はじめまして、旦那様 1
ついにその日がやってきた。
「い、いらっしゃい……ませ」
シオンとの初対面を果たした瞬間、アグリアの思考は見事に停止した。
(聞いてない……。聞いてないわよ。モンバルト先生!? まさかこんな……シオンがこんな人だったなんて!)
こくり、と息をのんだ。
さらりと額にかかった、艶やかな黒い髪。その隙間からは、きらりと涼しげなグレーがかった濃青色の目がのぞく。シオンはまるで夜空みたいなきれいな目をしていた。その目の穏やかさとは対照的に、日に焼けた肌の下の引き締まった体躯の精悍さがなんとも目を引く。
一言でいって、シオンは素敵だった。こんな人、王都の婚活でも見たことがない。
(この人が私の旦那様だなんて、信じられない……。いや、あくまで契約上の、だけど)
動揺を必死に押し隠しつつ、どうにか笑みを貼り付けた。
「急なことですまない。申し訳ないが、しばらく厄介になる。……俺の顔に何か?」
「へっ? あ、いいえっ。なんでもないんです! さ、中へどうぞ」
慌てて平静を取り繕い、中へと招き入れた。
(……気のせいかしら。表情がちょっと暗いような気がする。疲れてるのかな)
暗いと言うのとも少し違う気もする。何かをあきらめたような冷めた色が全身からにじみ出ているような。
はるばる長い距離馬車に揺られてきたのだ。いくら鍛え上げているとは言っても疲労しているに違いない。そう思い直し、ひとまず父に相手を任せ急ぎお茶の用意を整えた。
「シオン君。よくきてくれた。けがはもうすっかりいいみたいで安心したよ」
「ご心配いただき、ありがとうございます。それから今さらですが、私とアグリアさんの契約結婚についてご理解をいただき、ありがとうございました」
父が首を横に振った。
「アグリアがこの領地の未来を思って決めたことだからね。これでよかったんだと思っているよ。存分にゆっくりしていくといい。うまい飯と静けさだけは保証するよ」
父が差し出した手を、シオンが握った。
しばらく当たり障りのない会話を交わしたあと、シオンを客間へと案内した。
荷物は、大きな布でできた袋ひとつだけ。最低限の衣類や日用品などが入っているのだろう。年季の入ったそれを見やり、アグリアは告げた。
「何か足りないものがあったらいつでも言ってください。着替えなんかも足りなければ、まだ使っていない父のものがありますから」
「あ、あぁ。ありがとう。こちらこそ力仕事でもなんでも言いつけてくれ。じっとしている方が落ち着かない」
「え、えぇ。わかったわ」
なんともぎこちないやり取りを交わし部屋をあとにしようとした瞬間、シオンがふわりと小さく微笑んだ。その瞬間、時が止まった。
(……! 何、今の破壊力はっ。笑った顔の威力がすご過ぎるっ)
衝撃のあまり、思わず口が滑った。
「あ、ああああ……」
「?」
「そ、そう言えば……ええっと! り、離縁はいつになさいます?」
「……は?」
シオンの表情が、かちりと固まった。
夕食には、モンバルトもやってきた。
「おっ、やっときたか。生きて帰る気がないのかと思ったぞ。シオン」
「そっちこそ飲んだくれ過ぎてぽっくりいってる頃かと思ったぞ。モンバルト」
会うなりずけずけとした遠慮のない言い合いをするふたりに、思わず目をみはった。
(シオンってこんな口の利き方もするのね。そりゃそうよね。私とは初対面なんだし、一応は異性なんだしモンバルト先生と同じ態度ってことはないか)
戦地でともに何年か過ごしたと言っていたから、それだけ気心の知れた間柄なのだろう。自分に見せていたのとはまるで違うぞんざいな態度だけど、それはそれで好ましく映る。
「で、どうだ。この領地は? のどかでいいところだろう。戦地の垢を存分に落としていくんだな。シオン」
どうだも何も、シオンが領地に到着してまだ数時間しかたっていない。もちろん馬車の窓からだって多少は景色は見えただろうけど、疲れてそれどころではなかっただろうし。
けれどシオンはこくりとうなずいた。
「あぁ。確かに美しいと思った。ところで領地についた瞬間に甘い匂いがしたが、あれは?」
「あ、それがメリューの香りです! 数日前からちょうど収穫がはじまったので」
嬉しくなってつい声を上げた。
メリューは花の季節もとてもいい香りがするけれど、やはり収穫時期には及ばない。それはもう華やかで実に素敵な香りなのだ。
「そうか、あれがメリューの香りなんだな。実はメリューというものを知らなくて、仲間に教えてもらった。最近王都で人気らしいが、なかなか手に入らないと聞いた」
父が上機嫌でうなずいた。
「二年ほど前から王都にもわずかだが出荷してるんだ。もっと広めたいところなんだが、なかなか扱いが難しい果実でね。試行錯誤しているところだ」
この領地でメリューの栽培をはじめたのは、父が母と結婚して間もなくの頃。当時父と母が一生懸命植えつけたまだ小さな苗木が、今では立派な成木に育っている。
母との思い出の果実にシオンが興味を示してくれたことが嬉しくてならないらしい父が、おいしそうに酒をすすった。
「お父様、あまりのみ過ぎないようにね。いくら先生から許可が出たとは言っても、あくまで少しだけよ」
せっかくシオンを迎えた夜にうるさいことは言いたくないけれど、病み上がりで無理をさせるわけにはいかない。
「あぁ、わかってるわかってる。……アグリアは母親似でね。こうやって叱りつけるところは妻にそっくりなんだ」
父がおどけたように笑えば、シオンの口元にも笑みが浮かんだ。
「料理上手なところも似ているから、期待していいぞ。シオン君。アグリアの料理はどれもうまい。きっと驚くぞ」
「ちょっとお父様! 余計なことは言わなくていいんだったら」
うっかり味付けを失敗でもしたら目も当てられないからやめてほしい。ただでさえこれからはじまるシオンとの同居生活に、緊張しているっていうのに。
そんな気持ちを知ってか知らずか、父とモンバルトはグラスを掲げた。
「くくくくくっ! 今夜は実に酒がうまいな。モンバルト。実にいい夜だ」
「あぁ、まったくだ。若いってのはいいもんだ。それをのんびり端で眺めているのが実に楽しい。ははははっ!」
アグリアは、モンバルトとふたり楽しげに笑う父をなんとも複雑な思いで見やった。
娘の目から見ても父と母は心の底から愛し合っていたし、母が亡くなった今もそれは変わらない。そんな父だから、娘である自分にも同じように幸せな結婚をしてもらいたかったに違いない。もちろん領地の未来を思っての行動だと理解してくれてはいる。それでも複雑な思いでいるのは間違いない。
そんな親心を思うと、どうにもやりきれなくなる。
(シオンが本当の伴侶だったらって、思ってるんだろうなぁ……。シオンだったらきっと娘婿としてはきっと文句ないものね。見た目だって素敵だし、性格だって穏やかでいい人そうだし)
少し接しただけでも、シオンの人となりはなんとなくわかった。モンバルトが手放しでほめていた理由も。でもこの結婚はたった五年だけのもの。そこに永遠に続く愛も理解も存在しない。お互いに利が得られるだけで、先には何も残らないのだ。
ほろ苦い気持ちで、アグリアは手紙に書いた通りメリューのパイを切り分けた。
「はい、どうぞ。これが我が領地特産のメリューを使ったパイよ。朝に焼いたばかりなの。お口に合うといいんだけど」
きれいな色に焼けたパイをシオンの前に差し出せば、シオンの鼻がぴくりと動いた。
「これがメリューのパイか」
物珍しそうに皿の上のパイを見つめるシオンに、モンバルトがにやりと笑った。
「俺はこれまで他所でもメリューのパイを食べたことがあるが、アグリアの作るパイは一級品だぞ。王宮に出したって引けを取らないくらい、うまいんだ。心して味わえ」
「へぇ。それは楽しみだ」
シオンがパイにサクリとフォークを突き立て、口元に笑みを浮かべた。その笑みがなんとも優しくて、胸が跳ねた。
ドキドキしながら見守る先でパイが一切れ口元に運ばれ、そして。
しばし無言で咀嚼したシオンが、コトリとフォークを置いた。
「……うまい」
心の中でぐっと拳を突き上げた。どうやら気に入ってもらえたらしく、あっという間に皿は空になった。
「お代わりもどうぞ! 足りなければどんどん焼きますっ」
すかさずお代わりの皿を差し出した。
はじめて会ったその日に『離縁はいつになさいます?』なんて口走ってしまった失態を、どうにか挽回したい。そのためならパイを焼くなんてお安いご用だ。
「え……?」
一瞬シオンが黙り込み、そして大きく噴き出した。何事かとシオンを見やれば。
「あっ⁉ す、すみませんっ! お皿を間違えて……」
やはりシオンとの初対面で大きく動揺しているのだろう。シオンに差し出した皿は、お代わりにと一ピースを乗せた皿ではなくホールが乗った大皿だった。いくら気に入ってくれたとは言え、さすがにホールごと食べるわけはない。
またしてもやってしまった、と顔を赤らめれば、父とモンバルトまでもが噴き出した。
「ぶほっ!」
「くくくくくっ!」
「……」
ついには堪えきれずシオンまで本格的に笑い出したのを見て、アグリアはがっくりと肩を落としたのだった。




