4-9 男流名人戦⑦
――正しく受けられれば、プロには決して通用しない。
そう言葉にするのは簡単だが、逆に言えば一手でも間違えてしまえば、どんなに強いプロでも挽回不可能ということ。
フィジカルスポーツと違って、正しく指したならば子供でも名人に勝てる。将棋とはそういう競技なのだ。
そして横歩取り超急戦は、詰みまで研究されている形もあるという。俺は今のところ、その地雷を避けている……はずだ。
「ふううっ……ここで休憩にします」
俺は記録係に伝えて席を立った。間もなく正午。規定の時間まであと数分だったが、こうして早めに休憩に入ることも可能だ。午前から予想以上に頭を使ってしまい、一刻も早くリフレッシュしたかった。
藍沢さんは姿勢良く正座したまま、まだ盤面を見つめていた。その顔からは、やれているという自信が窺えた。そんな彼に、俺は黙って背を向けた。
自室に戻ると、すでに昼食が用意されていた。松花堂弁当だ。
通常の昼食は自費だが、有名旅館で行われる今日の対局は、スポンサー持ちとなっている。過酷な対局の中で、唯一の楽しみといったところだ。
「――さて、どうするかな」
滋味を堪能しながら、俺は頭の中に将棋盤を思い浮かべた。
すでに終盤戦の入口という状況だが、おそらくはここまで藍沢さんの研究範囲内。
四十代の彼は、俺の人生よりも長く将棋を指しているのだろう。今日の戦型にも一日の長があるというわけだ。
だから俺が上回れるのは、読みの深さ。それ以外にない。
「よし、ごちそうさんっと」
方針は決まった。
まっすぐなレールを走っているつもりの藍沢さん。ひとまずはその進路を、無理にでも外れてもらおう。
休憩時間が終わり、午後の対局が開始する。
俺はすぐさま、駒音高く着手した。
最善と思われる手は見えていたが――あえて次善手を放つ!
「むっ……?」
藍沢さんは眉をひそめた。
その反応で、彼の読みを見事外したのだと直感する。
膨大な変化を内包する将棋。その数多の変化をすべて記憶するのは、トッププロでも不可能。
ゆえに最善ではない手を指して、逆に相手の研究を外す。これも将棋の立派な作戦だ。
これまでの消費時間は俺のほうが多かったが、たちまち逆転した。藍沢さんは何度も長考に沈む。
「ふうむ……そっか」
ぼやきも多くなってきた。手にした扇子を何度も開いては閉じ、雨がしとしと降る窓の外を眺めたりする。
そしてついに、彼は致命的なミスを犯した。
「っ……!」
指を駒から離した瞬間、藍沢さんの顔面に翳りが見えた。
悪手というのは不思議なことに、指す直前までそうだとわからないものだ。指した瞬間、とんでもないミスをやらかしたと自覚するのである。
今の藍沢さんも、その例に漏れなかった。
(これが、プロの将棋だぜ藍沢さん)
あとは元々の地力の差を見せつけるのみ。粘る暇を与えず、容赦なく藍沢さんの玉を追い込んでいく。
藍沢さんはロマンスグレーの頭に手をやってから、がっくりと肩を落とした。
「ああ――負けました」
その瞬間、報道陣が襖を開けて雪崩れ込んできた。
中継されている棋譜から、決着は時間の問題だとわかっていたのだ。
「最上さん、初代男流名人おめでとうございます!」
報道陣のひとりが興奮した様子で口にした。
――ああ、そうだ。タイトルホルダーになれたんだ、俺。
たったの四人で争った、小さな棋戦だった。
そもそも男流棋士というのが、当初思い描いていた未来とはずいぶん違っているけれど――名人と名の付いたタイトルを獲得した。素直に嬉しい。
「おめでとう、最上くん。途中までいい勝負だったと思うんだけど」
晴れやかな顔で言う藍沢さん。俺も笑顔で応じる。
「まさかあんな奇襲を仕掛けてくるとは思いませんでしたよ。ヒヤヒヤしました」
「秘蔵の作戦だったんだけどね。予想していなかった手を指されて、戸惑ってしまったよ。あとは勝手にこちらが転んでしまって」
感想戦は和やかに進んだ。今後のために、横歩取り超急戦もしっかり勉強しておこうと思った。
なおもうひとつの対局は、浜崎さんがタケルに勝って、どちらも1勝2敗になったという。1勝はできて、浜崎さんも胸をなで下ろしたことだろう。このあと、また男四人だけで盛大に打ち上げを開こうか……。
「それでは最上男流名人、このあと記者会見がありますので」
感想戦を終えると、協会の職員が声をかけてきた。
記者会見……新たなタイトルホルダーとしての抱負とかを、さっそく世間に向けて表明してほしいわけだ。何も考えていなかったけど、まあ何とかなるだろう。
会見場のホールに向かう途中、思わぬ姿を目にした。
「あれ、玉輝さん?」
「おめでとう、銀河。いや、最上男流名人」
ピチッとしたスーツ姿で、玉輝さんが俺の前に立っている。
「呼びにくいでしょう。普段通りでいいですよ。……わざわざ観戦に来てくれてたんですか?」
「聞いてなかったかもしれないけど、午後から大盤解説会をやっててね。ぜひ私にやらせてほしいって立候補してたんだ」
注目の棋戦の解説はトッププロが行うものだが、名人が買って出るというのは聞いたことがない。
「玉輝さん……そこまで俺に期待してくれてたんですか」
「こうして、直接祝福もしてあげたかったしね。一歩間違えばプロでも爆死する横歩取り超急戦、よく乗り切ったよ。藍沢さんを惑わせたあの一手、見事だった。お客さんも盛り上がっていたよ」
「あ、ありがとうございます……!」
尊敬する人、そして愛しの人に労われて、勝利の感慨がグッと押し寄せてきた。
玉輝さんはポンッと俺の肩を叩き、一緒に歩き始める。
「さあ、会見場に行こう。実は私も同席することになっていてさ」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。君がどれほど素晴らしいプロなのか、語る予定だから」




