はじめまして、旦那様 2
「果実水をここに置いておくわね。あともしも夜中にお腹が空いたら、これでもどうぞ」
にぎやかな宴もお開きになり、シオンに水差しと焼き菓子を手渡した。
「あぁ、ありがとう」
「じゃあ、おやすみなさい」
屋敷に父以外の異性がいることに何とも言えない気恥ずかしさと戸惑いを感じつつも、平静を装い笑みを浮かべた。シオンも同じ気持ちなのだろう。その態度はどこかぎこちない。
立ち去ろうと踵を返したその時、シオンが声を上げた。
「あ……、アグリア」
「はい?」
領地の皆にも夫であるシオンがきたことはもう知れている。となれば折を見て紹介する必要がある。その時に不審がられないよう互いの名前を呼び捨てで呼び合おうと決めたのは、ついさっきだった。慣れないせいかなんともむずがゆい。
「今さらだが……、こんな提案を受け入れてくれたことを感謝している。おかげで家族からもうるさく言われることもなくなった。君のおかげだ」
「お礼を言うのは私の方。シオンが毎月仕送りしてくれるおかげで農具やら領内のあちこちの修繕費用も工面できたし、いずれはこの領地を手放さずに済むんだもの。感謝してもしきれない。私の方こそありがとう。だから遠慮なくゆっくり過ごしてね。うんとごちそうも作るから!」
「君は料理が上手なんだな。あのパイも見事だった。すっかりメリューが気に入ったよ」
シオンがふわりと微笑んだ。メリューなんて比較にならないくらいのその甘い笑みに、ぶわりと顔に熱がこもった。
(落ち着くのよ、アグリア。いくら異性に耐性がないからってこんなお世辞を言ってもらったくらいで赤面するなんて、子どもみたいだわ)
そう言い聞かせてみたけれど、一度こもった熱はなかなか引いてくれない。
「お世辞でも嬉しいわ。ありがとう。長旅で疲れてるだろうし、明日の朝はゆっくり起きてきてもかまわ……」
赤くなった顔をごまかそうと、そう言いかけた時だった。
ズドドドドドドッ。ドシンッ!
けたたましい轟音が、夜の屋敷に響き渡った。
「な、何っ⁉ 今の音っ」
ものすごい音とともに低くうめくような声が聞こえた気がする。まさか、と弾かれたようにシオンとともに階下へと向かった。
「……お父様っ!?」
「う……うぅっ……! うおぁっ……」
階段の下で腰を押さえうめき声を上げている父に、慌てて駆け寄る。
「お父様っ、どうしたの?」
「か……階段、踏み、外……。うおっ! いててて……」
父が痛そうに顔をしかめながら、ぷるぷると階段を指差した。
「……階段を踏み外して落ちたみたいだな」
どうやら自室から階下に下りようとして、うっかり足を踏み外したらしい。
シオンが素早く父の体を抱き起こし、手慣れた様子で体の状態を見る。
「腰と足を痛めたようだ。今ならまだモンバルトが起きてるだろう。すぐに呼び戻して診せた方がいい」
「……すまん。面目ない」
しゅんとしょげ返る父を残し、アグリアはすくっと立ち上がった。
「すぐにモンバルト先生を呼んでくるわ!」
急ぎモンバルトに診てもらった結果、腰は打撲だけで済んだが足首は全治二週間の捻挫と診断された。相当に痛むのか、父の顔はずっと歪んだままだ。
「まったく心臓が落ち着いたと思ったら今度は捻挫か。体が鈍ったんじゃないか? ログ」
「むぅ……」
モンバルトにまで小言を言われ、父はすっかり意気消沈だ。
「ま、まだまだ本調子じゃないってことさ。もうしばらくは大人しくしていることだな」
「しかし、せっかくシオン君がきてくれたんだ。いい機会だから領地をあちこち見せてやろうかと思っていたんだが……」
この期に及んでまだそんなことを言っている父を、ぴしゃりと制した。
「それは私がするから、お父様は大人しく休んでて! 仕事だって家のことだって全部私がやるから、心配いらないわ」
次から次へと心配の絶えない娘の気持ちもわかってほしい。母が亡くなった今、この世でたったふたりの家族なのだ。もしものことがあったらそれこそ目も当てられない。
母がいなくなった時のことを思い出し、アグリアの胸に痛みが走った。もうあんな思いはしたくない。生きとし生けるもの、いつかはその日がやってくるとは言っても今はまだそんなことは考えたくない。
「ただでさえ心臓に負担をかけちゃいけないのに、ここで無理をしたらまた……」
今でこそ元気に見えるが、一時は命が危ぶまれるほど弱っていたのだ。またあんな状態に戻ったらと思うと、気が気ではない。
いつかくるであろう不安と恐怖から、思わず語気が強くなった。
そんな娘の気持ちを察したのだろう。父が申し訳なさそうにうなだれた。
「……あぁ、わかっているよ。アグリア。心配ばかりかけて本当にすまん」
がっくりと肩を落とす渋い顔の父に、シオンが静かに告げた。
「できる限り自分がアグリアを助けますから、ゆっくり休んでください。その方がけがの治りもいい」
シオンの声は穏やかで心からの労りに満ちていた。まるで本当の婿が義理の父を心配するように。
その優しさに安堵したのか、父が表情を和らげこくりとうなずいた。
「……そうだな。悪いがそうさせてもらうとしようかな。助かるよ。すまないね、シオン君」
「いえ、もとからそのつもりでしたから。……アグリア、君も遠慮なくいつでも頼ってくれ。力仕事でもなんでもかまわない」
シオンの夜空を思わせる目が真っ直ぐに向いた。
「あ、ありがとう。助かるわ。シオン」
トクリ、と心のずっと奥の方で何かが動き出した気がした。




