甘くて、苦い 3
翌朝目が覚めるなり、声にならない悲鳴をギリギリでのみ込んだ。驚きのあまりまたしてもベッドから転がり落ちそうになったものの、どうにか堪えた。
眼前にありえないはずのものがあった。
(顔……! 顔がっ……! シオンの顔がぁぁぁっ! 目の前にぃぃぃぃっ!)
それだけではない。すやすやと気持ちよさそうに寝入るシオンのたくましい腕が、がっちりと体に巻きついているではないか。
(どどど、どうしようっ……! 一体何がどうなってるのっ)
どうにか腕を解こうとしてみても、鍛え上げられた立派な筋肉に覆われた腕はびくともしない。熟睡しているらしいシオンの安らかな寝息に、絶望した。
(詰んだ……。詰んだわ……。昨日に引き続き、なんでこんなことに)
そう言えば昨日もそうだった。いつの間にかふたりの間に積まれていたはずのクッションが移動して、ぴったりとくっついていたような。
それでもどうにかシオンが目を覚ます前に逃げ出そうと、必死に試みる。ようやくシオンがピクリと動いた。
「ん……? あぁ、起きたのか。アグリア」
「えっと、あのこれは、その……」
じりじりとシオンの腕から離れれば、シオンがにやりと笑った。
「どうやら君は、あたたかいものにすり寄る習性があるらしいな。言っておくが、寝込みを襲われたのは俺の方だ」
「へっ?」
間抜けな声が出た。
「昨日の朝も今朝も、君が突然クッションをその辺に放り投げてしがみついてきたんだ。俺は必死に止めたんだがな」
「へ……うええええっ⁉」
まだ夜も明けきらぬ静かな屋敷を叩き起こしそうな大声を上げそうになり、すんでのところでのみ込んだ。みるみる全身から汗が噴き出す。
「ご、ごめんなさいぃぃぃっ! 私、まったく覚えてなくて」
ひとりっ子ゆえか、寝相が悪いと言われたことはない。本当に小さな頃しか両親と眠ったことはないし、母が寝込んでからはずっとひとり部屋だし。身の回りの世話をしてくれるメイドだって、ノーレル家には存在しない。
となれば自分がどんな寝姿をしているのかとか、寝言を言うのかなんてことも知らないのだ。
迂闊だった。まさかそんな癖があったとは思いもしなかった。
思わず頭を抱え込めば、シオンがおかしそうに肩を揺らし笑った。
「くくっ! いや、別にかまわない。近頃めっきり涼しくなったからな。暖を取らせてもらったおかげで安眠できた」
「暖……」
確かにシオンにあたたかな気持ちになってほしいとは言ったけれど、それはあくまで気持ちの問題であって決してひと肌なんて意味じゃない。シオンが笑い飛ばしてくれたのがせめてもの救いか。
あまりの恥ずかしさと情けなさで、アグリアはしゅるしゅると身を縮こまらせた。
王都最後の夜の食卓は、ものすごいごちそうだった。遅ればせながらの結婚のお祝い、ということらしい。
イグバート家の料理人が作ってくれた自慢の料理の数々と、王都に店を構えるルンルミアージュお気に入りのスイーツたち。それらがテーブルに、これでもかというくらいに並んでいる。
義母が嬉しそうに笑う。
「さぁ、アグリアちゃん。シオンもたくさん食べてちょうだい! 今夜の主役はあなたたちなんだから」
「あ……は、はい! ありがとうございますっ」
こんなにあたたかい人たちをだましていると思うと、胸がちくりと痛む。けれどこれもあと一年の辛抱だ。
どうにか精一杯笑みを貼り付け、微笑んだ。
「どれもとってもおいしいです!」
「ははっ。それはよかった。この料理なんか、シオンがまだ小さかった頃ジグルドと取り合ったものだよ」
口数の少ない物静かな義父も、この時ばかりは饒舌だった。久しぶりに息子と再会できたことがよほど嬉しいのだろう。シオンの顔も思いのほかやわらかだ。
尽きることのないおしゃべりとおいしい料理に、アグリアはあらためてシオンとの縁を感謝してい
た。もちろんこんなに素敵なシオンの家族をだましている心苦しさはある。けれどシオンの家族がこんなにもあたたかな人たちであることに安堵したのだ。
シオンが王都にも家族のもとにも寄り付かなくなった理由はわからない。もしかしたら、シオンが時折見せる苦しげな陰に関係しているのかもしれない。でもきっといつか、こんなふうに家族と楽しく語り合う日もくるだろう。
(今はまだ心の傷が癒えないかもしれないけれど、そのうちきっとシオンだって立ち直るわ。私がいなくても、きっと)
シオンと夫婦でいられるのは、あと一年と少しだけ。いつの日かシオンが明るく笑う隣に、自分はいないのだ。
そう思ったら、胸がぎゅっと苦しくなった。はじめて感じる感覚に、思わず手が止まった。
「あら、どうかした? アグリアちゃん」
「いえ! なんでもないです」
慌てて顔に笑みを貼りつけ、首を横に振った。
(何かしら。今の……。なんだかすごく……)
じくじくと痛み続ける胸をそっと押さえた。
シオンと結婚してからというもの、未知の感情に揺り動かされている。時々無性に何かに急き立てられるような、たまらない気持ちに。
ちらとシオンを見やれば、ぱちりと視線が合った。
「ん? どうした。アグリア」
シオンのやわらかな声で名前を呼ばれると、体の奥がじわりと熱くなる。
この感覚は一体何だろう。
「ううん。なんでもない」
ふわりとシオンが笑う。
あぁ、シオンが笑った顔はなんて優しいんだろう。細くなる目元も、少し下がる眉も。やわらかく弧の字を描く口元も。ずっとこの笑顔をそばで見ていられたらいいのに。
ふとそんなことを考えている自分に気づき、アグリアは目をひん剥いた。
(私、何を考えてるの⁉ これはただの情よ! ほら、同じ屋根の下で暮らしているせいでついうっかり情がわいて。それで……!)
言い訳するように、慌てて自分の中に浮かび上がった思いを打ち消した。
最後の夜はこうして、あっという間に更けていった。
翌朝、ついに王都を離れる日がきた。
どうにか義家族に契約結婚のことがバレずに済んだことに、ほっと胸をなで下ろす。と同時に、得も言われぬ寂しさがわき上がった。
「本当にお世話になりました。よくしていただいて、本当に何とお礼を申し上げたらいいか」
心からの礼を口にすれば、義母が首を横に振った。
「何を言うの、アグリアちゃん。あなたはもう私の娘なんだもの。当たり前だわ」
娘、という響きにはっと顔を上げれば、義母が両手を広げふわりと抱きしめてくれた。
「アグリアちゃん、会えて本当に嬉しかったわ。またいつでもいらっしゃい。何か困ったことがあったらいつでも頼ってちょうだいね。約束よ」
「……はい」
記憶の中にある母の懐かしいぬくもりと、義母のぬくもりとが重なった。懐かしさと喜びがない交ぜになった感覚に、思わず目頭が熱くなった。
「ありがとうございます」
じわりと視界がにじんだ。
ルンルミアージュに王都へ一緒に行くのだと言われた時には、どうなることかと思った。けれど今では感謝していた。
ルンルミアージュが『エクラン』に連れて行ってくれなければ、リールにだって出会えなかった。リールにメリューのことを提案してくれたおかげで、領地の未来にも光が差したのだ。それにこんなにもあたたかな人たちにも出会えた。
だからこそ余計に、嘘をついていることが心苦しくもあるけれど。
「アグリア……」
ルンルミアージュが目に涙をいっぱいためて、ぎゅっと抱き着いた。しゃがみ込み、視線を合わせる。
「私、また領地に行ってもいい? マルクとも約束したの。ラナと子牛に必ずまた会いに行くって。それに私、もっとアグリアともお話したいわ。ううっ……!」
ルンルミアージュの目から、ぽとりぽとりと大きな雫がこぼれ落ちた。それをそっとハンカチで拭い、うなずいた。
「えぇ、もちろんよ。その代わり今度はちゃんとお家の人に許可をもらってからね。メリューの件できっとまた王都にくることもあると思うし、その時には一緒にお茶をしましょ」
パチリと片目をつぶり笑えば、ルンルミアージュの顔にも笑みがこぼれた。
「うん! 約束よっ」
ルンルミアージュの笑顔が弾けた。
「……じゃあ、そろそろ行こうか。アグリア」
「そうね。シオン」
差し出されたシオンの手を取る。
「では皆様、お世話になりました。どうぞ……お元気で」
ありがとうの言葉の裏にごめんなさいという思いをにじませ、アグリアはシオンとともに馬車に乗り込んだ。
馬車は領地へと向け、ゆっくりと走り出した。




