第二話
霧牙は今日も断崖の上に立っていた。彼はこの一年間で十匹の同胞をここで処刑した。群れの掟は絶対である。頭として非情に徹しなければ群れの存続は覚束ない。しかし処刑した若い者逹は皆、その幼き頃から見知っていた若狼逹である。
彼らの幼き日のあどけないしぐさに思いを馳せ、彼は独りで悼んでいた。
「霧牙さま、やはりここにおられましたか」
「おお右牙か」
「また悼んでおられたのですか」
「うむ、あやつらはこの俺をどう思いここから落ちていったのだろう、と思ってな」
「霧牙さまが心を痛める必要はございませぬ。我等の掟は絶対でありますゆえ」
「俺もいずれはこの墓場に落ちることになろう。その時に堂々とあやつらに顔向けできるよう生きたいものだな」
「はい、我等は霊獣としての誇りを忘れることはなりませぬ」
「右牙よ。これからも力添えをよろしく頼むぞ」
「もちろんでございますとも。わたくしがいる限り我が一党の行く末は御安心あれ」
「これは心強い。さすがは先代雷牙さまの直子だ。頼りにするぞ」
「ははっ」
五年前、霧牙の群れには三匹の頭候補がいた。まずは霧牙と右牙、もう一匹は先日霧牙を訪ねてきた流牙である。
先代の雷牙が自らの死期を悟り、自分の後継にこの三狼を指名した。狼の群れ社会は完全な実力主義であった。厳しい自然の中で群れを維持してゆくためには、一番強いものがリーダーとなるのは自然なことだった。 霧牙はまだ若く生意気だった流牙を一昼夜で倒した。流牙は深手を負い死の淵を見た。霧牙も傷だらけになり、その疲労も極みに達していたが、そのままの体で右牙に挑んだ。
二匹の争いは三昼夜に及んだ。組み合ったまま崖を転げ落ち、岩に激しくぶつかり、蓮の泥沼にも浸かった。右牙にはまだ余力が残っていたし、霧牙より智力に優れたところもあった。が、気迫という面では霧牙に一歩及ばなかった。霧牙の眼から赤々と燃え上がる気迫の焔の圧に根負けして勝ちを譲ったのであった。 負けた狼は一匹狼として群れを去るか、群れの若衆として頭に仕えなければならなかった。群れを出ると思われた右牙は群れに残り、残ると思われた流牙が群れを出て行った。
そのとき霧牙は右牙を訝しく思った。しかし右牙は全く気持ちの良い狼で、それからはどんなことがあっても霧牙を立て、自分が出しゃばるということは決してなかった。弟の左牙と共に、常に一歩引いたところから霧牙を補佐していた。
霧牙は立場上他者に弱味を見せることはなかったが、良き友と認める右牙にだけは気を許すことが出来た。
「実はこの前の満月に流牙が訪ねてきてな」
「ほう、流牙でございますか。あやつも今や一派の頭だそうでありますな」
「うむしかし、あいつの群れでも流行り病が蔓延しているそうだ」
「やはりそうでございますか。困ったものですな」
「万年の大神様にも相談しに行ったのだが……」
「的を得なかったのでございましょう。死んだ親父殿もよくこぼしておりました」
「こんなとき雷牙さまがいたらどうなさっただろうな」
「何を弱気なことを。霧牙さまは思うように群れを率いなされ。我等はどこまでも着いてゆきますぞ」
霧牙は大神とのやりとりを思い出した。狼にとって人間は全く必要のない生き物だ。しかしその狼の命運を人間が握っているとはどうしても解せなかった。
「さあ霧牙さま、そろそろ戻りますぞ。もう狩りの仕度の時合です」
二匹は紅く染まり始めた広葉樹の森を抜け、群れの皆が待つススキヶ原に駆け戻った。
「おとうさまおかえりなさい」
「おお、お前達何しておる」
「うん、僕たち狩りの練習してるんだ」
三匹の子供逹がそこら中に跳びはねているコオロギを前足で押さえ付けてはパクっと食いつく。母親に似て首の白い長男が瞬牙丸、霧牙に似た鋭い目付きの次男が光牙丸、この二匹は親の贔屓目抜きになかなか見処があった。じっと静止してコオロギの着地した瞬間を上から押さえる。上手いものだな、と霧牙は思った。
さて、困ったのは三男坊の岩牙丸である。
どうしてもコオロギが跳ぶ瞬間を狙ってしまう。
コオロギはどっちに跳ぶかわからない。スッテン転がってばかりいる。兄二匹とは拍子が逆なのである。
「岩よ、もっと兄者達を見習ったらよかろう」
「うう、ぼくは狩りに向かないのかな」
「いや、そんなことはないぞ。ちゃんと訓練すれば出来るようになる。お前は狼なのだからな」
「おとうさま、ぼくも狩りにつれて行ってよ」
「もう少し大きくなったらな」
「ガン、生意気言うな虫も捕まえられないくせに」
「そうだそうだ。ガンなんかじゃキツネにもやられちゃうっつーの」
「だまれ、ぼくが弟だからってばかにするなっ」
猛然と二匹の兄に飛び掛かっていったのは岩牙丸。三匹の豆狼が一つの固まりになってくんずほぐれつの兄弟喧嘩が始まった。霧牙は目を細めて我が子等の格闘を眺めていた。
ねぐらから白首姫が慌てて飛び出してきた。
「坊や達、これ坊や達、もうやめなさい。あなた様も止めてくださらぬか」
「なーに、これも一端の狼になる為の道だ。お前も黙って見ているがよい」
「でも怪我でもしたら大変でございます。坊や達はまだ赤子のようなもので……」
「よいから黙って見ておれ」
白首姫の心配は杞憂に終わった。こんなものは稚児のじゃれ合いに過ぎない。喧嘩に飽きた三匹は、また三者三様にコオロギ捕りをし始めた。
狼族の未来に立ち込める暗雲をこの群れの各々も確かに感じ始めていた秋の季節。無邪気な子供逹の姿は一時ではあるが、群れの大人逹の心を和ませた。
「右牙よ左牙よ、今日は椚林まで下り猪を捕ろうぞ」
「ははっ」
群れの五匹の雄は、霧牙を先頭にして、渓流の水のごとく右に左にうねりながら山を下って行った。
つづく