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滅びゆく神の記録  作者: 和戸川悠
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第三話

季節は冬になった。霧牙の群れから流行り病が出ることは無くなった。霧牙の群れの雄たちは、今日も鹿を狙っていた。


冬は狩りに絶好の季節である。山の草や葉は枯れ、視界を妨げるものが少なくなる。森の中は(すこぶ)る歩きやすくなる。

しかしそれは人間にとっても同じことで、猟師達が狼のテリトリーによく入り込むのもこの季節であった。



霧牙達一行は、冬でも枯れることのない笹藪に身を潜めていた。



「おいこら、なあにやってんだ。こっちに来いや」



狐の毛皮の帽子を被った猟師が一人、犬を叱り飛ばしている。


三頭の猟犬が森の中で固まっていた。まるで金縛りにでも遭ったように動かない。



「ちかくにオオカメさまでもいるんだろか」



猟犬逹はすでに、近くに狼がいることを気配で知っていた。



鹿や猪、ときには熊にさえ飛び掛かってゆく勇敢な猟犬も、狼だけは駄目であった。



霧牙達が発する鋭い気のオーラが、喉元に突き付けた刃のように猟犬逹の体を硬直させている。


狼、は誉め言葉だが、犬という語は蔑む意味でよく使われる。 食い扶持の安泰と引き換えに主人持ちになった犬族は、決して何者にも媚びず、苦心惨憺険山で生き抜いてきた狼のことがそんなに恐ろしかった。


「これはいるな。近くにオオカメさまがいる。今日は止すかあ」 赤ら顔の猟師は里に戻ることにした。急ぎ足で森を抜ける踏み跡を引き返してゆく。三匹の猟犬達は尻尾を後ろ足の股に挟んだまま、ソロソロと主人について歩く。



「霧牙さま。わたしが里まで送っていきます」



いつも右牙から教導を受けている若い雄が申し出た。



「うむ、だがちょっかいを出してはならんぞ」



「はっ、心得ております」




猟師や猟犬たちと七間(約13メートル)程の距離を保ち、若狼が音も立てずに付いてゆく。猟犬逹は耳を後ろに寝かしつけ、怯えながら進む。

この若狼は名前を明牙(みょうが)という。生後三ヶ月で他の群れから養子に出されてきた雄だ。こういったことは、濃くなった血縁関係を薄める為に、近隣の群れ同士ではよく行われた行為であった。

明牙は明るい性格で、素直さも持ち合わせており、右牙は勿論、頭の霧牙にもよく可愛がられていた。ことに最近は若さゆえの無邪気も抜け、群れでは一目おかれる存在になっていた。



猟師は山の急斜面をどんどん下る。後ろは決して振り向かなかった。狼のテリトリーに入ったときは、後ろを振り向かずに手早く山を下るのが猟師古来からの定則であった。それと共に、山を下りるときには決して転んではならない、という言い伝えもあった。


この小肥りで丈の詰まった男は、代々猟師の家系の者だが、生まれてこのかた狼を目にしたことは無かった。小さい頃から父親に、オオカメさまのひと睨みは人さえ殺すぞ、と言い聞かされて育ってきた。


たまに鹿を深追いし過ぎて、西の山々に日が隠れる時合いになると、崖の上の方から空気をつんざくような唸り声を何度か耳にしたことがあった。


猟師はその厳くも崇高な響きを聞いたとき、足元にだけは細心の注意を払い、後ろを振り向かずに家路を急いだものだった。



枯葉が敷き詰められている山の踏み跡をどんどん下る。小一時間も歩けば、自分の村落に繋がる林道に出るはずだ。猟犬逹は相変わらす腰を落として猟師の後ろをついて歩く。

下りがゆるやかになり、踏み跡の落ち葉にふかふかと足が沈む地帯に差し掛かった。大分下ったな、と猟師は人心地、ついつい今夜の飯のことなどを頭に浮かべ、その歩調も雑になってゆく。案の定地表から浮き出た木の根に足を捕られてしまった。

前につんのめった形で落葉に顔を埋めた猟師はやれやれ、といった体で立ち上がり、犬逹の方を見た。


「うわああっ」



猟師の叫び声をきっかけにして、犬逹は放たれた矢のように走り去って行ってしまった。


猟師の来た道七間手前に直立不動の明牙が立っていた。

明牙はじっと猟師を見据えていた。猟師との距離を詰める気配も無かった。


人間が自分逹の縄張りから出て行ってくれればそれでよいのだ。

腰抜けの猟犬逹など明牙の眼中には無かった。


明牙は、猟師がまた歩き出すのを待っていただけであった。



しかし猟師は違った。わなわな震えながらも肩に架けていた猟銃を構える。銃口も震える。目の前の狼は微動だにしない。猟師は後ずさりする。

明牙はまだ動かない。全てを見極めたような鋭い目で猟師を見ていた。


「ああ、オオカメさま、オオカメさま」



猟師は初めて見る狼の偉風に自ら勝手に気圧されてゆき、このままでは確実に襲われるものだと思いこんでしまっていた。


また小さく一歩二歩と後退りをする。


明牙がその右足を一歩だけ踏み出したとき――猟師は引き金を引いた。


銃声は山の静寂を切り裂いた。喉を撃ち抜かれた明牙は倒れた。しかしその目は猟師から離れることは無かった。「狼の誇り」を忘れるな。「狼の誇り……誇り……」


明牙は薄れゆく意識の中で、昨日も右牙に口煩く言われた「狼の誇り」のことが頭に浮かんだ。



「ウォーン」



哀しげな最期の雄叫びを小さく挙げた明牙は事切れた。僅か一年半の生涯だった。

猟師は、全てが終わると、明牙の遺骸を担ぎ村へ戻った。倒してみると狼もたいしたことはないな、と気持ちも大きくなっていた。


さっきまでの恐さはどこへやら、狼など犬とそう違いの無い畜生だ、等と隣近所に見せつける気分になっていた。

毛皮や頭骨などを、外国人が求めているのも知っていた。


猟師は自家の土間に明牙の遺骸を吊し、晩の食卓では今日の武勇伝を大声で語った。妻や息子は半信半疑ながらも、実際に狼を持ってきた主人の話に首肯するより他は無かった。



その晩霧牙逹の群れは、里の裏山まで降りて、一斉に遠吠えの唸りを挙げ続けた。荘厳な重みに満ちた怨み節だった。



猟師は布団を被り震えていた。オオカメさまの鳴き声は雨戸を震わせる。オオカメさまを殺せばその人には鹿や猪が撃てなくなる。オオカメさまを殺せば山の大神様の祟りがある。


幼い頃父から聞いた狼にまつわる言い伝えが数々頭に巡り、実際に閉めた雨戸が震える程の遠吠えに、猟師一家は朝まで一睡もできなかった。



つづく

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