新たな命 2
ドンドンドンドンッ!
その夜、アグリアは屋敷の扉を激しく叩く音で飛び起きた。
「マルクかっ⁉」
「多分そうだと思う。ナラが産気づいたのかも!」
寝間着に薄い羽織りをかけただけというなんとも無防備な姿で、アグリアはシオンとともに急ぎ階段を駆け下りた。
案の定、階下ではマルクが息を切らせ不安げな顔で待ち受けていた。
「あぁ! しかもこんな時に限って、父さんが腰を痛めちゃってさ。今モンバルト先生が診てくれてるんだけど、俺ひとりじゃ不安で……」
「わかった! すぐに行くわ。シオン、急いでルンルミアージュを起こし……」
言いかけた時、ルンルミアージュが猛スピードで階段をかけおりてきた。しかもきっちりと動きやすい服を着こんだ姿で。どうやらいつ何時産気づいてもすぐに飛び出せるように準備を整えていたらしい。
「夜は冷えるわ。上に羽織るものを何か取ってきて。ルンルミアージュ!」
「わ、わかった!」
自分たちも急ぎ支度を整え、全員で牧場へと向かった。
「モンバルト先生っ! ラナの様子はどう?」
牛舎では、モンバルトが心配そうな眼差しで落ち着きなく動き回るラナを見つめていた。マルクの父親の手当ては無事済んだのだろう。
「おぅ、きたな! 大分苦しそうなんだがなかなか破水しなくてな。腹の張りからいっても、今すぐに産まれてもおかしくはないんだが……」
モンバルトの視線の先で、ナラが苦しげにうめき声を上げた。
「ナラ、苦しそう……」
ルンルミアージュが心配そうな表情を浮かべ、つぶやいた。
「ナラは体も小さめだし、初産だしな。出産に体が持ちこたえられるかどうか……。頑張ってくれるといいんだけど」
辛そうなマルクのつぶやきに、ルンルミアージュの顔も不安げに曇る。
マルクにとってナラは特別な存在だ。懸命にナラに声をかけ、励まし続けていた。そんなマルクに応えるように、ナラが鼻先を上下させる。
ブモォォォォォ……! モオォォォッ……!
何度立ち会っても出産は怖い。必ず命が無事に生まれてくるなんて限らないし、自然の力の前では人間の力なんて無力だと思い知らされるから。もしかしたら最悪の事態だって――。それも含めての自然なのだ。
こくりと息をのんで、アグリアはマルクの肩に手を置いた。
「大丈夫、きっとナラなら頑張ってくれるわ。あなたの妹分だもの。きっと強いわ。さ、私たちはできる限りのことをしましょ。干し草をもっと敷き詰めましょう。それに布もいるわ!」
人間にできることなんて、少しでも負担なく産めるよう環境を整えてあげるくらいがせいぜいだ。それでも何もしないよりはいい。
弾かれたようにマルクが動き出した。
「シオン、干し草はこっちだ。手伝ってくれ!」
「あぁ、わかった」
シオンとマルクが走り出す。
「わ、私は何をすればいい? 私も何かしたい!」
真剣な表情でルンルミアージュがぐっと拳を握りしめた。
「じゃああなたは、モンバルト先生と一緒に家から布を集めてきてちょうだい。もしうまく子牛が出ないようなら、人が手伝ってやらなくちゃいけないかもしれないから。あとお湯も!」
「……わかったわ」
ルンルミアージュがモンバルトとともに家の中へと入っていくのを見やり、アグリアは袖をぐいとまくり上げた。
(神様、お母様……。どうかナラと子牛を守って。お願い)
心の中で祈りながら、シオンとマルクが運んできてくれた干し草をナラを刺激しないようにそっと房の中に敷き詰めていく。
「頑張って。ナラ」
「頑張れ! ナラ」
「しっかりっ。頑張って!」
気が付けば、両隣にマルクとルンルミアージュが寄り添っていた。それぞれに手をぎゅっと握ってくるふたりを励ますように、アグリアは握り返した。そのアグリアの肩を、シオンがそっと支えてくれる。そのあたたかさに力がわいた。
「大丈夫だ、アグリア。動物は人間なんかよりずっとたくましくて強い。ナラを信じるんだ」
シオンの言葉に、三人そろってこくりとうなずいた。
「そうよ。ナラはマルクの妹分だもの! 強い子に決まってる。きっと元気な子牛を産んでくれるわ!」
「そうだ。俺はナラを信じてる! こいつは見た目よりもずっと頑張り屋で強いんだ。なんたって俺の妹だからな。きっと元気な子どもを産んで、たくましいお母さんになってくれる!」
ルンルミアージュとマルクが言い切った瞬間、ナラがひと際大きく鳴き声を上げた。
ブモオオオォォォッ!
そして――。
バシャァッ。
「……!」
ついにナラが破水し、皆が見守る先でついに子牛の体がずるり、と胎内から地面に落ちた。
ブモォォォォッ! ブフルルルルッ。
干し草の上に生まれ落ちた子牛を、ナラが鼻先で優しく小突く。それに励まされるように、子牛がぷるぷると震える足でよろよろと立ち上がった。その力は弱々しく実に頼りない。けれどしっかりと大地を踏みしめていた。
「……!」
子牛はふらつく足で懸命に母のぬくもりを探して近づき、ナラもまた愛おしそうに命の第一歩を踏み出した子牛に鼻先を寄せた。その姿に皆の口から安堵の息がこぼれ落ちた。
「ふぅ……。やれやれ。もう大丈夫なようだな」
シオンのつぶやきに、モンバルトもうなずいた。
「あぁ。あとはナラに任せておけば大丈夫だ。後産もどうにか済んだようだからな」
目の前には、子牛に乳を与えるナラの姿がある。その神々しいまでの美しい姿に、皆目を奪われていた。
「よく頑張ったわ、ナラ。マルクもお疲れ様。本当によかった」
声もなくむせびなくマルクを、アグリアはぎゅっと抱きしめた。
マルクはこくこくとうなずき、ぐいと涙で濡れた頬を服の袖で拭った。
「あぁ! さすがは俺の妹だ。さっそく子牛にいい名前を考えてやらなくちゃな」
「私も一緒に名前、考えてもいい? マルク」
同じく大きな目に涙をいっぱいにためたルンルミアージュが、声を上げた。
「もちろんさ! ルンルミアージュも、ナラと子牛のために頑張ってくれたもんな。一緒に考えよう」
「うんっ!」
満面の笑みを浮かべうなずいたルンルミアージュの顔が、ふと悲しげに曇った。
「……どうかした? ルンルミアージュ」
アグリアの問いかけに、ルンルミアージュがぽつりと答えた。
「本当はね、王都を飛び出してきたのは他に理由があるの。シオンに会いたかったのも本当よ。でもそれよりも……、実はお母様のお腹に赤ちゃんがいるの」
「ええっ⁉」
「それ、本当かっ?」
思わずシオンと顔を見合わせた。ルンルミアージュはこくりとうなずいた。
「それを聞いてから、なんだか胸の奥がチクチクしてたまらなくなって……。素敵なことだってわかっているけど、なんだかお母様が遠くなっちゃったみたいでたまらなくなって。つい飛び出してきちゃったの」
ルンルミアージュは深くうなだれた。
「ナラのお産を見ていて、私わかったの。お母様も私のことをこんなに大変な思いをして産んでくれたんだって。それがどんなにすごいことか……。なのに私、まだおめでとうも言ってない……」
ルンルミアージュの小さな肩がふるふると震えていた。
時折ルンルミアージュが見せていた寂しそうな色。その理由がようやくわかった。しっかりしているように見えるけれど、本当は繊細で壊れそうな思いを抱えていたのだ。そんな思いを抱えてひとりこんなに遠くまできたのかと思うと、胸がぎゅっと締めつけられる思いがした。
「なるほど。そういうことだったのか」
シオンがルンルミアージュをなぐさめるように、小さな頭をがしがしとなでた。
「どうしよう……。お母様、私のこと嫌いになっちゃったかもしれないわ。こんなひどいことした上、心配までかけて……。私お母様にひどいことしちゃった……」
しくしくと泣き出したルンルミアージュの手を、マルクがぎゅっと握った。けれど涙は止まらない。
シオンがしゃがみこみ、ルンルミアージュの顔をのぞき込んだ。
「大丈夫だ、ルンルミアージュ。リリアンヌならお前の気持ちもきっとわかってくれてる。お前にとっても大きな変化なんだ。心が揺れるのは当然だ」
「そうよ、ルンルミアージュ。お母さんがあなたを嫌いになるなんて、絶対にない。帰ったら、素直に自分の気持ちを話してみるといいわ。大丈夫、必ずわかってくれるから。ね?」
アグリアの脳裏に、懐かしい母の手のぬくもりがよみがえった。
何もかもをすっぽりと包み込むような、すべてを見透かしたような大きな愛。長い時間をかけて胎内で子を育む母の愛は、そんなことで揺らいだりはしない。きっとルンルミアージュの母親は、ルンルミアージュの揺れる心もとっくに理解しているはずだ。
「そう……かしら。本当に……そう思う? お母様、許してくれるかしら……」
不安げに瞳を揺らすルンルミアージュを、アグリアはそっと抱きしめた。
「えぇ、必ず」
頬を伝う涙を指で拭えば、ようやくルンルミアージュの顔に笑みが戻った。
どうやらナラの出産は、新しい命だけでなく小さな心に突き刺さった棘をやわらかく溶かしてくれたらしい。
皆体はくたくたに疲れ切っていたけれど、どこまでも晴れやかで清々しい気持ちで帰途に着いたのだった。




