王都、一夜目
明かりを落とした部屋の中、ベッドの上でシオンに声をかけた。
「お、おやすみなさい。シオン」
「……あぁ。おやすみ」
隣に横たわるシオンの気配がなんとも気にはなるけれど、長旅の疲れと和やかな義家族とのひと時のおかげでどうにか眠れそうだ。
(これだけ高くクッションを積んでおけば、寝返りを打っても安心ね)
クッション越しにほんのりと伝わるシオンの気配を感じながら。アグリアはそっと目を閉じた。
◆ ◆ ◆
聞こえてきた規則正しい寝息に、シオンはほっと息を吐き出した。
(やっと寝たか……。やれやれ)
かぎ慣れた懐かしい家の匂いに混じって、アグリアの体から石鹸の香りが漂う。
アグリアを起こさないよう慎重に体を反転させ、そっとクッションの山をのぞき見た。クッションの隙間から見えるアグリアの背中に、何とも言えない不思議な感情がわき上がる。
(まったくルンルミアージュのおかげでとんだことになった。しかも明日は王都の店巡りとは……)
軍部に用がある以外で王都に顔を出したのは、かれこれ二年半ぶりだった。それだって軍での用事を済ませてすぐ戦地に舞い戻ったくらいだというのに、まさか王都の隅々まで歩き回る羽目になるなど思いもしなかった。
けれどそれがアグリアの願いを叶えるためだと思えば、無下にもできない。
(メリューを王都で売り出せば、確かにあの領地にとってはいい税収になるだろう。この先領主代行としてアグリアがあの地を担うには、大切なことだしな)
早くに死んだ母親が心から愛し、父親が懸命に守り抜いてきた領地を守りたい。アグリアはそう言った。真剣な眼差しがなんとも眩しかった。だから、手を貸すのもやぶさかではない。それがアグリアの願いなら。
自分の中にいつの間にか生まれたそんな感情に、シオンは表情を曇らせた。
(こんなはずでは……。一度も会わずに契約を終える気でいたんだがな)
化粧っ気のない、少し日に焼けた健康そうな肌。ごくありふれた色ではあるが、日に透けるとキラキラと輝く茶色い髪。まるでやわらかな羽毛を思わせる、やわらかな声。
台所から聞こえる調子っぱずれな鼻歌を聞きながら細々とした仕事をこなす日々は、想像以上に楽しかった。こんなに穏やかな時を過ごすのは久しぶりで、心が解れていくのが自分でもわかる。
気がつけば、アグリアの存在がすっと馴染んでいた。紙切れと契約でつながっただけの会って間もない関係なのに、気が付けばずっと昔からこうしていたような錯覚さえ覚えはじめていた。
『それで……えーと、離縁はいつになさいます?』
会うなりそう口にしたアグリアの慌てふためいた顔を思い出し、緩んだ口元を慌てて押さえた。
(あれは驚いたな。きっと何を話せばいいのかわからず困惑しているところに、頭の中にあった言葉が口を突いて出たんだろうが……)
しまった、と言わんばかりのあの顔。真ん丸に見開かれた目と、少し間の抜けた顔が素朴でかわいらしいと思った。貴族令嬢だというから、てっきりもっと気位の高そうなつんと澄ました女性だと思っていたのに、いい意味で想像を裏切られた。
その瞬間に、心が動いた気がする。
(馬鹿げている。穏やかさなんてものは、もう俺とは無縁だっていうのに)
ふと脳裏に、懐かしい友人の顔が浮かんだ。とともに鼻を突く火薬の匂いも。地面に転がる、そこにあるはずのないもの。思い出してはいけない。けれど決して忘れてはいけない記憶だった。
今もはっきりと脳裏に焼きついているその光景がよみがえり、喉の奥からぐっと苦いものがせり上がる。
(これが終われば、もう休暇も終わりだ。そうすれば戦地に戻れる。戻らなきゃならないんだ。あそこにしか俺の居場所はもうないんだからな……)
胸の奥深くから今にもわき上がりそうな熱い感情を、シオンはぐっと押さえつけた。
自分には平穏を望む資格などない。二度と平穏であたたかな暮らしなど、望むべくもないのだ。それが自分に課せられた責であり、それくらいしか友に詫びる方法はない。
そう言い聞かせ、シオンは薄暗い部屋の天井をぐっとにらみつけた。
(すまない、あと少しだけ許してくれ。ランソル。休暇が終われば、今度こそお前のもとに……)
気が付けば、いつの間にか眠りに落ちていた。
『俺、この作戦が終わったら彼女に求婚しようと思うんだ』
夢の中で、もはや記憶の中にしかいない懐かしい顔が嬉しそうに笑う。
王都の花屋で売り子をしている恋人がいるのだ、と言っていつも恋人からの手紙を自慢げにちらつかせる友。
口を開けば、笑った時にできる頬のえくぼがかわいいだの、ちょっと癖毛で、起きたてはいつも髪がぼわぼわなのを恥ずかしがる姿がたまらないだのと、いつも惚気ていた。
『お前も恋人くらい作ったらどうだ? こんなくだらない戦いなんてとっとと終わらせてさ、国へ一緒に戻るんだ。お前だってそんな相手ができれば、きっとその気になるさ』
そんなもの、自分には必要ない。そう言い返しても、あいつは同じことを繰り返した。国へ帰ってお互いにとびきり幸せに暮らそう、と。そんなあいつの言葉を、いつもあきれ顔で聞いていた。
『俺はあいつとなら、間違いなく幸せに生きられる自信があるんだ。あいつのこと、誰よりも笑わせてやる自身も覚悟もある。だからさ、次の休みに王都に帰ったら結婚を申し込むつもりだよ』
あいつの選んだ女ならきっといい伴侶になるだろう。心からそう思った。そんなあいつの夢は叶うことはなかった。
取り返しのつかない後悔と自責の念に、浅い眠りの中でシオンは胸をかきむしった。それを背後から聞こえるアグリアの穏やかな寝息が打ち消す。
気が付けば、いつしか穏やかな眠りに引き込まれていた。




