奇妙な距離 2
シオンは荷物を抱え屋敷へと向かいながら、ちらと背後を振り返った。視線の先には、メリダと何かひそひそと話し込むアグリアがいる。表情豊かに話すその姿に思わず口元が緩んだ。
王都から帰ってからというもの、どうも感情に揺さぶられることが増えていた。とは言っても悪い意味ではない。これまでのような怒りとか悲しさとか後悔といった負の感情ではなく、もっとくすぐったいもの。
(どうかしているな、俺は。あと一年もすればアグリアと俺は赤の他人になるっていうのに……)
離縁することははじめから決まっていたことだ。互いにそのつもりで契約結婚したのだから。けれどこのままアグリアとこの領地で生きられたらどんなにか幸せだろう、などという願いがじわりと胸を浸食しはじめていた。そんなこと、許されるはずもないのに。
多分原因は、王都での夜だ。期せずして寝ぼけたアグリアに抱き着かれてからと言うもの、感情が制御できなくなっていた。
領地にいる間は、ログの目もあるし領民たちもいる。ルンルミアージュが屋敷に突撃してきてからは、夫婦のふりをしていたとは言えルンルミアージュの目の届かないところではきちんと一線を引いていた。だから問題はなかったのだ。
だが、王都では違った。あんなにも至近距離でしかも息がかかるほど触れ合ってしまったら――。
シオンの脳裏に、夜会での一幕がよみがえった。
あの日、夜会にきていたクロイツに声をかけられた。一瞬にして気持ちが過去に引き戻された。憎しみと後悔にまみれた忘れたくても永遠に忘れることのできない過去に。
(クロイツ・シュクルゼン……。あいつとまた会う日がくるとはな。さてはランソルのいたずらか)
町に指輪を買いに行った折に、往来にランソルに似た背中を見た。もちろんランソルであるはずはない。あいつはもうとっくに土の下で眠っているのだから。
けれどアグリアとの未来を夢見て浮かれていた背中に、冷水を浴びせかけられた気持ちになった。お前に平穏な幸せを夢見る資格などない。友を死に追いやったお前には、未来などないのだと言われているようで。
シオンの脳裏に、懐かしい友とはじめて顔を合わせた日の記憶が浮かんだ。
あれは確か、兵役について二年ほどたった頃だった。当時は若さゆえの向こう見ずで何度も死にかけた。それでもこの戦争から国を、大切な人たちを守るために戦っていた。
そんなある日、あいつが同じ隊に配属された。
名前をランソルと言い、見た目は薄茶色の癖っ毛をしたいかにも軽薄そうな男だと思った。だから最初は特にこちらから近づくこともなく、淡々と接していたのだが。
『なぁ、シオン! お前、王都の出だって本当か? 俺もなんだ。貴族と平民で立場は全然違うけどさ、よろしく頼む』
馴れ馴れしいやつだと思ったが、不思議と腹は立たなかった。生まれ持った人懐っこさと、どこか人の心を緩ませるえくぼのせいかもしれない。以来、一緒に過ごすことが増えた。そしていつしか隊の中でもっとも信頼する友になっていた。
そんなランソルが言ったのだ。今度の休暇に国へ戻ったら恋人に求婚をするつもりなんだ、と。
王都で花屋の売り子をしている恋人がいるとは聞いていた。いかにその子がかわいくて愛しいか、暇さえあれば惚気ていた。だから特段結婚するつもりだと聞いても驚きはしなかった。けれど、あいつは――。
脳裏に、もの凄い轟音とともに舞い上がる土埃と燃え盛る炎、そして煙の中に消えた友の姿がよみがえった。
今も脳裏に焼きついて離れない光景がよみがえり、シオンはぐっと奥歯を噛み締めた。
つい先日王都の町並みの中に、ランソルによく似た背中を見かけた。隣にアグリアがいるのも忘れ、一気に過去に引き戻された。その翌日の夜会で、クロイツと再会した。
何の運命のいたずらか。もしかしたらランソルがぬるま湯の中で安穏としている自分に苛立ち、過去を思い出させようとしているのかとさえ思った。早く戦地へ戻らなければならない。もはやそれしか自分が許される方法などないのだ。そんな暗い感情に囚われていた時、アグリアが言ってくれた。
離縁しても、いつでも領地に帰ってくればいい。辛くなったり疲れた時にはいつだって領地にきていい。メリューのパイを焼いて待っているから、と。
あの瞬間の気持ちは、アグリアにはきっと永遠にわからないだろう。
自然以外は一見何もない領地で、アグリアとともに暮らす日々。砲弾の音も火薬の匂いもしない、静かで穏やかな空間。屋敷の中にはアグリアの作る料理のいい香りが漂い、自然と腹が鳴る。清潔に洗濯されたシャツからはアグリアと同じ石鹸の香りがふわりと立って、ふいにドキリとする。
アグリアをきっとあきれ顔でけれど娘への愛情あふれる眼差しで見つめる、ログの顔。身分や立場など関係なくあたたかく心を通わせる、気のいい領民たち。自分をまるで本当の兄か何かのように慕ってくれる子どもたち。
そんな牧歌的なものひとつひとつが、自分の殺伐と乾いた心を潤し癒していくのがわかる。
と同時に、戦地での記憶がここは自分のような人間がいていい場所じゃないと過去に引き戻すのだ。その狭間で心が揺れる。
(アグリア……、君が幸せに生きてくれるのならもうそれだけでいい。君の役に立てるなら、この命にも少しは意味があったと思える)
だから決意したのだ。アグリアのためにできることをすべてしたのちに、領地を出ようと。そして二度とアグリアと会うことはない。
きっと間もなく、戦地に戻れという辞令が王都から届くはずだ。その前に、今後のことをアグリアと話し合うつもりでいた。
離縁の手続きを早々に終わらせ、あとはアグリアの望むタイミングで提出できるようにしておけばいい。もしもその間に自分が戦地で命を落とすようなことがあれば、それはそれだ。なんなら養子縁組についても、今のうちに当たりをつけておいてもいい。
そうすればいつでもアグリアは自由になれる。この領地で幸せに安心して生きていけるはず。
シオンはそんな未来を思い描き、ほう、と安堵の息をついた。
(だからあと少しだけ許してくれ。少しだけでいい。夢を見たら、現実に戻る。戦地でまた戦いに明け暮れて、そして……)
シオンの口元に、暗い笑みが浮かんだ。
アグリアはきっと、いい妻、いい母親になる。けれどその相手は自分じゃない、他の誰かだ。
前の夫はずっと戦地に行っていて、白い結婚のままだったと言えばきっといい縁も見つかるはずだ。なんならこっそりモンバルトに頼んでおくのもいいだろう。リーロンとかいう見る目のない愚か者なんかじゃなく、もっとましな男との縁が。あのルンルミアージュがあっという間に懐いたくらいだ。きっといい母親にだってなるに違いない。
去るなら早い方がいいに決まっている。
だが、王都でアグリアと過ごした時間が自分の欲に火をつけた。ともするとアグリアに触れたくてたまらない自分がいる。心の奥底から、全身でアグリアを欲していた。その衝動を抑え込もうとすればするほど、アグリアを目で追ってしまう。
そんなこと、許されるはずもないのに――。
そんなことを考えていたら、ふと背後から声がした。
「……オン? ……シオン! どうしたの? ぼうっとして」
いつの間にか、アグリアが追いついていた。メリダとの話が終わったのだろう。
慌てて笑みを取り繕い、荷物を抱え直す。
「あぁ……。いや、なんでもない。そういえばメリダと何を話してたんだ? 追加注文とかなんとか……」
瞬間、アグリアの顔が一気に真っ赤に染まった。
「えっ⁉ な、なんでもないの! 本当になんでもっ」
どうやら口に出せないような代物であるらしい。メリダのあの生温い笑みと余計なおせっかいとかなんとか言っていた言葉を思い出し、察した。
アグリアの真っ赤な顔をちらと見て、思わず笑いがこぼれる。
「くくっ」
残りわずかな時間、アグリアとこの領地の穏やかな空気の中でぬるま湯に浸かっていたい。少しでも長く。
アグリアのかわいらしいつむじを見下ろし、そう願った。
けれどシオンは気づいていなかった。自分が今にも泣き出しそうな顔をしているのを、アグリアがはっとした顔で見つめていたことを。




