第75話 足への執着
張徳遠は洮州と岷州を失い、高宗に召還されて叱責されると、劉子羽と共に流刑に処された。
金国の傀儡である偽斉国の劉豫は、金国と協力して李成に宋国を攻めさせた。李成は鄧州・襄州・随州・郢州・唐州を陥し、信陽軍を撃破した。
怒った岳飛が破竹の勢いで随州・郢州を奪還すると、襄陽にいた李成は岳飛に恐れを成して城を捨てて逃げた。
呂頤浩・朱勝非が相次いで罷免され、趙鼎が右僕射となった。偽斉国は金軍と共にニ路より南侵させ、宋国の息の根を止めようとした。
「この窮地を凌ぐには、朕が自ら親征するほかあるまい」
高宗は親征の詔を下し、平江に向けて出陣した。この時、高宗は張徳遠の言葉を思い出した。
「金は最早、西顧の憂いが御座いません。必ずや東南(宋)を窺って参りましょう」
張徳遠の予測が的中した為に、流刑地から再び召還した。張徳遠は高宗に拝謁すると、直ぐに願い出た。
「岳飛に長江を越えて淮西に入らせ、淮東の金軍を牽制させます」
高宗はこの言を是とし、都督に任じて江上の宋軍を統制させた。
この頃、韓世忠は揚州に駐屯しており、すでに大儀鎮にて金軍を破って、撻也・解元・成閔ら大将を捕らえ、承州における戦いでは大小合わせて十三回もの勝利を挙げていた。休悆や孫暉は寿春で、安豊や王徳は除州で金軍をそれぞれ破った。
張徳遠は自ら鎮江に出向くと、韓世忠に楚州の守りを命じた。それから建康で宋軍を労い、太平州では劉光世の軍を労うと、宋軍は昂揚し過ぎて興奮状態となり、金軍との戦いを望んだ。そして張徳遠は、岳飛を河北・京西の招討使に任じた。
武陵の鍾相が宋国と金国との争いの隙に、楚を建国して皇帝を名乗った。楚国には、楚州、鼎州、澧州、潭州、辰州、岳州が呼応して宋国に背いた。鍾相はマニ教の流れを汲む均産教の教祖であり、初めは抗金忠義軍を組織して金国と戦っていたが、朝廷から言われの無い誹謗中傷を受け、猜疑心を向けられた為に蜂起して楚帝を僭称した。
鍾相は「均貧富・等貴賎」を唱え、「身分の高い者と低い者、富める者と貧しい者を区別する法律は悪法である!身分や富に関係無く、全ての人間を平等に扱うべきである!」と宣言した。この為、虐げられて来た農民達の支持を得て、『天の偉大な聖人』と崇められた。
朝廷は偽楚国を討伐したが、悉く敗れた為に岳飛に討伐を命じた。楚の軍隊は、言うなれば農民一揆の集団である。プロの軍隊である岳家軍に敵うはずも無く、散々に蹴散らされた。更に岳飛は工作員を潜入させ、不意を突いて鍾相を捕らえさせて殺害した。
楚は元々は洞庭湖一帯を根城としており、首領だった鍾相は死んだが副首領の楊么は、鍾相の子である鍾子儀を楚の2代目皇帝に奉じて抵抗した。この叛乱が平定されるのは1135年である為、一旦話しは戻す。
ようやく俺は、臨安府に戻って来た。
「母上様、よくぞご無事でお戻りになられました。さぞお疲れでしょう?足を流して疲れを癒して下さい」
高宗は足湯の準備が出来ると、親孝行だと称して自ら俺の足を洗ってくれた。
「皇上に、その様な事はさせられません。自分で致しますので、お気になさらずに…」
義理の息子とは言え、皇帝に足を洗わせる訳にはいかないと断ったが、高宗は聞かず仕方無しに好きな様にさせた。
中国では古代より足湯が盛んであり、足は臭くて汚い、つまり不浄なイメージがあるが、それ故に父母の足を洗う事は親孝行であると示す事になる。
儒教の精神が浸透する中国では、親孝行が何よりも大切であり、「自分が死んでしまったら、年老いた母の世話をする者が居なくなってしまう」と言う理由で、死罪が免除されたケースですらある。
この国では、「孝」の精神が情状酌量の理由にすらなってしまうのだ。強く断る訳にもいかなかった。
「戦場であまり洗えてなかったから、汚れていて恥ずかしいわ」
「いえ、母上の足は美しいです」
そう言った高宗の顔が、昂揚しているのが見えた。顔を赤らめながら、片足ずつ足の指一本一本から念入りに洗ってくれている。
よく見ると、周囲に最初から侍女らが誰も居なかった事に気が付いた。此処には、2人だけである。そう言えば、部屋に入った時から焚かれていた香は、嗅いだ事がある。何だったかと思いを巡らすと、それを思い出して青ざめた。
そうだ、これは徽宗に抱かれた時に必ず焚かれていた「催淫効果」のある香だ。中国人は殆どの者が、皆等しくある性癖を持つ。
中国の男性は女性の「足」に対して、特に小さな可愛らしい足を好み、それに異常とも言える執着した性癖があるのだ。その代表的な例が、「纒足」である。
「纒足」は「小脚」とも呼ばれ、喫人(食人)等と並んで中国の四大悪習の1つとされる。この纒足は、北宋時代から急速に広まった。
幼女の足首から先を布できつく縛って足の成長を阻害し、故意に小さく変形させると言う奇習である。纏足をされた女性は、生涯に亘って歩行困難となった。
纏足するには、女児が4~5歳になると長さ約3mの帯状綿布で両足の足首から先をそれぞれきつく縛り、発育を故意に抑える。施術中の女児は高熱を発する為、纏足は秋に行われた。女児は麻酔の代わりにアヘンを吸わされて寝台に固定された。そして親指を除く8本の足指を内側に強く折り曲げられ、曲がりが悪いと舟状骨や距骨など足の甲の骨を石で砕いて曲げた。
寝る時は布で巻かれた足に「睡靴」という靴カバー状の履物を履き、施術中は激痛によって眠れ無いほどの苦痛を受けた。縛り直す時と足を洗う時以外に布を緩めることは厳禁で、常に関節痛や骨折、脱臼、皮膚の化膿に苛まされた。
足のサイズは全長三寸(約9cm)が理想とされ、正座させた纏足した女児の大腿部に、石板や岩などの重石を置いて変化を促したこともあったという。
纒足を作るに当たって、先ず親指以外の8本の足指を内側に曲げ、その指が全て足の裏にくっつくようにするのに約2年かかり、その後、足の両サイドの中足骨を内側に折り曲げて足の幅を狭める。さらに、足全体を弓のように曲げ、土踏まずを窪ませ、甲を高く持ち上げる。そうするとまるで自分の足で、ハイヒールを再現している様な形となる。
成人後も縛り続け、数日に1度の足洗いが生涯に亘って行われる。纏足は家庭で行われる為に失敗して命を落としたり、敗血症や壊疽で足を失ったりした者もいたと言う。
理想的な纏足には「三寸金蓮」という美称が与えられ、黒髪、白肌などと並ぶ女性の美しさを表す代名詞にもなった。
「瘦小尖弯香軟正」と言い、①細い事②小さい事③親指に向かって尖っている事④全体が弓の様にしなっている事⑤臭気が芳しい事⑥軟らかな事⑦両足の形状が対称である事。これらが纏足の七大美点であった。
また纏足をしない大きな足の女性は、婚期を逃しがちだったと言う。その理由は、性的魅力が欠如して優雅でなく、長く苦しい纏足作りを乗り越えたと言う我慢強さに欠け、慣習や伝統に従う道徳意識に乏しいと思われたからだ。
纏足が広まった最大の理由は、小さな足が男性にとっての性的欲望の対象だったからである。小ぢんまりした弱々しい女性の足は男性の支配欲を掻き立て、女性が小さな足を引き摺る様にし、狭い歩幅でヨチヨチ歩く姿を優雅だと言う美意識があった。布できつく縛られた足から漂う汗や膿や汚れの臭気は、ある種のフェロモンになったと言う。
近現代に於いても、妓楼の纏足した妓女の靴に、酒を注いで回し飲みすると言う「行酒」が流行した。日本の妓楼で流行った、ワカメ酒の様な感覚なのだろう。
女性器からも独特の臭気が漂い、別に甘酸っぱい香りがする訳でも無い。しかしそれでも男性は喜んで舌を這わして舐め回す。それと同じくらいに興奮すると思えば、理解も出来るだろう?
昂揚した高宗は、あろう事か俺の足に頬擦りをし、臭いを嗅いで口付けをした。そして足の指を口に含み出した。
「あっ!だ、ダメよ…」
催淫香で頭がクラクラし、ぼーっとする。身体に力が入らない。毒の状態異常にはならないはずなのに、毒では無いから中和出来ないのか?と思った。
「それ以上すると、怒るわよ!?」
そんな脅しにも屈せず更に激しく足を舐り、両足を肩に掛けて脹脛から太腿へと舌を這わされた。
「濡れてますよ、母上。母上も既にその気でしょう?父上(徽宗)が拉致されてから、久しくされて無いでしょう?私が母上を慰めて差し上げます」
秘部に触れられ、クチュクチュと卑猥な音を立てると、恥ずかしさと義理とは言え母子であるのに、こんな事をしてはダメだと思いながらも気持ち良さで抗う事が出来なかった。
「ダメ、ダメよ…。血は繋がって無くとも、あなたの母なのよ?止めて!」
「母上、私はずっと父上が羨ましかった。こんなにも美しい母上を抱いたのだから。武照の前例があるでしょう?母上を私の妃にしたいのです」
武照とは後の武則天の事である。武照は始め、唐の太宗・李世民の側室である才人の1人であった。李世民が亡くなると、朝天女(殉葬)にされそうになったが逃れて出家した。
李世民の後を継いだ高宗・李治は、幼い頃から優しく美しい武照に惚れており、頭の切れる武照は太宗の寿命が長く無い事を知って李治に目を付けた。
当時、太宗の第9子であった李治が後を継ぐ目星など全く無かったが、武照は皇太子と太宗の寵愛が深かった弟の魏王との確執を利用して陥れ、2人の排除に成功し李治を皇太子にした。
李治は武照に恋心を持ち「お姉さん(本来なら義理の母である)」と呼び、密かに密通して不倫関係となった。朝天女にされそうになった武照を救ったのも李治であり、朝臣の反対を押し切って武照を尼寺から後宮に呼び戻し、父の側室であった武照を自分の側室にした。
その後武照は、王皇后と蕭淑妃の対立を利用して2人とも始末し、自らの立后に成功した。病気がちな李治に代わって政治を司り、李治が亡くなると周(武周と呼ばれる)を建国した。尚、武則天は通称であり、正確には則天順聖皇后で、即位してからは則天大聖皇帝と言う。
高宗に右手で秘部を弄られながら、左手で胸を揉まれた。首筋に舌を這わされて、胸元まで念入りに舐められた。
こうなるともう、男も女も止められない。押し寄せる快楽に身を任せ、それでも口では「ダメよ、ダメ…」と、か細く抵抗する気も無く口に出していた。
そこへ、「急報です!」と訴える者がおり、高宗は「何事だ!こんな夜更けに!?」と機嫌悪そうに怒鳴り、渋々支度を始めた為に未遂で終わった。




