第一話
この作品は自分でもジャンルがよくわかりません。一応は文学として投稿します。気になった方はご指摘くだされば変更するつもりです。宜しくお願いします。
若い一匹が転げ回る。
グオォォーウォォォー
手当たり次第何にでも噛みつこうとする。霧牙は溜め息をついた。
「むぅ、また罹患か」
「霧牙さま。処置はどのように?」
「やむを得まい、突き落とせい」
「ははっ」
グルルルゥゥゥアオーゥゥゥ
左牙の体当たりを受けた若い雄は奈落の底へ落ちて行った。断末魔の雄叫びはだんだん小さくなり途切れた。
群れの七匹が不安気な足取りで集まってきた。
「霧牙さま、あの病はいったい何の祟りでございますか?」 霧牙に次ぐ地位にある右牙が口を開いた。
「祟りなどではない。イエイヌに手を出した罰じゃ」
「ああ霧牙さま、我等の群れは子ども達を除き、もう九匹しかおりませぬ。わたくしの息子を始めもう十匹があの病で……ああ霧牙さま」
群の雌のリーダー格、灰姫が涙声で訴える。
「我等は滅びる運命やも知れん」
霧牙は満月の月を見上げ、哀しげな遠吠えの唸りをあげた。
九匹の狼の一団は、頭の霧牙を先頭にして、しなやかに山中を疾走した。そして一通り縄張りの見廻りが済むとススキの生い茂る岩原のねぐらへと帰ってきた。
巣穴には三匹の子どもが眠っている。 霧牙と群れ一番の器量良し、白首姫の子ども達であった。
「ああわたくしの可愛い坊や達」
白首姫は仲良く寄り添って眠っている我が子等の頬毛をやさしく舐め続ける。
岩穴の出口に腰を下ろした霧牙は、穴の奥で我が子を愛撫する白首姫を哀しげな眼差しで見つめた。満月の月明かりは岩穴の奥まで射し込み、美しい母子の営みを蒼く浮き上がらせた。
岩穴の入口に他者の気配が近づく。霧牙は一瞬鼻を上げて警戒したが、その表情は途端に緩んだ。懐かしい匂いを感じたのだ。
黒く大きな影が岩穴の入口で静止した。折り目正しく両前足を揃え正座しているようだ。
「霧牙様。どなたがいらっしゃったのですか?」
「なあに、昔この群にいた流牙じゃ。俺はちょっと出かけてくるそ」
「お気をつけて」
二つの流線型は疾風の如く走り出した。一山を越え深い谷を下り速い川の流れを飛んだところに大きな洞窟があった。
入り口で顔を見合わせた二匹は互いにうなづくと並んで洞窟に入っていった。
満月の月明かりが洞窟の奥を淡く照らす。
真紅に光る二つの眼が二匹を見据えていた。
霧牙と流牙はその神々しい眼の持ち主の前に端座した。
霧牙が口を開いた。
「万年の大神様。今日はお話しがあって参りました」
隣郷の群れの頭である流牙が続く。
「万年の大神様。霧牙殿とわたくしに御託宣をば」
紅い二つの眼は一瞬カッと見開いた後、今度は青く光りだした。
「これは珍しい客じゃ。霧牙に流牙ではないか」
低く重い声が洞窟内に響く。二匹を見下ろす巨大な古狼は、岩のように微動だにしない。
「昨今の自捨転場悪なる病で、我が群れの若い雄はいなくなってしまいました」
流牙の訴えに続いて霧牙も口を継いだ。
「我が群れからは今日も狂いイヌの病が出ました」
大神の眼は途端に紅く光り出した。
「うぬ等は、縁起、という言葉を知っておるか?」
「人間達がよく口にする言葉でございますな」
霧牙の返答に流牙もうなづく。
「原因に縁って結果が起こるということじゃ。今の人間は縁起の本当の意味がわかっておらん」
大神の眼の紅い光りが強さを増した。
「この流行り病も縁起、すなわち因果であるあるとおっしゃいますか」
霧牙の落ち着いたもの言いに大神の眼光はまた静かな青に落ち着いた。
「うぬ等よく聞け。我がこの世に生を受けてはや一万年余り。当時、我が種族は人間と付かず離れず良い関係を保っておった。人間の愚かさは知っておったが嫌いではなかった。我等はよく人間の作物に害を成す獣を蹴散らしてやったり、たまさかには山に迷い込んだ人間を里まで警護してやることさえあった」
「はい、その道徳は今のわたくしたちにも習性として残っております」
流牙の返答に霧牙がうなづく。
「我等が、お・お・か・み、と呼ばれる由縁じゃ」
「はい、かいびゃく以来、我等この日ノ本の狼は、人間に畏怖の念をもって敬われておりました」
霧牙が自信ありげに答えた。
「しかし昨今、この日ノ本の人間も変わってしまった。人間は狼を危険な者として恐れておる」
「それは何故でございましょうか」
流牙がすかさず質問する。
「例えば我等は人間の目に付かないように行動してきた。ましてや生きた人間を襲うことなど一度もなかったはずじゃ」
「それは当然でございます。我々は陰ながら人間を守ることさえあれ、襲う等という習性は持ち合わせるものではございませぬ」
霧牙より若い流牙は、全く当然と言った顔で答えた。
「しかし病に罹患した狼はどうじゃ。己の半狂乱の姿を簡単に人前に晒す。人間の子共にも牙を剥く。人間がそれを狼の本質だと思うのも無理はない」
霧牙はキッとした目付きになり反論した。
「それにつきましては我々狼になんの責任も無いことでございましょう。悪いのは他国から耳の垂れた汚きイエイヌを持ち込んだ人間共でありましょう」
「はっはっは、霧牙よ。お主もまだまだ若いようだ。我は先に縁起の話を申した。それは人間の世界の言葉じゃ。全ての因は良きにつけ悪きにつけ全て人間にあるのじゃ」
若い流牙は、この禅問答のような話には全くお手上げだった。目を白黒させている。霧牙は鋭い目付で大神の青い眼を見据えた。
「万年の大神様。それでは我々の命運も全て人間次第なのでありましょうか」
「全て成すがままに。運命に従うほかはあるまい」
夜が明けてきた。月明かりの効力は薄れてきた。白んできた夜の中で、二匹の大柄な狼は首を垂れた。
「我もそろそろ眠ることにしよう。次の満月までぐっすりとな」
万年の大神と呼ばれる古狼はゆっくりと両目を閉じた。その後には巨大な灰色の岩が鎮座するのみであった。
二匹は洞窟の外で再会を誓い別れた。
霧牙は弾丸のように疾走した。夜には通れなかった断崖をかけあがり、柴だらけの森の中を突っ切ろうとした。早く帰って狩りの段取りをしなければならなかった。「むっ?」
森に入った霧牙は立ち止まった。そこには明らかに獣道とは違う踏み跡があった。おそらく人間が通った跡なのだろう。それに狼の嫌いな金気、すなわち金属臭がする。
こんな匂いのするときは、人間が近くにいることもあるし、猪獲りのワナが仕掛けてある場合もある。周囲を警戒しながら歩いていた霧牙の視界に白いものが映った。
踏み跡道のずっと先の細い木に白い犬が繋がれていた。紀州の雌犬のようであった。
用心深く近付いた霧牙は冷たい目で白犬を睨みつけ言葉を発した。
「おいイエイヌ。こんなところで何をしておる」
白い雌犬は怯えた横目を霧牙に向けたが尻尾を下げきって体は小刻みに震えていた。
「おいイエイヌ、答えんか」
白犬は小さくか細い声で答えた。
「はい狼さま、わたくしがここに繋がれているのも全てご主人さまの考えなのでございます」
「それはそうであろう。鎖で繋がれておるわけだからな」
「わたくしに狼さまの子種を宿して来いとの命令でございます」
「ほう、それにはどんな意味があるのだ?」
「はい、なんでも良い猟犬が生まれるのだそうでございます」
「一晩ここで明かしたというわけだな?」
「はい、わたくしはもう怖くて怖くて身の縮むような心地でございました」
「お前等の主人、つまりは人間というのも勝手なものだ。狼の頃の記憶を無理矢理削っておきながら今度はまた思い出せ、とな。しかし決して我等と交わってはならんぞ」 「そんなことを申しましても……わたくしはご主人さまに打たれるのは嫌でございます」
「お前等は人間に媚びる道を選んだ。我等は人間に崇拝される道をとった。恨むなら自分の先祖を恨むがよい」
「わたくしはどうすれば宜しいのですか」
「俺が逃がしてやる。違う主人を探すがよかろう」
犬と狼の牙は、鋭さという点では比較にならない。霧牙はその刃物のように尖った牙で白犬の牛皮の首輪をいとも簡単に食いちぎった。
「人里に行ったら他のイエイヌ共に伝えろ。我等は今、お前等の病が伝播して困っておる。交わった者は即刻処刑するとな」
霧牙はそう言い捨てると、森の向こうの高原を目指して走り去った。
白の紀州犬はトボトボと里の方向に歩き出した。しばらくして高原の方に目をやると、霧牙はすでに点にしか見えなかった。
白犬は覚束ない足取りのまま、霧牙の白く尖った牙や、鋭い目付きに、今まで味わったことのない郷愁を感じた。しばらく森をさまよっていた白犬は、結局鉄砲打ちの主人に見つかり元の家に連れていかれた。余談だが、こっぴどく叱られ、竹の棒きれで打たれたのは言うまでもない。
――――――――――――――――――――――――――――――
「右牙よ左牙よ。お主等は各一匹ずつの雄を連れ俺に付いて来い。今日は鹿を仕止めることにする」
「ははっ」
群れに戻った霧牙は、早速狩りの段取りを部下に指示した。 五頭の雄は霧牙を先頭にして、鹿がよく木の実を食べに来る森に向かった。
森の中に入ると三頭の鹿が、自分より高いところの木の実を首を伸ばして食べていた。
「霧牙さま。あれを狙うのでございますか」
右牙を慕う若い雄が気色ばんで言う。
「まあ待て。あれは家族だ。しかも一頭は子鹿である。我等はあくまで必要な分の獲物を狙うのだ。三頭も必要ないではないか」
ここで右牙が口を開く。
「これから子を生む可能性のあるやつは狙うな。なるべく老いぼれた鹿を探し出せ」
次に左牙が口を開いた。
「獲物はただの餌じゃない。あいつらも生きている。根絶やしするような考えは持つな」
若い二匹の狼は、頭の霧牙に良いところを見せたくて仕方がなかった。餌の身の上なんぞ知ったことではなかった。
そこへ角の長い大きな老鹿が現れた。後ろの右足を引きずっているようだ。
「あの鹿がよかろう」
「ははっ」
草むらに伏せて身を隠していた五頭の狼は、低い姿勢のまま素早く前進するとアッという間に老鹿を取り囲んでしまった。すぐ側にいた三頭の家族鹿は、もの凄い勢いで森の奥深くまで逃げて行ってしまった。
若い二匹の狼が同時に飛び掛かる。老鹿が角で応戦する。経験の浅い二匹の狼は、手痛い洗礼を喰らった。だてに長生きしている鹿ではないのだ。二匹の若い狼は体がまだ小さいこともあったが、次々に立派な角で突き上げられ、とんでもないところまで吹っ飛ばされてしまった。たちまち戦意喪失である。
次には名前の通りに右牙が老鹿の右手から、左牙が左手からジリジリと距離を詰める。老鹿の背後はガラ明きであったが、老鹿には狼に背を向けて逃げるという選択肢はなかった。敵に背を向けて逃げるということは即、死を意味する。そのことは獲物である老鹿も、狩る側の狼逹も経験から熟知していた。
霧牙が老鹿の鼻面へゆっくりと滲み寄る。 霧牙の目。その澄んだ目の色には、怒りも虚勢も、そして驕りも感じられなかった。しかしなんともいえないメランコリックな風情を漂わせていた。
しばらくの間、老鹿と霧牙は睨み合っていた。そのうち老鹿の目から険しい色が失せ、全てを諦めたような優しい表情になった。
老鹿はその場にすうっと伏せると首を伸ばし頭を地面に下ろしてしまった。
霧牙はその首筋に長く鋭い牙を入れる。老鹿は目を瞑ったまま動かない。
「むんっ」
霧牙が首を横に振ると老鹿の首筋からはおびただしい鮮血が吹き出した。老鹿は苦しまずに息絶えたようだった。
離れたところから見ていた若い二匹の狼は霧牙に駆け寄ってきた。
「霧牙さま。今のはどういったことなのでございますか。何かの魔法でございましょうか」
「どういった術をお使いになったのですか」
二匹の若者は、爛々と輝いた目で霧牙に尋ねた。右牙と左牙はニヤニヤしながら成り行きを見守っている。
「よいか。狼が鹿を倒すのは自然の成り行きじゃ。俺はどこからどう見ても狼、こやつはどこまでいっても老いた鹿である。対峙すれば鹿が倒れることは自然なことなのだ」
「でも先程の我々は激しく抵抗されました」
「お主等は欲が勝ちすぎておる。早く倒したい。俺に良いところを見せたい。早く食したいという欲が出過ぎておった。先程のお主等は狼ではなかった。あれでは大きな動物と小動物のただのケンカに過ぎない」
「なかなか面倒なことでございますね」
屈託のない二匹の若者に、霧牙は急に厳しい目付きを向け言った。
「よいか。狼はいつでも狼であれ。どんなときでも己が誇り高き日本狼であることを忘れるでないぞ」
「はい、お頭さま」
老鹿の骸を取り囲んだ五頭の狼逹は、遠吠えの咆哮を辺りに響かせた。これはねぐらで腹を空かせている雌や子供逹に狩りの終了を知らせる合図であった。
しばらくすると霧牙の群れの全員が倒れた老鹿を取り囲んだ。皆で鹿の肉を貪り喰った。
一九〇三年秋 それは日本の奥深い山々でよくある風景であった
つづく