お母さんと一緒
私は天使を育てている。
天使とは神の従者であり、翼の生えた人間を指す。
人々の前に現れ、神のお告げを伝える役目を負っているので、相手に神々しさを感じさせる演出として、外見が人並み以上であるというのは必須条件だ。
まあ、それは本物の天使であって、私の育てている天使というのは物の例えだ。
あのつぶらな瞳、愛くるしくぷにぷにした唇。さらさらと指通りの良い髪。少し舌足らずな物言い。全てが可愛らしく、そして愛おしい。
ああ、私はもう駄目かもしれない……母として……神として。
「母さんどうしたの?」
私の愛しい愛しい息子が、濁りの一切感じられない純粋な瞳で見上げている。その声には私の体調を心配する優しい気持ちが満載で、体が勝手に動いてしまう。
「母さん、急に抱き付いてどうしたの?」
「ライト、お母さんの事好き?」
急な私の問いかけに、可愛すぎて人攫いに遭わないかと心配になる息子が、満面の笑みを見せる。
「だいスキだよ!」
「うおおおおおっ、ライトぉぉぉっ! もう、キスするううううぅ」
もう辛抱できない。ああもう、この子の為なら神の座も惜しくないわ。
司祭の法衣を着こんだ黒髪の女性が、奇声を上げながら子供に抱き付くと、ほっぺや唇にキスの嵐を叩きつけている。
「母さん、べとべとするよぉ」
抱擁と接吻が激し過ぎて、唾液まみれになった子供が母の体を押しのける。
司祭姿の女性は子供を離すまいと力を込めていたのだが、子供はあっさりと母の腕の中から抜け出すことに成功する。
「ごめんね、ライト。つい、お母さん興奮しちゃった。最後の一歩まで踏み出しそうで、危なかったわ」
頭を軽く拳で小突き、舌を出す姿は可愛らしいのだが、子供――ライトにとっては見慣れた光景で、少し呆れた表情で小さくため息を吐いた。
「母さん、お顔洗って外に行ってきていい?」
「いいけど、村の方には近づかないのよ」
「うん……僕嫌われているもんね」
誰よりも優しい心を持つ息子が、寂しそうにしている姿を見て、母は拳を握りしめた。
「あの、村人たちなんか気にしなくていいのよ! あのボケ共は、こんなに健気で優しく可愛らしいライトの良さがわからないなんて、いっその事、本気を出して滅ぼしてしまおうかしら……」
自分が何故ここにいるのか、その役割を完全に忘れている発言を口にしている司祭の女性――その正体は死を司る神である。
ライトアンロックの中に光の神が封印されていることを知り、死を司る神はこの村に赴任してくる筈だった司祭の女性に成り替わり、ここにいる。
この村には闇の神と光の神の断片が地中深くに眠っている為、神の力を以てしても視ることができず、こうして人に扮して直接地上に降りるしか手がない。
それこそ、配下の天使を向かわせればいいと思われそうだが、二人の神の力が強く残る地なので、生半可な実力では偽りの体を維持できないのだ。
死を司る神は、ライトが死ぬことにより封印されている光の神が目覚めることを恐れ、村人の反対を押し切りライトを引き取って育てることにした。
そして、自分の元で強く育て、いずれは封印された光の神を滅ぼす力を手に入れさせるという算段だった。
そう、始めの予定はそうだったのだ。
それが『神力』の影響で内臓や骨が傷つき、自分がいなくては生きていくことすらできないライトの面倒を見ている内に――母性に目覚めてしまった。
それも、かなり溺愛の方向に。
「母さん顔が怖いよ……」
「あら、ごめんなさい。そうだ、出かける前に渡してくれる?」
「はーい」
首元のネックレスを外すとライトはそれを母へ手渡した。
そのネックレスには大きな白い魔石が取りつけられていて、そこに母が手を当て何かを呟くと、その魔石から淡い白銀の光が漏れる。
「これで、大丈夫ね。はい、肌身離さず持っているのよ。無くしたらダメよ」
「うん、わかってる!」
無邪気に微笑む息子を見ていると、母性が疼き出したらしく両手の指が怪しく蠢き出している。ライトを再び抱きしめる気のようだ。
「じゃあ、いってくるねー!」
毎度の事なので既にその動きを察知していたライトは、素早く踵を返すと扉から出ていった。
「ちっ、逃げられた! はぁ……ライトはいい子に育っているわね。それだけに、心が痛いわ……」
自分の目的の為に子供の肉体を改造し、困難が待ち構えている運命を背負わせようとしている。そうしなければ、いつかはライトの体を光の神が乗っ取り、ライトの自我は消えてしまう。
間違ったことはしていない。
と死を司る神は思っている。この世界の未来と神としての責務を考え、この行いは正しいと冷静になった脳が告げている。
だが、心は――母として目覚めてしまった母性が、本心が、自分を許せないでいる。
「ごめんね、ライト。本当にごめんなさい……」
母の懺悔交じりの嗚咽は、村外れの小さな小屋に響き続けていた。
「今日もいるかな」
ライトは通い慣れた森の中を駆け抜けている。
町からは遠く自然が多い辺境の地にライトの住む村はある。こういった辺境の村には普通魔物が多く生息し、森の中に子供を一人で向かわせるなんてことは、常識としてあり得ないのだが、ここは違った。
何故かこの村の近辺に魔物が現れることは殆どなく、動物のみが生息しているので、村から離れ過ぎなければ子供でも危険が少ないのだ。
それに、子供とは思えない力を得ているライト相手では、低レベルの魔物なら身体能力のみで撃退できる可能性が高い。
そんなライトは森の中で探し物をしている。ここ数日の日課としている事を今日もやる為に、いつもの場所を散策していた。
「あ、いたいた」
ワイルドウルフの親子を見つけ、ライトは歩み寄る。
ライトの姿が見えるまでは、警戒し小さく唸り声を上げていたワイルドウルフの母だったが、丈の高い雑草を掻き分け、顔を出したライトを見た途端に唸り声を止め、その場に寝そべった。
子供のワイルドウルフは尻尾を振りながら、ライトの足元まで駆けていくと、その脚に体をこすりつけている。
「元気だね、シロのお母さんも傷はどうかな?」
子ワイルドウルフの頭を撫でると、母親の元へとライトがそっと近づく。
ちらっと、視線をライトに向けるが母親は特に気にした様子も見せずに、寝転んだままだ。
ライトは太ももの治りかけの傷を確認すると、そっと傷口に手を近づけた。
「じゃあ、いつものをするね『治癒』」
突き出された手から溢れる光が傷口に注がれ、赤く細い裂傷が見る見るうちに消えていく。
「よっし、これでもう大丈夫かな」
大人ぶって腕を組み、満足そうに何度も頷いている。
もし、この光景を誰かが目撃したら、我が目を疑うだろう。
人を襲い食うこともある魔物、ワイルドウルフが大人しく人間の治療を受けている。まず、その事がこの世界の常識から逸脱している。
産まれた時から人間が飼育し猟犬とする狩人は存在しているが、野生のワイルドウルフが人間に――それも、良質な餌である人間の子供に手当てを受けている。
更にその子供が、かなり幼いにも関わらず神聖魔法を発動しているという状況も、常人なら信じられないだろう。
神聖魔法に関わらず魔法というものは、教育機関や師匠の下で教えられ、早くても十歳で初めて発動させることができる。
もちろん例外はある。大賢者として人々に知れ渡っている、大天才マドルゴウスですら八歳で初めて魔法を発動させたという話だ。
この時、ライトは六歳前後。天才と称されるに相応しい魔法の才能である。そして、ライトも自分は魔法の才能があると思いこんでしまうのだが――その自信は学園で覆されてしまう。今のライトには関係のない事だが。
「あ、ごめん。ご飯持ってきていたんだった。パンとお肉の残りだけど」
余った夕食を箱に詰めて運んできたライトは、その箱を開けワイルドウルフの親子の前に差し出す。
子供が飛び付きがっつく隣で、母親は静かに子供が食べ終わるのを待っている。
ライトはその場に座ると、いつものように二匹へ話しかけた。
「昨日ね、帰った後、村の人とあって挨拶したのに、みんな逃げるんだよ。酷いよね」
昨日会った村人との場面や、母の溺愛ぶりをライトは語り続ける。
二頭はただ黙々と食事を続けているだけなのだが、ライトは気にも留めず話を止めようともしない。
ライトは生まれつきの人並み外れた怪力を恐れられ、村人に「悪魔の子」と呼ばれている。一度は村人の手により殺されそうになったのだが、そこを死を司る神が救い出した。
ライトとしては嫌われているという事実は理解しているのだが、まさか、殺されかける程、恐れられているとは思っておらず、いつか村人と仲良くなりたいと考えていた。
そんな関係なので村の子供たちと仲良くなるどころか、まともな会話をしたことすらなく、友達などいるわけもない。
ライトにとって日常の話ができる相手は母と、このワイルドウルフの親子のみだった。
「じゃあ、母さんが心配するから、もう帰るね。明日くるから、あと一回『治癒』掛けたら動けるようになると思うよ。またね」
ライトは大きく手を振ってその場から離れる。ワイルドウルフの子供はその場でくるくる回りながら尻尾を振っている。母親は黙ってライトの背を見つめていた。
「お昼過ぎちゃったかな。母さん心配していないといいんだけど」
森を抜け、家の裏手から現れたライトを見つけた死を司る神は、慌てた様子で駆け寄り、その肩を強く握りしめた。
「ライト、何処行ってたの!?」
「この森の奥だよ?」
「やっぱり……変なモノに遭わなかった?」
「変なモノ?」
ライトは意味がわからず、小首を傾げている。
「ええとね、さっき村で騒ぎがあって話を聞いたのだけど、強い魔物が村の近くに現れたらしくて、今警戒中なの。ライトも暫くは家から出ないようにしてね」
魔物という言葉に反応し小さく体を震わせたライトは、恐る恐る次の言葉を口にした。
「それって、おっきな狼さん?」
「ワイルドウルフの事かしら。違うわよ、もっと、もーっと怖くて強い魔物よ。ワイルドウルフは、どっちかというとその魔物に食べられちゃう方ね。ライトもお家の外に出たら、その魔物に食べられるかもしれないから、絶対に家を出たらダメよ」
そう言って死を司る神はライトを家に入れ、窓と扉の鍵を閉めると、村人に協力して魔物を倒す為に、村の広場へと向かって行った。
取り残されたライトは気が気ではない。母の強さは知っているので微塵も心配していないのだが、あのワイルドウルフの親子が頭から離れない。
数日前、発見した時も何かから逃げてきた感じで、足に大怪我をしていた。たぶん、あれはその怖い魔物に付けられた傷だと、幼いながらもライトは理解する。
その魔物にあの親子がまた狙われるかもしれない。それに、村人が魔物である親子を見つけたら殺してしまうかもしれない。
「助けないと!」
居ても立っても居られなくなったライトは、鍵のかかった扉を怪力で蝶番ごと引き剥がすと、裏の森に突っ込んでいく。
ライトにとって唯一の友達である二匹を助けたい!
必死になって森の中を駆け抜け、さっき二匹がいた場所近くにライトがたどり着いた。その時、大きな唸り声と小さく甲高いワイルドウルフの子供の声が、ライトの耳に届く。
「ここっ!」
声の聞こえてきた場所にライトは躊躇いなく飛び込んだ。うっそうと生い茂る雑草を抜けた先には、全長三メートルはある巨大な熊と睨み合う、二匹のワイルドウルフ親子がいた。
「シロたちから離れろ!」
ライトは足元に転がっていた、自分と同じ大きさの石を持ち上げると、その熊に投げつける。
唸りを上げて迫る石……というよりは岩と呼ぶに相応しいそれを、熊の巨大な手で払い落した。
側面からの不意打ちに怒りを覚えた熊の頭の一つが、殺気を孕んだ視線をライトに向ける。
「この熊、変だ!」
ワイルドウルフの前に飛び出し、背後に庇ったライトはそこで初めて目の前の熊に顔が二つあることに気づいた。
さっきまでは側面にいたので、正面に回り込むまで気が付いていなかったのだが、巨大な熊には顔が二つある。それも、熊の顔が二つ並んでいるわけではない。
熊の頭の横にあるのは、髪の長い虚ろな瞳をした人間の女性の頭が、熊の体から生えていたのだ。
その異様な造形にライトは立ちすくんでしまう。
熊の顔は牙を剥き出しにして、口から大量の涎を垂らしている。
その隣に並ぶ女性の顔は目を細め、ライトの姿を爪先から頭のてっぺんまでじっくりと観察すると、嬉しそうに大きな口を笑みの形へと変えた。
「いい、この子、本当に美味しそう……あんたには手と足を上げるから、私には頭とお尻を頂戴ね……」
目の前の奇妙な魔物の二つの顔が同時に舌なめずりすると、一気に襲い掛かってきた。
恐怖に体が硬直するライトに成す術はなく、二つの大きな口がライトに噛り付こうとするのを、ただ見続けるしかできないでいた。
「うちの子に何すんのよ!」
ライトの視線の外から何かが怒気を含んだ叫びと共に飛び出し、熊の脇腹に直撃すると、二つ頭の熊が嫌な音を響かせ、衝撃のあまり体が二つに折れ曲がった状態で、森の奥へと吹き飛ばされていく。
二つ頭がいた場所には膝を突いた状態で息の荒いライトの母――死を司る神がいた。
「ダークワイルドベアーの亜種ごときが、ライトを食べようだなんて……息子に手を出していいのは私だけよ!」
この場にいるのが成長したライトならば、その言葉の意味に身の危険を感じただろうが、幼い頃のライトには理解ができなかった。
「母さん……怖かった、怖かったよおおおっ! うええええっ」
涙を流し怯えた表情で胸に飛び込んできたライトを、死を司る神が優しく抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だからね。あああ、もう、弱ったライトも何て可愛らしいのかしら。はぁはぁ、だ、ダメよ。私はお母さん。息子にそんな……でも、ああっ」
愛情が暴走しかけている母の様子に気づかないライトは、体の震えが止まるようにギュッと母を強く抱きしめる。
「ああん、そんなに強く抱擁されたら、もう限界……い、たい、ライト、痛い、痛い、痛いいいいっ! ちょっと離して、離してぇぇ!」
骨が軋み、絶叫を上げる母を遠巻きに眺めていたワイルドウルフの親子は、顔を見合わせると少しずつ後退り、その場から撤退した。
この日、母は脇腹を骨折し、ライトは貴重な友達であったワイルドウルフの親子を失うことになる。