甘くて、苦い 2
タリオンが去ったあと、シオンとアグリアは見知らぬ令嬢や夫人たちに取り囲まれた。
(こうなると思ってたのよ。だって会場中の視線をひとり占めしてるんだもの)
それにうんざりしたシオンは、とんでもない手に出た。
『すまないが、妻が少し疲れてしまったようだ。失礼』
そう言うとすっとこちらの腰に手を回し、皆に背を向けテラスへと逃亡したのだ。主に腰の辺りに注がれる、嫉妬と羨望とが入り交じった視線。それに耐えるこちらの身にもなってほしい。
「悪かった。ああでもしないと永遠に逃げ出せそうになくて」
困り顔で甘く笑うシオンがなんともかわいい、じゃなくて憎たらしい。でもまぁ一応紙切れ上れっきとした妻なんだし、シオンの態度はむしろ夫としてほめられるべきものだろう。ただしあくまで紙切れ上は、だけど。
「代わりと言っては何だが、何か食べるものとお酒を持ってくる。何がいい?」
正直に言えば、小腹が空いていたし中の熱気に当てられて喉も乾いていた。のだけれど、なぜお酒一択なのだ。まぁ甘ったるいジュースよりはお酒の方がいいけれども。
なんて思っていたら、うっかり心の声が口からこぼれていた。
「くくっ! わかった。じゃあ適当に見繕ってくる。待っていてくれ」
そう言ってにぎやかな会場に戻りかけた時だった。
「……シオン・イグバート。なぜここにお前がいる? まだ死んでいなかったのか。ちっ……」
舌打ちとともに聞こえた男の声に、シオンの背中がびくりと強張る。そこから一気に怒りがゆらめき立った気がしてはっとする。
「元上官に挨拶もなしとは、随分と偉くなったものだな。シオン」
「ありがたいことに、もう部下じゃない。お前がそうさせたんだろう。忘れたのか?」
「……くっ。相変わらず忌々しいやつめ」
男の鼻が苛立たしげに鳴った。
(な、なんなの。このふたり……? なんでこんなに険悪な雰囲気なの。まるで今にも殴り合いがはじまりそうなんだけど)
着けている徽章からして、おそらくは軍内部でも上の階級の人物なのだろう。白髪が交じりはじめた髪を過剰なまでにオイルでなでつけた、感じの悪い男だった。
にらみ合うふたりの間に、冷たく鋭い空気が漂う。
「くくっ。まぁそういうな。お前だってもう過去など忘れてよろしくやってるじゃないか」
男の目がちらと自分に注がれ、そのねっとりとした視線にぞわりと鳥肌が立った。
「なんだと?」
シオンの横顔に明らかな怒りがゆらめいた。
「話には聞いていたが、まさかお前が結婚とはな。きっとお前の友も今頃あの世で喜んでいるだろうさ。もう過去のことなど忘れて……」
言いかけた男を、シオンが鋭くさえぎった。
「クロイツ・シュクルゼン」
一層冷えた空気に、むき出しの肌がざわりと粟立つ。
「……消えろ」
とても目上の人間に対する言葉とは思えない。けれどきっとこのふたりには浅からぬ因縁があるのだろう。そしてシオンはクロイツというこの男に、並々ならぬ怒りを抱いている。
普段は穏やかなシオンがこれほどまでに怒りをむき出しにするのだ。よほどのことがあったに違いない。
クロイツは一瞬ぐっと言葉をのみ込み、そして。
「ふんっ……。まぁいい。無礼は場に免じて許してやろう。いいか、シオン。過去は過去、死人は死人だ。何もかも忘れて楽に生きることだ。わかったな」
そう言い捨てると、クロイツは去っていった。
テラスに静寂が落ちた。何とも気まずいその静けさに、戸惑う。
ひとりで先に中へと戻った方がいいだろうか。自分がそばにいない方が――。そう思いあぐねていると、シオンが口を開いた。
「……外はさすがに冷えるな」
「え?」
「これを着るといい」
シオンはそう言うと着ていた上着を脱ぎ、そっと肩にかけてくれた。
「あ、ありがとう……」
もうシオンの顔に、怒りの色はない。けれどその表情は今だに暗く強張ったまま。
「待っていてくれ。何か取ってくる」
そう言い残し、シオンは会場の中へと入っていった。
さっきまでの軽やかな空気はすっかりどこかへ消え去っていた。あるのは重苦しい空気だけ。
(クロイツ。シュクルゼンって言ってた。あの人、どうしてあんなことを……)
あの男が何もかもを忘れろ、と言った時の顔。あの顔がどうにも気にかかる。まるで脅しているみたいだった。
ふたりの間に、過去に何があったのだろう。
気になるけれど、きっと聞いたところでシオンは何も話してはくれないだろう。
ほっと息を吐き出せば、シオンが料理の乗った皿とグラスを手に戻ってきた。いつもの穏やかな顔で。きっとどうにか感情を抑え込んだのだろう
「ありがとう」
それらを受け取り、にっこりと微笑んだ。シオンが何も話したくないというのなら、こちらも何事もなかったように流すしかない。
無理やりに明るい表情を顔に貼り付け、空を見上げた。
「見て。王都でもこんなに星がきれい」
少しでもシオンの気を紛らわせたくて、夜空を指さした。
王都は夜でも明るい。城門には火も焚かれているし、遅くまでやっている店もあるし。そのせいで、領地ほど星は見えない。けれど空には確かに星が瞬いていた。
シオンがふっと笑う。
「俺はこんな王都で見る星より、君の領地で見る方がずっといい。まるで別物だ」
「ふふっ。そりゃあ夜になるとうちの領地は真っ暗だもの」
脳裏に見飽きているはずの、領地の夜空が浮かんだ。
遠くには山々の稜線が連なり、空にぽっかりと浮かんだ月と満天の星が、キラキラと瞬きながら家々を見下ろしている。梟の鳴き声と、木々たちの奏でる葉擦れの音。心地よい風が領地を優しくなでるように吹き渡る。そんな情景がありありと瞼の裏に浮かび、無性に領地に帰りたくなった。
「でも……そうね。私もあの領地が好き。世界中のどこよりも、あたたかく感じるの」
心からそう告げれば、シオンがうなずいた。
「あぁ。不思議だな。ほんの少し前までまったく知らない土地だったのに、今ではまるで世界で一番自分に近しい場所みたいに思える。君が大切に思うのもわかる。あそこにいるとほっとする」
思わずシオンを仰ぎ見た。
まさかシオンがそんなふうに思っていてくれたなんて、と胸の中にあたたかな感情がわき上がる。
「……」
「……」
しばらくふたりで無言で空を見つめていた。いつの間にか、さっきまでの殺伐とした空気は消え去り穏やかな静けさが戻っていた。まるで領地で過ごしているみたいに。
シオンの過去に何があったのかはわからない。でもせめてあの領地がシオンの心の痛みを和らげてくれるのならいい。どうか穏やかに笑っていてほしい。そう願った。
「ね、シオン?」
「ん?」
「この先私たちの契約が終わっても、いつでも領地にきていいのよ。そりゃあ皆びっくりはするだろうけど、シオンならきっと領地の皆も歓迎するもの。だから、いつでもきて。疲れた時や、何か嫌なことがあったりしたらいつでも」
私はいつでもあの領地にいるし、メリューの季節にはパイを焼いて待っているから。そう告げれば、シオンが嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔があんまりにも優しくて、胸がドキリと音を打つ。
いつかシオンが辛くなった時、悲しみや苦しみを感じた時に、あの領地での日々を思い出して訪ねてきてくれたら嬉しい。そんな思いから出た言葉だった。
ただの契約で結ばれただけの伴侶のために、メリューを王都に広めるためにと力を貸してくれるような優しい人なのだ。そんなシオンがいつかすべての苦しみから解き放たれて、幸せになってくれたらいい。
別れは、きっとあっという間に訪れるだろう。でもそれは抗えない死という別れじゃない。会おうと思えば会える。
もしも王都にメリューが出回るようになれば、いつの日かシオンが自分のことを思い出してくれるだろうか。そう言えばかつて形ばかりの妻がいたな、と思い出してくれるだろうか。
そうだったら、いい。記憶のほんの片隅にでも存在できたら嬉しい。
シオンの表情が一瞬泣きそうに、やわらかく解けた。
「……あぁ。ありがとう、アグリア」
優しい夜風がふわり、とふたりの間を抜けていった。




