王都、二夜目
その夜、シオンはまたしても天井をにらみながら暗がりの中で葛藤していた。
(参ったな。昨日に引き続き今夜もか……。あまりにも無防備過ぎないか?)
シオンの鼻先に、アグリアのやわらかな髪が触れる。寝間着越しに伝わるアグリアの熱と、その体からのぼり立つ石鹸の香り。しかも今夜はなんと、安らかな寝息を立てるアグリアの手が自分の体をきゅっとつかんでいた。
「くっ……!」
思わず苦悩の声が口からこぼれた。
(何の苦行なんだ、これは……! まさか朝までこのままなんてことは……⁉)
昨夜はどうにか多少は眠れた気がするが、さすがにこうぴったりとしがみつかれては眠れるはずもない。シオンは必死に自分の理性と戦っていた。
「ん……、うぅ……ん。むにゃ……」
夢でも見ているのか、時折もぞもぞとアグリアが動く。そのたびにアグリアのやわらかな体の感触が伝わってきて、ぴしりと凍りつく。その繰り返しだった。
(不眠不休に慣れているとは言っても、二晩続けてではさすがに忍耐力が……)
シオンはぐっと歯を食いしばった。
返す返すも後悔しかない。完全に初動を誤った。アグリアと同室だとわかった時点で、さっさとソファを陣取ればよかったのだ。アグリアが何を言おうと頑なにここで寝ると言い張れば、アグリアも引き下がったかもしれない。
が、今さらそんなことを後悔しても遅い。アグリアに言われるままに同じベッドの端と端に寝る、なんて承諾してしまったばっかりにこのざまだ。
恨めしげにアグリアの後頭部を見下ろし、そっと嘆息した。
形だけとは言え、れっきとした国に認められた夫婦ではあるのだ。うっかりその気になって手を出したって訴えられることもない。倫理観の欠落した男なら、さっさと寝込みを襲っているだろう。もちろんそんな気は毛頭ない。
だからこそずっと一定の距離を保っていたというのに、ルンルミアージュが屋敷にきてからというもの調子が狂いまくりだ。
ちら、と視線を下ろせばアグリアのつむじが目に入った。
(一体何の夢を見てるんだ? いい夢には違いなさそうだが。さてはメリューの夢でも見てるのか)
じつに気持ちよさそうに安眠するアグリアに、思わず笑みがこぼれた。
『エクラン』の店主がメリューを取り扱いを承諾してくれたのは、驚きだった。こんな奇跡のような巡り合わせがあるのか、と思うほどに。きっとアグリアの領地を思う真摯でひたむき気持ちが天に届いたからに違いない。
(これでアグリアの未来はきっとうまくいく。俺と離縁したあとも、養子をどこかから迎え入れることさえできればどうにかなるだろうからな。なんなら他の男と幸せになることだって……)
その瞬間、ぶわりと自分の中にどす黒いものが渦巻くのを感じた。
けれどそれに気づかないふりをしてぐっと歯を食いしばった。気づかなくていいものも、この世にはある。あえて蓋をしておいた方がいいことも。そんなこと、嫌というほど思い知っているはずだ。
(そうだな、ランソル。俺に居場所はもう戦地にしかない。アグリアの願いもどうにかなりそうだし、アグリアと領地に戻ったらすぐにでも離縁についての話し合いをして戦地に戻ろう。そうすればすべては丸く収まる。それでいいんだ……)
時がたてばきっとアグリアのことも、あの領地での穏やかな日々のこともすぐに忘れる。いや、忘れるしかない。あの場所もアグリアも、自分にはあまりにもあたたか過ぎる。
暗がりの中、ひとり自嘲した。
そんなことよりも今は、どうにかしてアグリアが目覚める前に、身を離さなければ。もしもこのままの体勢で目を覚まされたら、あらぬ疑いをかけられてしまう。それだけは避けたかった。
ぎゅっとしがみつくように自分にくっついているアグリアを見やり、シオンはもぞりと体を動かした。瞬間アグリアが「うみゃ……」とうめいた。
(どうにかしてアグリアを起こさないように離れないと……。が、どうしたら? ……そうだ! 寝返りを打つ振りをしてそっとベッドを下りれば……)
その瞬間アグリアの唇がふと目に入った。胸がドクン、と大きな音を立てる。
茶色い軽くウエーブがかった髪と同じ、茶色いまつ毛の下には少々低めの鼻筋。その下の、わずかに開かれたぷっくりとした唇。そこからもれる実に健やかな寝息に、盛大に心の中で嘆息した。
(だめだ! 見てはいけない、絶対に見ちゃだめだ。心を無に、無に……!)
必死に頭に浮かぶ煩悩を振り払うと、ぎゅっと目をつぶりじりじりと体を背後にずらしていく。
そんなこととは露知らず、アグリアはその後も寝がえりひとつろくに打たずにすやすやと眠りについたのだった。
◇ ◇ ◇
翌朝、アグリアは外を走る馬車の音で目を覚ました。
真っ先に自分の位置を確認すれば、眠りについた時と同じようにシオンとの間にはクッションがうず高く積まれている。どうやら昨夜は何事もなく安眠できたらしい。
ほっと胸をなで下ろし、クッションの向こうをちらと見れば。
「……シオン?」
すでにシオンの姿はどこにもなかった。
身支度を整え階下へと下りれば、シオンがぼうっとした様子で椅子に座り込んでいた。その目の下にくっきりと刻まれた隈に、首を傾げる。
(もしかしてよく眠れなかったのかしら。おかしいな。昨日はあんなにくたくたになるまで王都中を歩き回ったのに。やっぱり鍛えていると疲れ方が違うものかしら?)
ともかくも、アグリアの心は朝から弾んでいた。当然だ。なんといってもあの『エクラン』の店主リールが、メリューでスペシャルメニューを作ってくれると約束してくれたのだ。無限の可能性が広がった気がする。
昨夜のうちに領地の父に知らせをやった。早ければ今日の午後にも、木箱いっぱいの未熟なメリューが『エクラン』に届くはずだ。
この先のことを思うと、心が浮き立つようだった。
けれどそんな平穏は長くは続かなかった。
朝食の席に現れたジグルドが、淡々とした物言いで告げた。
「あぁ、そうだ。ふたりとも、明日の夜の予定は空けておいてくれ。お前たちに夜会の招待状が届いている」
その言葉に、アグリアとシオンは見事に凍りついた。
「は? そんなもの、行くはずがないだろう」
アグリアも同意するように小刻みにうなずいた。けれど返ってきたのは無情な事実だった。
「文句があるなら、タリオンに言え。招待状を寄越したのはあいつだからな」
「くそっ……! またあいつか」
シオンが忌々しげに舌打ちをして、頭を抱え込んだ。
(どうしよう……。夜会なんてまともに出たこともないのに。ドレスだって当然ないし、絶対に無理!)
夜会なんて華々しい場所は、正直田舎令嬢の自分にはまったくの無縁のものだ。
二度ほど出たことはあるけれど、果たして夜会と呼んでいいかためらわれるくらいに小規模な集まりだった。何より一度は、まだ小さな頃父に連れられて行っただけだし。
実に困ったことになった。
「タリオンの奴……。許さん!」
シオンの口から恨みがましい声がもれた。
「とにかくこれがその招待状だ。今から断ればタリオンの顔がつぶれる。ここは王都にも帰らず友人にも長年顔を見せなかった不義理のせいと思って、あきらめろ」
ジグルドにすげなく言い放たれ、シオンとふたり絶望的な顔を見合わせたのだった。




