おかしな新婚生活 2
シオンを連れ、領民たちと親しげに言葉を交わしながら川べりで食事を済ませたあと、アグリアは丘の上へと登った。
「ここから領地をぐるっと一望できるの。私のお気に入りの場所よ」
アグリアは両手を大きく広げ、眼下に広がる領地を差した。
領地を見下ろす小高い丘の上からは、領地全体を見渡せる。どうしてもここからの風景をシオンに見せたかった。
「へぇ。これは見事だな」
シオンの口からこぼれた感嘆の声に、アグリアの顔にも笑みが広がる。
領地の東と西にはなだらかな稜線が連なり、山から平地へとつながる斜面の木々には美しく黄金色に色づいたメリューがたわわに実っている。その下に点在する領民たちの家々や畑も、なんとも牧歌的だ。
それらを、空から降り注ぐ陽の光があたたかく照らし出していた。
「母が亡くなったあと、寂しくなるとひとりでよくここへきたわ。この景色を見ていると、なんだか大きくてあたたかいものに守られている気がして気持ちが落ち着くの」
母がいなくなった悲しみを、父にぶつけることなんてできなかった。あんなにも悲しみに打ちひしがれてそれでも娘のために無理をして笑顔を浮かべる父の姿を見ていたら、とても泣けなかった。だからここにきて、いつもひとり泣いていた。どんなに大声で泣いても寂しいと叫んでも、ここなら誰にも聞こえないから。
アグリアにとってこの場所は、喜びも悲しみも苦しみもすべてを受け止めてくれる大切な場所だった。
しばし景色に見惚れ、シオンとふたり黙り込んだ。
ふたりの間を吹き抜けるやわらかな風が、頬をくすぐっていく。穏やかな空気のせいか、シオンの表情もやわらかい。
沈黙のあと、シオンがぽつりと口にした。
「君がそう思うのもわかる。戦地に長くいると、色んな感覚が麻痺してくる。自分の感情さえよくわからなくなることもあるんだ。でもここにいると、それを取り戻せる気がするからな」
そう告げたシオンの横顔に、ちらと苦しげな色がよぎる。領地についてすぐシオンから感じ取った、あの暗い陰と同じものだった。
もしかしたらシオンは戦地で目には見えない深い傷を負い、今もその傷は癒えていないのかもしれない。契約結婚なんてしようと考えたのも王都に寄り付かない理由も、そこにあるのかも。
ふとそんなことを思った。けれど契約で結ばれた関係に過ぎない自分が、そこまで踏み込むことはできない。それでも――。
「そう……。ならよかった。王都みたいに華やかなものは何もないけど、ここは私にとって世界で一番の場所だもの。シオンにとっても安らぎになってくれたら嬉しい」
「……あぁ」
その後しばらく、シオンととりとめのない会話を楽しんだ。デザートにと持ってきたメリューをかじりながら、シオンが気持ちよさそうに伸びをする。そんな姿を見ていると、なんだかほっとする。
(不思議……。つい少し前に会ったばかりなのに、まるでずっと前からこうしていたみたい)
今もシオンの笑顔を不意打ちで見ると、胸が忙しなくドキドキと跳ねることはある。けれどそれ以上に穏やかな安らぎを感じはじめていた。
頼ってほしい、と最初の日に言ってもらったせいだろうか。誰かに頼ったり甘えたりは苦手なはずだったのに、なぜかシオンにはそれができてしまう。
(シオンの包容力……? 穏やかな空気のせいかも。ついつい気が付くと頼っちゃうのよね)
シオンならば、自分とでなくともどんな相手とだって幸せな結婚ができただろう。むしろシオンの妻の座を狙って女性たちが列をなしてもおかしくない。なのに今隣にいるのは自分だなんて、なんともくすぐったい気持ちがする。いや、もちろんただの契約上の妻なんだけど。
「そう言えばログが言ってたな。ここでメリューの栽培をはじめたのは、君が生まれる少し前からなんだな」
「えぇ、そうなの。父と母が結婚した年に何か記念になる木を植えようかって話になって、メリューの存在を知ったんですって。メリューの香りを母が気に入って、それならって父が」
ノーレル家がこの領地を国から賜ったのは、父の曾祖父の時代。
当時の国王が外交のため王都を離れ他国へと向かっていた道中、突然の病に見舞われた。その時、祖父の暮らす家に助けを求めた。村の長のようなことをしていた曽祖父は村人とともに懸命に看病し、その恩賞としてこの辺り一帯の土地と爵位を賜ったのだ。
以来下位貴族としてこの地で生きてきた。決して恵まれた立地とは言えず、王都からも遠い。けれどメリューを栽培するには好適地だったのが幸いだった。
もっとも栽培をはじめてしばらくは、結実させるのもなかなか大変で実ができても甘みが足りなかったりと苦労が絶えなかったらしいけど。
「私が生まれた年に、やっと理想に近いメリューができたんですって。父が今でもよく話してくれるの。あの年のメリューは最高の出来だったって。それからしばらくして母が寝込むことが多くなってからは、父は余計にメリューの栽培に力を入れたわ。メリューの香りをかげばきっとあいつも元気になるからって」
まるで母に残された命を、どうにかメリューの香りで引き止めるかのようだった。父も自分も、きっと来年もそのまた次の年も母と一緒にメリューの香りに包まれて過ごすために必死だった。
母が亡くなったのは、メリューの収穫期だった。甘く華やかな香りが領地中に満ちて、けれど母はもう目を開けなかった。穏やかに眠るような母の顔を思い出し、アグリアはそっと目を伏せた。
「じゃあ領地にとってだけじゃなく、君たち家族にとってもメリューは大切なものなんだな。そう言えば最近王都でも人気だと聞いたが、大々的に売り込んだりはしないのか? 金持ち相手に売り出せば、それなりにもうかるだろう」
シオンの問いに、アグリアは苦笑した。
「そうしたいのは山々なんだけど、色々と難しいの。果肉がやわらかい分輸送中に傷んでしまったり、温度管理も難しいから……」
「そうか。そう言えば輸送には向かないと言っていたな。ここから果実を傷めないよう慎重に王都に運ぶとなると、それなりの日数がかかるだろうからな」
その通りだ。未熟な状態で王都に輸送して、それぞれの販売先で追熟してから販売すれば大量に運べないことはない。けれど追熟にも知識と経験が必要なのだ。それを込みで仕入れてくれるところは、そうは多くない。結果メリューをうまく売り出すことができずにいるのだ。
「難しいものだな。果実栽培というのも」
アグリアはうなずき、たっぷりと日の光を浴びるメリューの木々を見下ろした。
「山から下りてくる冷涼な空気が、メリューをうんと甘くするの。育てるのが難しい上に傷みやすい分輸送には向かないけど、メリューのおいしさを知ってもらえたらきっとこの領地はもっと潤うと思うわ。それになんといっても香りが素晴らしいし。だから私、メリューを王都にばんばん売り込んで、この領地をもっと豊かにしたいの」
「それが君の夢であり目標、なんだな。この領地を守るために」
こくり、とうなずいた。
「えぇ。まだまだ問題は山積み。でもあきらめるつもりはないの。絶対にメリューを王都で大人気にしてみせるんだから!」
「その時は君の焼いたメリューのパイもセットで売り込むといい。あれならきっと行列ができる」
「ふふっ! 言い過ぎよ。でもありがとう」
シオンにそう言ってもらえると、なんだかうまくいく気がする。
アグリアはメリューの香りを目一杯に吸い込み、ふわりと微笑んだ。




