暗殺者
死者の街や死の峡谷には頻繁ではないが、定期的に訪れる人が数名いる。
腕試しや魔物から出る魔石――魔力を豊富に含んだ石――を目当てにやってくる冒険者が殆どなのだが、それ以外にもライトが常連と呼んでいる人々がいる。
Bランク以上の冒険者グループを護衛に雇い、三ヶ月に一回程度のペースでやってくる行商人。
不浄なるものに天罰をと意気込む、少し暑苦しい神官戦士とその仲間。
容姿端麗の魔族。
そして、もう一人。月に一度のハイペースでライトに会いに来る者がいる。
「朝ご飯は一日を過ごすための活力だとは思いませんか。イリアンヌさん」
宿屋の一階でいつものように一人で朝食をとっていたライトは、背後へと声をかける。
「なんで、毎度毎度、私の存在に気がつくのよ。これでもAランク暗殺者なのよ」
声の主は足音も立てず、ライトの脇を抜けて斜め前の席に座る。
イリアンヌと呼ばれた女性は大抵の男なら、思わず見とれてしまう容姿をしていた。艶のある黒髪に切れ長の目。陶器のような白い肌に、スラリと伸びた手足。
黒の革鎧を着ているのだが覆っているのは、胸元と左肩のみ。革製のショートパンツからは、見せつけるかのように白く長い脚が伸びている。
「気配も完全に殺しているのに」
「気配ですか。そもそも気配とはどういうものなのです」
食後の紅茶が入ったカップを口に付け、一口飲むとイリアンヌに顔を向ける。
「何を今更。人がごく自然に発しているものでしょ。腕が立つものなら感じ取れるものじゃないの」
「では、貴方はどうやって気配を殺しているのですか」
妙なことを質問してくるライトの意図が汲み取れないようで、イリアンヌはじっとライトを見つめている。
美人に見つめられるという状況なのだが、ライトの表情には何の変化もなく、少し残念そうにイリアンヌはため息をついた。
「何か自信なくすわ。ええとね、気配の話だっけ。それは呼吸を浅くして物音を立てないようにとか、周囲に溶け込むように自分の存在を消すとかかな。あと周囲の気温に体温を近づけるのも大切ね」
暗殺者のみに伝わる技能の一つに、体温調整がある。人の体温は三十六度前後なのだが、自分の意志で前後十度差ぐらいなら調整ができる。
「なるほど、なら私には無意味ですね。不死属性の相手をすることが多いので、そもそも呼吸をしている相手の方が少ないですし。亡霊タイプなんて、完全に周囲に溶け込んでいます。そもそも体温自体が存在していませんから。気配がする魔物のほうが少ないですよ。私は気配を読み取っているわけではなく、なんとなく相手がいる場所がわかるだけです」
「なにそれ反則でしょ。あんた暗殺者の天敵じゃないの。そんな技術どこで手に入れたのよー」
上半身を机の上に投げ出し、手足をバタバタさせている姿は、どう見ても凄腕の暗殺者とは思えない。
「若い頃に「神聖魔法を上達させるのには実戦が一番!」と言われて育ての親に不死者しかいない洞窟の奥底に置き去りにされたら、嫌でも覚えますよ。よくある話です」
「よくないわよ! え、何、あんた幼少期に虐待されてたの」
「いえ、ちょっとおっちょこちょいな母に育てられただけですよ。すぐ帰れるように貴重な帰還用アイテムも渡されていたのですが、その発動方法を教えてもらってなかったとか。そのおかげで一ヶ月かけて死に物狂いで、その洞窟を抜け出したりとかね……」
ライトは天井の方へ視線を向けているのだが、その目はもっと遠くを見ているようだった。
「その、なんか、大変ね……」
同情するような声色で話すイリアンヌの右腕が一瞬、ライトのカップの上へ移動したのをライトは見過ごさなかった。
「悪気がないのが質が悪くて、他にも色々ありましたよ」
そこで一息つくと、カップに手を伸ばした。
イリアンヌの視線がカップに集中しているのを確認した上で、一気に中身を飲み干した。
「ふぅ、今日の毒はちょっと濃くて苦味がありますね」
そう言って、口の片端を上げ悪い笑みを浮かべた。
「なんで平然としてるのよ。今日のはワイルドベアーすら、殺せる毒なのよ! どれだけ元手かかっていると思っているのよぉ!」
両こぶしを机に叩きつけて暴れているのだが、もはや駄々っ子にしか見えない。
「それは、幼少の頃から「内臓を鍛えるには少量の毒を摂取して抵抗力をつけるのがいいって、昔の仲間が教えてくれたわ! 毒は薬にもなるって言うし!」と毎食ご飯に毒を盛られていただけですよ。たまに用量を間違えて生死の境を彷徨ったりもしましたが」
「それ、毒に強い暗殺者の育成方法じゃないのぉ」
ああ、母の仲間というのは暗殺者だったのかと、納得がいったライトだった。
「貴方も懲りませんね。いい加減、私の暗殺を諦めたらどうですか」
そこでイリアンヌは机に伏せていた顔を上げた。
「いやよ! 暗殺依頼の前金を既にもらっちゃったし! それに、ライトアンロックを倒したとなれば箔がつくし、知名度も上がって依頼もがっぽがっぽよ!」
机に片足を乗せ、拳を振り上げて力説する姿に、ライトはため息をつく。
「結局お金ですか。Aランクなら、既に結構なお金溜まっているでしょうに」
「女の夢には終わりがないのよ。こうなったら最終手段、色仕掛けしかないわね!」
机の上に寝そべると、ライトの眼前まで顔を近づける。そして、両腕で胸を挟み谷間を強調させるようなポーズをとる。
「そもそも、色仕掛け宣言してからでは意味がないでしょう。それに、そんなことしても革鎧にしわが寄るだけですよ。無は寄せても無なのです」
「うっさいわね! これはこれで需要があるんだから。じゃあ、この生足はどうよ」
長くスラリと伸びた足を、見せつけるかのように組んでみせる。
「はぁー。色仕掛けは無駄だっていうのは、初めて会った時に理解したのでは」
ライトは額に手を当て、頭を左右に振っている。
「あんた実は同性愛者とかじゃないでしょうね! あの時もそうだったけど、こんな美人が誘っているのに微塵も心が揺るがないなんて、おかしいでしょ!」
取り乱しているイリアンヌの肩に優しく手を添えると、ライトは彼女の瞳を正面から見据えた。
いつもと違い、真剣な表情で見つめるライトにイリアンヌは動揺し、柄にもなく頬が熱くなるのを感じていた。
ライトは更に顔を近づけると、ゆっくりと口を開く。
「美人が理由もなく寄ってくるわけがないでしょ」
「……えっ」
「ただでさえ女性と縁がないのに、美人が誘ってくるなんて……絵か宝石を売りつけようとしてくる商人か、私の力を利用しようとする権力者か、命を狙ってくる暗殺者ぐらいしかいませんよ」
またもライトは遠い目をしている。
「ねえ、過去に何があったの」
命を狙う立場だというのに、イリアンヌは本気で同情しかけている。
「別に、何度も痛い目を見たりしていませんよ、はははははは」
「ちょっと、怖い、怖いって。しっかりしてー!」
イリアンヌは空虚な笑いを続けているライトの肩を、懸命に揺さぶっている。
「すいません少し取り乱しました。人は成長する生き物です。経験って大切ですよね。あと女性は魔物より恐ろしい生き物ですよ」
「そ、そうね」
イリアンヌは若干引き気味に返事をする。
ライトは何かを思いついたようで、右手を軽く握り左手のひらに打ち付ける。
「前から疑問なのですが、正面から戦って倒そうとは思わないのですか」
「えっ、あんたみたいな化物と正面から戦う? ひょっとしてギャグで言っているの?」
「なぜそんな反応をされるのか理解できませんが、Aランクの暗殺者なら腕も確かなのですよね。この死の峡谷を一人で越えてこられるぐらいですから」
ライトの実力を認める言葉に反応して、イリアンヌは自慢げに胸を張る。
実際は殆ど戦わずに、逃げているだけだったのだが、それを口にすることはない。
「まあ、腕は確かなものよ。今まで何人もの実力者を葬ってきたわ。でもね、あんたと戦って倒す姿がどうしても想像できないのよ」
イリアンヌが力なく両手を机に振り下ろす、と同時に何かが風を切る音がする。
「ほらね」
両手に一本ずつ投げナイフの刃を掴み、笑みを絶やさないライトを苦々しげに睨んでいる。
「いやいや、私だって刺されれば死にますよ」
二本のうち一本は机に置き、もう一本を右手で柄を掴み、左手で刃を掴んで力を込めると、刃が温かい飴細工のように簡単に曲がった。
「やだもうこの人」
今度こそ完全に全身の力が抜けたようで、机の上にうつ伏せに寝そべっている。
「期限は一年もあるのでしたよね。また来月の挑戦をお待ちしています」
力なく右手を上げ、振っている。
「その余裕な態度がムカつくけど、勝てる未来が見えないぃ。あんた以外なら勝てる自信があるのにぃ」
愚痴をこぼしながら、イリアンヌは机の上をゴロゴロと転がっている。
「お客さんいい加減にしてくれないかね。机は乗る場所じゃないって、母さんに言われなかったのかい!」
クレリアの怒声とお盆の縁がイリアンヌの頭に叩きつけられた。
「いったあああぃ」
かなりいい音がして、頭を押さえたイリアンヌが今度は床を転がっている。
「お客さんだと思って黙っていたけど、あなた暗殺者なんだって。職業差別をする気はないけど、そんな若くて綺麗なのにもったいない。それだけの美貌があれば、もっと楽で幸せな道があるでしょ。だいたい、その格好は何。そんなにお腹出して! そんなんじゃお腹冷やしちゃうわよ。いい、若い子はお腹と腰を冷やしちゃダメなの。ここの人と違って生きているんだから、もっと自分を大事にしなさい。女の子の刃物っていうのは、人に向けるものじゃなくて食材に向けるものなのよ。その調子じゃ料理なんてしたことないんじゃないの。ああ、言わなくてもわかるわ。よっし、これも何かの縁よ。私が料理し込んであげるわ。いいのいいのお礼なんて気にしなくて。でも、どうしてもって言うなら、うちで働いてもらおうかしら。ちょうど従業員が欲しかったのよ」
文句を言おうと立ち上がったイリアンヌに反論の隙も与えず、言いくるめると、肩を抱き二人は厨房へと消えていった。
泣きそうな顔でライトに振り返ったイリアンヌに、手を合わせ祈っておいた。
この日から死者の街に生身の人間が一人増えることになる。