カクテル2
「ねぇねぇひかり。水着貸して♪」
「どしたのいきなり? まさか烏龍茶で酔った訳じゃないわよね?」
ひかりはグラスを磨きながら、カウンターに頬杖を付いて微笑む幼なじみに呟いた。
ひんやりとエアコンの効いた薄暗い店内に、灰皿に横たわる一筋の煙草の煙が、
柔らかい輪郭で糸を紡ぎ暗い天井にすーっと吸い込まれていく。
灰皿の縁を人差し指でなぞりながら、一方で烏龍茶を少し飲んでから、彼女は呟く。
「違うよ~来週彼と海に行くんだけどいいのないし、買うのも面倒だから。ひかりセンスいいもんね」
「んー、でもさおりにはきついんじゃない?」
ひかりは意地の悪い笑みを浮かべながら、手近に置いてあったオリーブの実を口にした。
これはひかりのよくする癖で、こうして集中力を高めるのだと友人たちにひかりは語っていた。
「意地悪言わないでよ! 頑張るからお願い~」
さおりは両手を合わせて、少しにやにやしながら言った。
(何を頑張るのよ)
そのにやけ顔を一瞥しながら、はぁとひかりは胸中で呟いた。
「しかたないなぁ。いいよ、もうあたしには多分必要ないからあげる」
「え、本当!? サンキューもうマジか~わ~い~い~♪」
「・・・・・・なんかむかつくなー」
ちょっと気恥ずかしくてそんなことを言ったが、さおりはそれを気にもせず笑って見せた。
と、その時
カランカラン・・・・・・
ベルの音のあとに、
「いらっしゃいませ」
扉を閉める私の背中に、聞き覚えのある声がかけられた。
振り返ると、ぼんやりしたオレンジ色の明かりの中に一人の女性がぽつんとたっている。
開店時刻からそれほど時間が経っていないせいかお客は、
カウンター席の右端に女一人だけ腰掛けていた。
この店を知って、もう三年ほどになるがこの時刻に来たのは初めてだった。
そのせいか、なんだか落ち着かない。
私はお気に入りだったカウンター席中央に腰掛けると、
すっと差し出されたおしぼりで瞼を軽くふいた。
「お久しぶりですね木村様。・・・二ヶ月ぶりでしょうか」
「そうですね。ひかりさんは変わらないですね」
「いえいえ皆様から日々いただくお褒め言葉のおかげです。
毎日充実した日を過ごさせていただいております。さてご注文は、いかがなさいますか?」
「んー、ジントニック、もらえますか? あと鴨肉スライスしたやつも」
バーテンダーは眼をやや細めると軽く頭を下げて、
「かしこまりました」
呟いた。
この仕草が、私は内心好きだったりする。
慎ましやかで凛としているような雰囲気のある女性は見ているだけで気持ちいい。
そんなことを思っている間に、カクテルが完成してコースターにグラスが腰掛ける。
「不躾で申し訳ありませんがなにか、お悩みでもおありですか?」
私グラスを見つめていた眼を彼女に向けた。
眼を細めて、まるで黒曜石のような美しい瞳をこちらへまっすぐとむけている。
「ん、いや」
理由は分からない、私は軽く首を振って一口飲んだ。
かすかな酸味が口の中に広がり爽やかな後味がふわりと私の脳内を揺さぶる。
(空腹にはやはり応える)
私は静かに息を吐くと、再び彼女の顔を見返した。
バーテンダーは変わらぬ様子でこちらを時々見つつ、
まるで精密機械のようにグラスや氷、彼女の子供達であるボトル達を操る。
カランカラン・・・・・・
「いらっしゃいませ!」
4人ほどの男女が、テーブルに座った。
入り口の近くにあるトイレの隣に従業員扉があって、
そこから若いボーイが出てきて彼等にメニューを差し出す。
その様子を、まるで自分の子供でも見るかのように暖かく彼女は見つめていた。
「あのさ、一つ意見を聞かせて欲しいんだけど・・・良い?」
「はい。私でよろしければ」
作業の手は止めずに、眼だけを私に止めてそう答えた。
・・・・・・BGMがアップテンポなものからしっとりと哀愁漂うものに変わる。
音楽とここの空気に後押しされて私は静かに、言葉を間違えぬよう慎重に話した。
まず自分は営業の仕事をしていて、転勤が多くせわしないこと。
実家のある街に恋人を残してきたこと。
最近また隣の県にある支店へ異動になったこと。
そのあと突然恋人に別れを切り出されたこと。
恋人は私を嫌いになったわけでも、他に好きな男ができたわけでもなく
ただ別れたいと言う話だった。
自分の中では別れたくないという気持ちが強く、しかしどうすればいいのか・・・
それについて、端的に話した。
見慣れたこの女性バーテンダーは、一言も発さず耳だけを私に傾けてくれていた。
お洒落なグラスに、鮮やかな色の液体を注ぐ様子を眺めながら、
自分の気持ちの断片と重ね合わせ胸が詰まりそうになった。
話を終えて目頭が熱くなった私は不意に目線をグラスを持つ自分の手に置く。
沸き上がる衝動に驚いている自分の内から、かすかに漏れた想いが手を震わせている。
(弱いな・・・)
胸中で呟くと、ふっと息を吐いて聞き手となってくれていた彼女に視線を戻す。
仕事が少し落ち着いた様子で、彼女はまたグラスを磨く作業に戻っていた。
視線がぴたりと合う。
「・・・それで、別れたくないんだけど。なにか良い方法ない?」
彼女は口元に柔らかな笑みを浮かべ、眼を細めると口を開いた。
「そうですね一言だけ申し上げさせていただきますと、
馬鹿なくらいロマンチックになるですかね・・・
色々、お二人にしか分からない悩みもあるでしょうからあれこれと申し上げられませんが、
現実を直視しがちな私たちでもたまには、夢を見たがる習性だと思うんですけど・・・
うーんうまくいえないな。生意気いって申し訳ありません」
女性バーテンダーは、気恥ずかしそうにコンポの所へ足早に歩いて音量を上げた。
「いや、いいよ。ありがと」
歩いていく彼女の背中に呟く。
酔いのせいか感傷的になったせいか、突然眩暈を覚えて目頭を押さえる。
その隙間から、涙が滲み出てきたことに驚く。
咳払いをしてグラスの液体を一気に飲み干すと、気恥ずかしさからか私は苦笑した。
その時、私は『もう終わろう』と心に決めた。
そこまで彼女を追いつめた自分と決別するためにも、
それでお互いが将来別々の道で幸せになることができたらそれで良いと思えたからだ。
淡く熱く沸き上がるこの気持ちを意識のそこにゆっくり沈めながら、バーテンダーに呟いた。
「コットンフラワーを」
「はい、かしこまりました」
相変わらず静かで凛とした物腰で軽く会釈をして、彼女は微笑んだ。
その微笑みが失った女性とだぶって、私はまた眩暈を覚えた。
ガチャ
カランカラン・・・・・・
「ありがとうございました。
またのご来店、心よりお待ち申し上げております」
・・・・・・
「大丈夫?」
「ん、なにが? なんか飲む?」
「じゃぁ、水ちょうだい」
「ほーい」
ひかりはきょとんと仕事とは180度違う間の抜けたトーンで答えると、機械的に素早く水を渡す。
すでに日付は代わり、閉店まで小一時間ほどだがこの悪友は来店したときから
まったく変わった様子もなくカウンターの片隅に腰掛けている。
お客も、さおり一人だけで今夜も終わりだという影が佇んでいるようだ。
ひかりは映画音楽も良く聴きいまは「シェルブールの雨傘」の流麗な音楽が
薄暗い店内に腰掛けていた。
ただ、さおりはその音楽がひかりのなかでの思い出の曲と直感的にわかっていた。
しかしひかりも、さおり自身も聞かれることが趣味ではないので語ることはないが、
まるで不意に見た夕焼けに感動したあと、ひどい寂寥感に襲われることに似たその感情
が淡くこみ上げているのではないかと、オリーブを加えながらグラスを磨く
友人を観察しながらそう思った。
「恋愛って、ほんとう融通が利かないわよね」
整然と並び照明によって神秘的な輝きを放つボトル達をカウンター越しに眺めながらさおりは呟く。
意識的にひかりを一瞥すると、ちょうど目があった。
ひかりは、軽く頷いていつものように目を細める。考え事をしている時の
この癖がさおりは内心好きだった。
嘆息混じりに、加えたオリーブを口からだすとひかりは呟いた。
「会えないときに会えないのと、話したいときに話せないこと。
そのどちらも叶えられなくなったら終わりだと言うことって言えるかな?」
さおりはこくんと頷いて、
「確かに。もちろん例外を認めた上でね。そして誰もが自分たちは例外と信じて悲しむのよ」
「・・・馬鹿だよねー」
くすりと、ひかりは微笑む。目を細め、さおりの瞳を覗き込むように呟いた。
最小限の会話で分かり合える友人に、ひかりは心底感謝した。
「そうねでも、そんな人生もまんざら嫌いなわけじゃないでしょ?」
「・・・もちろん」
お互い顔を見合わせて微笑む。
ひかりは磨いていたグラスに水を注いで、さおりと乾杯した。
カンッ、カラン
氷がグラスにこすれる音とガラスとガラスがこすれる音。
それぞれの音が虚しく店内に沈み、静寂がBarの住人を包み込むとやがてBarはまた眠りについた。
これも会社の同僚の実話を元に書きました。
結末は残念でしたけど・・・