることなどわたくしには関係ございませぬ」
「し損ずれば日ノ本の国は亡きものになってしまうものなり」
「わたくしの心には狼の未来のことしかありませぬ」
大神の紅い眼光は、射抜く程の強さで霧牙を見据える。
「我は狼の王。しかしその前に伊邪那岐命の家来なり。我が万年行き永らえておられるのも全て……」
「わたくしはもうここへは参りませぬ」
霧牙は大神を見限った。全ての話を引き取らずに洞窟の外に駆け出して行った。谷川の急流を飛び、雪の山を駆け上がり森の中に入った。暗がりの中で独り、長く尾を引く唸りを挙げ続けた。それは音色もたいそう辛そうな苦吟であった。
「おいおい、何を悲しんでおる狼よ」
とんでもなく太い幹の杉の木から甲高い声がする。
「何者だ」
「俺は狐じゃ」
霧牙が目を凝らすと、杉の木の太い枝の又に一匹の大狐が座っていた。
「なんと古狐か。狐ごときが俺に何の用だ」
「まあ話を聞け」
霧牙は杉の木をジッと睨んでいる。
「お主ら狼は頭が固すぎていかん。わしのいう通りに動いてみろ」
「黙れ黙れ、きさま等狐は全く信用ならん」
「狼よ、わしらと組んで人間を支配しようぞ」
「なにをっ、糞狐め。人間を良いようにたぶらかし、我等狼をもたぶらかそうというのか」
「なあに、最近人間はわしを拝まなくなった。わしは頭にきておる」
「狐め、一体きさまの舌は何枚あるのじゃ。俺が噛みきってやろうか」
霧牙には狐の企みがわかっていた。狐は狼を滅ぼそうとしているのだ。狼が激減しているのを機に、さらに人間の敵に仕立て殲滅させる魂胆なのだ。
「まあよい。狼はお主だけではなかろう」
大狐は姿を消した。
霧牙は人間をたぶらかそうとばかりする狐を、我等狼以上に奉る人間という生き物が不思議だった。すぐに祟る、とり憑くなどと風評をたて、別に人間に益することをするわけでもない。その実力たるやイエイヌにも劣るではないか。人間は賢いと聞くが、実はとんでもなく馬鹿で愚かな生き物なのではないか。それと同時にあの、人間の肩を持つことばかり言う万年の大神様も、実は案外狐のようなヤツなのではないか。
霧牙は夜の獣道を歩きながら、何をどう考えても腹立たしい気持ちしか起きなかった。その腹立たしい気持ちの雲を無理にどけると、とても野蛮な、固意地を通して滅びに向かう行為がくっきりとした絵で現れるような気がして、戸惑った。
やはり相談相手は右牙しかいない。あの冷静沈着さと智力は自分以上だ。何より無二の親友だ。最近は弟分の死が堪えているようだが、きっとすぐに持ち直してくれるはずだ。
少し気持ちの落ち着いた霧牙は、夜明け前の自分のねぐらに駆けもどった。
霧牙は右牙の巣穴の前にいた。
「おい右牙よ、起きておるか」
返事が無い。
「右牙よ、俺はお前に相談がある」
やはり返事はなかった。
不審に思った霧牙は右牙の巣穴に、すまぬ、とひと声かけ中に入っていった。そこはもぬけの殻であった。
霧牙はハッとした。自分がつい頭に浮かべようとした滅びに向かう絵図。まさか右牙が……
霧牙はあらゆる場所を探し回った。狼の墓場の断崖、清水の湧き出る源頭、大樹の瞑想の穴、どこにもいなかった。
あとは……霧牙は源頭を越えてしばらく下ったところに見晴らしの良い断崖があることを思い出した。自分がまだ若狼だった頃、右牙や流牙、左牙達とよく遊びに行ったところだ。
右牙は果たしてやはり断崖にいた。霧牙は後ろからそっと近づく。
「右牙よ、探したぞ」
右牙は振り向かず答えた。寒風に頬髭がなびいていた。
「霧牙さま。わたくしは狼がいやになりました」
右牙の意外な言に霧牙は狼狽した。
「明牙のことは俺も堪えておる」
「いやあ、霧牙様、明牙のことは致し方ありませぬ。ヤツも狼の誇りを貫いて死んだのですから」
「それでは何を苦にしておる。右牙らしくもない」
「霧牙様、我等はなんの為にこの世にいるのでしょうか」
「右牙よ、独りでそのようなことを……」
「霧牙様、わたくしはどう考えても狼は人間の為にいるとしか思えませぬ」
「そんなことはなかろう」
「いや、霧牙様、そしてその人間が我等を必要としなくなったのではありませぬか」
「右牙よ、もう考えるのはよせ」
「狼が滅びるのも運命のような気がしてなりませぬ」
「もうよせ」
「狼とはなんとも儚く弱いもののような気がしてなりませぬ」
「右牙、お前は疲れているだけだ。さあ俺と帰ろう」
二匹は静かな足取りで源頭に向かった。いつも冷静な右牙が弱音を吐くのが霧牙には辛かった。
源頭のわき水には大きく苔むした丸岩があった。霧牙と右牙はその岩の上を見たとたん目付きが変わった。
岩の上には二匹を小馬鹿にしたような顔で猿の頭が座っていた。
「おおこれは珍しい。今どき狼とはこりゃ珍しい」
グルゥゥゥ
二匹は鼻の上に皺を寄せ、この世で最も嫌いな生き物、猿と相対した。
つづく