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独りが好きな回復職  作者: 昼熊
本編
56/145

悪魔

「こうやって顔を見合わせるのは初めてになるか。初めましてと言っておこう」


 空間の亀裂から現れた男が胸に手を添え、優雅に挨拶をする。

 その男は灰色の燕尾服に裏地が赤く染まったマントという格好で、微笑んでいる。

 男の顔は目が少し釣り上がり気味だが、美形と呼んで差し支えはないだろう。後ろに流されている髪は動いても髪型が一切崩れないので、整髪料で固められているようだ。

 ライトは相手が隙を見せれば、攻撃に転じるつもりだった。村人を唆し、母を殺した元凶である相手を生かしておくつもりなど端からない。だが、その決意に反して体は一歩も前に進もうとすらしない。

 表情には出していないが、相手の圧倒的な力をその身に感じ、全身の震えを抑え込んでいる。

 向かい合っているだけで、皮膚がじりじりと焼け付くような感覚にライトは息を呑む。


「お久しぶりと言った方がよろしいのでしょうか?」


「やはり、我の存在に気がついていたのか。こちらの策を三度も潰してくれるとはな」


「虚無の大穴ではお世話になりました」


 嫌味を込めてライトは頭を下げる。

 余裕の笑みを保っている相手の眉が少しだけ動いたのを、ライトは見逃さない。


「想像以上に厄介な男のようだ。改めて認識を変更しておこう。ライトアンロック。貴様を我らの障害として認めよう」


「これはこれは、光栄ですよ」


 一歩も引かずに渡り合っているように見えるが、実際は相手から情報を引き出し、尚且つ、この状況から生き残る為に脳内で必死に思考を続けている。

 今の実力では、まともに戦って勝つことはできない。それが実力差を冷静に判断した結論である。

 そもそも、今回の「まだ隠れているのですか」という呼びかけは、カマをかけたに過ぎない。村人たちに誘いをかけた相手が、あの状況を何処からか観察しているだろう、という憶測に基づいての発言だった。

 何も反応がなければ、気にせずにその場を調べるつもりだったのだが、この問いかけに相手は乗ってきた。虚無の大穴でも見られていた事を知っていたかのように話しているが、相手が「策を三度も潰してくれるとはな」との発言を受けて、咄嗟に対応しただけの話だ。


「今回は貴様がやってくるように罠を張ったのだが、ここの住民は思っていた以上に無能だったようだ。少しは力を削ってくれるかと期待していたのだが、準備運動代わりされただけだとは」


「おかげさまで、体が適度に温まりましたよ。色々と裏で動いていたようですが、本気で邪神を蘇らそうと思っているので?」


「ああ、我らの存在理由だからな。忠実なる下僕である我ら悪魔の長年に渡る悲願だ」


 悪魔。ライトはその言葉を脳内で反芻する。この世界において悪魔は珍しい存在ではない。闇属性の魔物として認識されている。実際にライトは戦ったこともある。

 悪魔の姿形は様々で、人型もいれば動物が集まったような形も多い。特徴としては、どんな姿であろうと二足歩行ができ、人の言葉が話せると言われている。

 魔物と悪魔の違いは何処にあるのか。魔物学者が語るには悪魔は邪神によって創られた存在であるが故に、生まれ持って仕えるべき主人がいる、ということらしい。魔物は自分の考えで動き、誰かに従うとしてもそれは自分の意思で判断した結果だ。しかし、悪魔にとって上位の存在は親のようなものであり命令は絶対。それに逆らうことは許されていない。

 ライトの知識で悪魔について思い出せるのは、ここまでだった。


「おや、悪魔でしたか。てっきり、魔族だと思っていました」


「我を侮辱しているのかね。あんな、悪魔の模造品と一緒にされては困るな。古代人に少しだけ闇についての知識を与えてやった結果があれだ……そこから、あれだけの物を作り出したのは、人間にしては大したものだと褒めてやるべきか」


 悪魔は顎に手を当て、考え込んでいる。

 ライトは相手の一挙手一投足を見逃すまいと集中している。一瞬でも意識を逸らせば、二度と目覚めることがない自分の姿が容易に想像できるからだ。

 目の前の悪魔からは濃厚な死の気配が漂い、ライトをもってしても生き延びる未来が見えずにいる。


「裏方に徹していた貴方が、私の前に現れたのはどういった心境の変化なのですか」


「我ら上位の悪魔が直接動いてしまうと、神に勘付かれ干渉される恐れがあったのでな、こうやって回りくどい方法を取らざるを得なかったのだが、既に気づかれていた事が判明した現状で隠れている意味がなくなったのが一つ。もう一つは、長きに渡る安寧の世界に胡座をかき、神の役割を作業的にこなすだけの愚か者の中にありながら、異変を予期し、我らを妨害する為に手駒を寄越す神がいた。その神と貴様に敬意を評し、姿を現したのだよ」


「神の手駒になった覚えはないのですがね」


 ライトは心底面倒くさそうに呟くと頭を掻く。


「神から力を与えられ、今も育成されている貴様が手駒ではないと。それに聖職者というものは、神に従順で指令があれば命を容易に投げ捨てると聞いていたのだが」


「まあ、人それぞれ個性がありますから」


 言うまでもないことだが、悪魔の聖職者に対する認識が一般的であり、ライトのような考え方をする者は極少数である。


「さて、問答はこれぐらいにしておこうか。貴様をこの場で殺しても良いのだが、そうすると神どもが最終手段に打って出る可能性がある。神の本格的な介入による世界の破滅は我らの主が蘇るまで避けてもらいたいのでな。今回は貴様を見逃してやろう」


 悪魔の上から目線の言い分に咄嗟に反論しそうになるが、ぐっと言葉を呑み込む。

 だが、相手の言葉の矛盾は指摘せずにはいられなかった。


「しかし、この会話を神が聞いていないとは思えないのですが。会話の内容を知った神が他の手段を取るとは考えないのですか」


 そもそも、神の依頼でこの村にやってきたわけですし。という言葉は口には出さず心の中に留めておいた。


「それならば問題はない。我が主の体が眠るこの場所を下っ端の神どもが干渉することは不可能。ここでの会話や出来事を知る術はない。混沌の邪神と呼ばれた主と同等の存在である光の神は、主との戦いで力を使い果たし眠りについたまま。光の神の従神が我が主の体に近づきたければ、貴様のような者を送り込むか直接この場に来なければなるまい。もっとも、主神である光の神の許しがなければ、従神はこの世界に直接降臨できんのだがな」


 そう言うと悪魔は口の両端を釣り上げ、邪悪な笑みを浮かべる。


「指示がなければ何もできない愚かな存在よ。それにだ、ライトアンロック。貴様を派遣した神――死を司る神は、今それどころではないはず。こちらに意識を割く余裕はない」


 そこで、言葉を区切った悪魔の意味深な笑みを見て、ライトは思考を巡らす。その言葉が何を意味しているのか、幾つかの考えが浮かび、その中から一番可能性の高い答えを口にする。


「まさか……死者の街に何かしたのですか」


「ご名答。我の仲間が配下の者共を引き連れ、死者の街を襲う手筈になっている。今頃、とても楽しいことになっているだろうな」


 ライトの脳裏に死者の街に住む友人の顔が次々と浮かぶ。

 今すぐにでも死者の街へ帰りたいと気持ちが急くのだが、彼らを助けに向かう為にも目の前の悪魔をどうにかしなければならない。しかし、神力を開放しても勝てるかどうか。

 ライトは冷静に判断して、勝てる見込みは薄いと思っている。


「向かいたいのなら止めはせんぞ? その代わり、ここに眠る主の腕は回収させてもらうが。闇の魔素をこの地に馴染ませ、忌々しい結界は崩壊寸前になっておる。これなら、我の力でも充分破壊できよう」


 ライトは一瞬たりとも目を逸らしていなかったのだが視界から悪魔が消え、耳元で囁く声がする。

 慌てて側面へ振り向くライトだったが、そこには誰もおらず、素早く周囲に視線を走らす。すると、先程までいた場所に、何事もなかったかのように平然と立つ悪魔がいた。


「どうするのかね。目の前で忌むべき存在である邪神の一部が蘇るのを見過ごし、友の住む街へと逃げ帰るのか。神の崇拝者らしく果敢にも我の前に立ちはだかるのか選び給え」


 悪魔の提案する二択にライトは迷いもせず、言い放つ。


「では、死者の街へ帰らせていただきますね。私は死を司る神に村へ向かってくださいと頼まれただけですし。腕の一本や十本好きに持って行ってください」


 そう言うと悪魔に背を向け、ライトは走り去ろうとする。

 ライトの返答に呆気にとられていた悪魔は、その背に慌てて声を掛ける。どうやら悪魔は究極の二択を迫り、悩み苦しむライトの姿を期待していたようなのだが、当てが外れたようだ。


「いや、待て。貴様は事の重大さが理解できているのか。世界にばら撒かれ封印された、主の体が全て解放されたら蘇るのだぞ。貴様らが混沌の邪神と呼び恐れた存在が」


「あ、はい。教えてもらいましたので、知っていますよ。ちょっと急いでいるので、もういいですか?」


 振り返り、あからさまに迷惑そうな顔をすると、再び背を向け走り出そうとする。


「だから待てと言っている! 貴様は世界の危機より友人を優先すると言うのか。聖職者でありながら、悪魔を見過ごすというのかね」


「はい、そうですが何か。そもそも、世界の危機とかそういう大層な話は苦手ですので、正義感溢れる勇者とか英雄とかそういった人に、話してあげてください。では」


 急いでいるのを隠そうともせず、早口で捲し立てると返答も聞かずに走り出す。

 数歩進むと進行方向に、黒い闇を全身から吹き出している悪魔が立ち塞がっていた。その表情は少しイラついているように見える。


「貴様は何を考えている。世界の危機を見過ごすというのか。聖職者として正義の心はないのか」


「ないです」


 迷わず即答したライトを悪魔は心底驚いた顔で凝視している。


「聖職者だから命を賭けて世界を救わなければならない……なんてことは無いはずですよ。勝手な思い込みによる考えは職業差別に繋がるので、やめていただけませんか。あと見逃すと宣言したのですから、放っておいてください。別れる別れると言いながら、いざとなったら引き止める女々しい男みたいですよ」


 ライトは大きく息を吐くと、体も表情も固まったままの悪魔の隣を通り過ぎようとしたのだが、横合いから伸びてきた悪魔の手が進行方向を遮った。


「気がか」


「気が変わったとか言わないでくださいよ。ま、さ、か、上位悪魔ともあろうお方が、約束一つ守れないなんて言いませんよね」


 口を開き悪魔が何かを言いかけたのだが、ライトが素早く言葉を被せる。

 言おうとした台詞を否定され、悪魔の口が無音でパクパクと開閉している。

 実はこの上位悪魔は駆け引きに弱い。人間に話しかける場合でも、圧倒的な力に恐れを抱き萎縮している相手とばかり話をしているので、対等に会話をする機会が滅多になかった。

 悪魔の陣営でも位が上の者には絶対服従が決まりとなっている為、口論になることすらない。人間で言うところの同僚と呼べる存在はいるのだが、この悪魔は影で陰謀を巡らすタイプだったので、接点があまりなかった。

 つまり、闇を植えつけ洗脳され誘いに乗るタイプや、高圧的な態度を保てる相手なら会話は成立するのだが、恐れもせず話してくるライトのような相手との会話は慣れていないのだ。

 もっとも悪魔の中には交渉術に長けた者もいるので、今回はたまたま上手くいっているに過ぎないのだが。


「ふっ、何故人間ごときとの約束を守らねばならぬ。とか言い訳じみた事を言い出さないでくださいよ」


 またも思っていたことを先に言われてしまい、悪魔の顔が屈辱で赤く染まる。


「それでは、穴掘り頑張ってくださいね」


 お返しとばかりに耳元でライトはそう囁くと、悪魔の横を通り過ぎる。

 悪魔は生まれて初めての感覚に体を震わせている。それは恥辱を受けた悔しさなのだが悪魔には理解できる感情ではなかった。


「なんなんだ、こいつは。何だこの気分の悪さは……」


 この嫌な胸に湧き上がる感情を消し去りたい。理屈ではなくそう思った悪魔は、この理解不能な感情を生み出した源であるライトを、跡形もなく消滅させようと決断する。

 ブツブツと呟くのをやめ、言い返されないように黙ってライトが立ち去った方向へ振り向くと――眼前には白銀の世界が広がっていた。





「何だ、何だ!? 今のは地震!? さっきは光の渦がぴかーって空へと伸びるし、爆発音が聞こえるし、どうなってるんだよ……ライト兄ちゃん……」

 村の片隅にナイトシェードと隠れているマースは、村一帯を襲った大きな揺れに怯え、布団に潜っている。

 闇が晴れ気分は良くなっているのだが、不安な気持ちが晴れることはなく、今もライトの身を案じ神へ祈りを捧げている。





 ライトの前には頭ごと上半身を吹き飛ばされ、腰から下だけの存在になった悪魔が立っている。

 あの時、一方的な会話により悪魔の冷静な判断力を奪い、頭に血が上った状態にさせると通り過ぎる振りをして立ち止まる。そして、悪魔の呟く声に合わせて、小さく『神力開放』と口にした。

 力が漲るのを確認すると相手に感知されるより早く、渾身の力を込めたメイスの横薙ぎを顔面へ叩きつける。

 ライトの思惑通り怒りで判断力を失い、攻撃のみを考え、防御に関しては完全に油断していた状態だったにも関わらず、上位悪魔が常時張っている不可視の障壁がメイスを受け止める。

 だが、それは一瞬の抵抗に過ぎなかった。

 ライトの手に何か硬いものにぶつかった感触が伝わってきたが、それは直ぐに消え去る。続いて感じたのは、何かを完全に破壊した時に感じる、いつもの手応えだった。

 メイスを完全に振り抜くと、その力の余波により悪魔を起点として扇状に後方の地面がえぐれ大地を吹き飛ばす。

 全身の力が抜ける前にライトは、まだ辛うじて動く腕を振り上げると、地面に横たわる悪魔の下半身へメイスを振り下ろす。

 悪魔の下半身も消滅し、周辺に悪魔の痕跡すら残っていないのを確認すると、ライトはメイスを杖代わりに体を支え、片膝を地面につく。


「そう言えば、名を伺うのを忘れていましたが、まあいいでしょう。何とか上手く行きましたしね。教団の人がこの戦いを見ていたら、騙し討など恥を知れ! と罵られそうです」


 肩で息をしながら、皮肉めいた言葉を吐く。

 これは賭けだった。あの時、悪魔が冷静な対応をしてきたのならライトは、本当にここを立ち去る気でいた。

 勝てぬとわかっていながら無駄な抵抗をする。ライトがそういった行動をとることは基本ない。普通にやって勝てぬというのなら勝てる状況に持ち込めばいい。

 その為に恥をかくことに何の抵抗もない。自分が死ぬことにより悲しむ人や困る人がいるのであれば、恥如きで助かるのであれば安いものだ。

 ライトには圧倒的な破壊力がある。これは、本来ならライトの手が届かない相手であろうが通用する異様な力だ。

 一撃を入れることができれば勝てる。ならば、それだけを考え行動すればいい。

話術で動揺を誘い、動きを鈍らせる。これを卑怯と罵るものはいるだろう。だが、フェイントを織り交ぜた攻撃で相手のミスを誘い、実力を出させずに倒す方法を卑怯と呼ぶものがいるだろうか。

 ライトに言わせれば、どちらも同じ。そう考えることにしている。自分が十年以上前にここで敵の言葉に動揺し痛手を受けたのも、自分の未熟さが招いたことだと理解している。


「死者の街が気になりますが、三英雄や他の皆さんも強いので大丈夫なはずです。気が焦ったところで、どうにもなりません。ここは体を休めて回復するのが先決です」


 自分に言い聞かせるように口にすると、メイスを収納袋へ片付け、地面へと仰向けに寝転んだ。

 このまま眠って回復をしようとライトは瞼を閉じるのだが、ライトは地盤が剥き出しの地面に投げ出した背に、微かな振動を感じる。

 気のせいかと思う程の微妙な揺れだったのだが、それは徐々に大きく激しくなっていく。


「……嫌な予感しかしませんね」


 ライトは地盤越しに地中から何かが這い上がってくるのを感じ取っている。それは、暗く強大で歪なナニか。


「呑気に寝ている場合では無さそうです」


 全身の気だるさと戦いながら、ライトはよたよたと、ふらつきながらも教会跡地から離れていく。

 約三分歩き続け、充分に距離をとったと判断すると、近くの民家の壁に背を預け、教会跡地の方角へ目を向ける。

 振動は立っていられない程の縦揺れとなり、風化していた民家が幾つも崩れていく。

 ライトは急激な眠気と戦いながら、意識をどうにか繋ぎ留め、今から起こる事を見逃すまいと瞼に力を入れる。

 地震と地鳴りが前触れもなく止み、ライトが不審に思い目を細め見つめる先の地面が、大地を吹き上げ、爆音と共に大きく爆ぜた。

 砂煙を上げながら教会跡地から何かが天に向かって伸びていく。

 それは巨大な一本の塔のように見える。鈍く輝く黒い塔が大地を引き裂き、空へと高さの限界が存在しないかのように伸び続ける。


「これは、もしや……」


 唖然としていたライトだったが、更に驚きの事態が襲いかかる。

 黒い塔が更に四本、等間隔に湧き出てきたのだ。その黒い塔はライトを半円状に取り囲むかのように地面から飛び出してくると、一本目と同様に上空へと伸びていく。

 ライトから向かって一番右手にある塔が真っ先に動きを止めた。続いて、左端、右から二番目、左から二番目、最後に真ん中。

 動かなくなった五本の黒い塔をライトは見比べ、唾を飲み込む。いつの間にか乾ききっていた喉に潤いを少しだけ与える。

 その太さも長さも異なる五本の塔に見覚えがあった。

 その塔は真っ直ぐに建っているわけではない。途中で二箇所だけ少し折れ曲がっているのだ。何故か一番左端の一番短いが太い塔は、一箇所しか折れ曲がっていなかったが。


「まるで、人の指のようですよ。もしかしなくても、あれが邪神の指ですか」


 ライトの発言に応えるかのように、五本の塔――邪神の指が円を書くように動いている。その指先が描く軌跡は消えることなく黒い闇が残る。五本の指先一つ一つに黒い円形の輪が停滞している。

 その輪が回転を始めると、輪の内部に小さな稲光が幾つも走り、空間が歪み始める。

 そして、ガラスが割れるような音が鼓膜を震わすと、輪の内部から見える光景にひびが入り弾け飛んだ。

 そこには漆黒の闇があり、闇の中から無数の魔物が這いずり出てくるのが見えた。

 魔物たちは闇から現れ、アリの大群のように邪神の指を伝って地面へ向かい降りていく。


「これは意識を失っている場合ではありませんね『治癒』」


 ライトは神力の影響で壊れかけていた体を治すと、壁に手をつき立ち上がる。地面へ降り立った魔物の群れがライトを見つけたらしく、地響きを立て迫って来る。


「倒すのは無理だとしても、せめてマースさんが逃げるだけの時間を稼がないと」


 意を決し一歩踏み出そうとしたライトを止めたのは、


「ライト兄ちゃん、いたー! ナイトシェード号、急いで!」


 魔物を踏み潰し、弾き飛ばしながら現れた一人と一頭だった。

 ナイトシェード号は立つこともままならないライトの襟首を噛んで持ち上げ、開け放たれていた透明の箱上部の入口から中に放り込んだ。

 敷き詰められていた布団に受け止められたライトの胸に、マースが飛び込んでくる。


「兄ちゃん、兄ちゃん! 無事か、怪我は!? 動けないみたいだけど、どうしたんだよ。何があったんだ! そこら中から魔物が湧いてくるし、心配したんだからな!」


 胸に顔を埋め泣いているマースの頭にライトは軽く手を添えた。


「すみません。ですが、先に逃げて良かったのですよ。いざという時に使うようにと転移石渡しましたよね?」


「そんなこと、できるわけないだろ! それに、たぶんこの石使えないよ。あの変な塔みたいなのが生えてくるまで、綺麗な青い光り出てたけど今は光ってないから。でも大丈夫、兄ちゃんを連れてここを突破すればいいだけのことだし。ナイトシェード号、ほら早く脱出して!」


 足を止めていたナイトシェードは悲しそうに一度嘶くと、顔を左右に大きく振った。

 ライトは透明の壁越しに外を見て理解する。


「そうですか、もう逃げ出すことも無理なのですね」


 三百六十度、闇属性の魔物の姿しか見えず、それが地表を埋め尽くし大地を黒く染めている。逃げ道など何処にも存在していない。


「もう、ダメなのかな。でも、兄ちゃん。俺怖くなんかないぞ! 兄ちゃんが、傍にいてくれるからっ!」


 マースがライトの鍛え上げられた体に腕を回し、離すものかとキツく抱きついてくる。

 せめて彼女だけでも逃がしてあげたいとライトは思うが、何も策が浮かばず震えの止まらぬ身体を抱きしめてやることしかできなかった。


「兄ちゃん……最後に一つだけ我が儘言っていい?」


 マースは今にもこぼれ落ちそうな涙を湛えた状態で、下から上目遣いでライトへお願いを口にしようとしている。ライトは嫌な予感はしたが少女の決意を感じ取り、小さく頷く。


「あのな。違う、あのね。俺、じゃない、私さ最後ぐらいは女の子として、死にたいんだ。だから、あのさ……キスしてくれないかな」


 そう言って、目を閉じると顔がライトへと徐々に近づいてくる。

 最初で最後の相手が自分で良いのかと心配にはなったが、ここは空気を読みライトは受け入れて上げるつもりで顔を――


『て! ん! ば! つ!』


 誰かの叫ぶような声と同時に、天から神々しい光が何条も降り注いでくる。

 ライトは咄嗟に天井部分にある出入り口から体を出すと、残っていた魔力を振り絞り『聖域』を唱える。透明の箱とナイトシェードを含めた範囲を光の壁が囲む。

 天から射す光に魔物たちが炙られ霧散していく。闇の魔物にとっては死の光だが、人間にとっては何の害もない聖属性の光を浴び、照らし出されている者がいた。

 一人の白い法衣を着た女性が民家の屋根の上に立っている。

 ライトに背を向けていた女性は勢いよく振り返ると、少し赤ら顔で鋭い視線をライトに突き刺している。


「人が危機を何とか回避し、てめえが心配だから苦労してやってきてやったら、てめえは見知らぬ女といちゃついていたのか。ああ、悪かったな、邪魔して! 遠慮せずに続きなり、その先もやればいいじゃねえか!」


「お久しぶりですね、ファイリ。と言っても結構最近まで会っていましたが」


 ライトが笑顔を向けると、ファイリは体ごと横へ向き視線を逸らす。

 天罰の光に運良く当たらなかった何体かが、ファイリの背後に忍び寄り襲いかかろうとするが、巨大な黒い鎖に体を貫かれる。


「油断は禁物だぞファイリ。ライトアンロック……いらぬ世話だったようだな。そうか、死ねばいいのに」


 ライトのすぐ側の地面に黒い渦が発生すると、その中から白い燕尾服を着た長髪の美しい女性が現れる。その女性はファイリと同様に冷めた鋭い視線をライトへ飛ばしている。


「ロッディゲルスまで来てくださったのですか。ありがとうございます」


 二人の女性からの身も凍るような冷たい視線を物ともせず、ライトは平然と礼を述べる。

 ライトの隣にいるマースは突然現れた女性二人の凄みのある気迫に怯え、ライトへ更に身体を密着させるのだが、その様子を見て二人の全身から滲み出る不機嫌なオーラが増す。


「まあ、その女の話は後でたっぷり、じっくり、聞かせてもらうことにして……まずはここから撤退するぞ!」


 民家の屋根から透明な箱の上に飛び降りたファイリは撤退を宣言する。


「と言われても、見渡す限り魔物の海なのですが」


「心配には及ばん。村の入り口付近にイナドナミカイ教団の精鋭が待っている。そこまで敵を蹴散らせばいい!」


 箱の上に雄々しく立ち、村の門がある方向を指さすと、ナイトシェードが大きく嘶き全力で駆けだす。

 魔物がそれを見過ごすわけもなく、天罰の範囲から逃れていた魔物たちが一斉に襲い掛かってくる。


『聖滅弾』『極鎖』


 横殴りの雨のように光の弾が魔物へと降り注ぎ、大蛇のようにうねる鎖が敵を弾き飛ばし、退路を作り出す。

 信頼のおける仲間の活躍を見守りながら、ライトは瞼を閉じる。

 これから続くであろう戦いの日々を乗り越えるために、少しでも早く力を取り戻す必要性を感じ、この場は仲間に全てを託した。 

 


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