嵐の余波 2
はじめてタリオンが戦地へと旅立ったその年は、例年になく寒かった。
白い雪がちらつくどんよりとした曇天を、今もはっきりと思い出せる。身を温める暖炉の火も、かぐわしい香りを漂わせるあたたかな飲み物とも無縁の、隣国との国境地帯。険しい山道を、他の兵士たちとともに歯を食いしばり歩く。
当時の凍えるような寒さと生と死が背中合わせの厳しい日々を思い出し、タリオンは大きくぶるりと体を震わせた。
「まったくシオンのやつ、何を考えてるんだか……」
なんとも薄情な友人を思い、タリオンは小さく舌打ちをした。
タリオンがシオンと出会ったのは、王立学院に入学した十四歳の春だった。すぐに意気投合し、学院の中庭や互いの寮の部屋で、くだらないことを飽きもせず話したものだ。
あの頃はシオンもごく普通の若者に過ぎなかった。少々不器用で頑固過ぎるところはあるが、情に篤く困った者を放っておけないお人好しなところのあるやつだった。それが長く戦地にいるうちに、すっかり変わってしまった。
(あいつ、本気で王都には二度と寄り付かないつもりか。いきなり結婚したなんて知らせがくるから、てっきり幸せにやってるもんだと思ったら……)
タリオンも、ほんの一年ばかりとは言えシオンとともに同じ部隊で過ごしたのだ。戦争が人間に落とす影がいかに大きいかはよくわかっているつもりだ。
けれどシオンとは違い、タリオンは戦争が激化する前に軍本部へと移った。以来ずっと戦地には行かず、お偉方の機嫌をうかがいつつ事務作業に明け暮れる日々だ。
シオンがなぜ頑なに戦地から離れようとしないのか。望めば自分の伝手で軍本部へと呼び戻すことだってできる。そもそも貴族の子息が戦地で武器を手に戦うなど、そう多くはないのだ。なのになぜ。
その理由が数年前に起きた、とある事故――いや、事件にあることをタリオンは知っていた。シオンの命までもが失われていたかもしれない事件。それがシオンの心に大きな影を落とし、いまだそこから立ち直っていないのだろうと。
けれどシオンに何も言うことができないまま、長い時間だけが過ぎていた。
『シオンが結婚したって話、聞いたか? タリオン』
ある日同じ軍本部で働く仲間からもたらされた情報に、心底びっくりした。
『あのシオンが、結婚だと? そんな馬鹿な……!』
嘘だと思った。だってシオンは生きる気力すらなくして、亡霊のように変わってしまっていたのだ。そんな人間が結婚なんてするはずがない。そんな素振りもまったくなかったし。
けれど同僚は、確かに婚姻の届けが軍部に出ているのを見たと言った。なんでも、アグリアという田舎領地の令嬢との結婚したらしい。
『あいつ、なんでそんな大きなことを黙って……』
結婚なんて人生の一大事、なぜ自分にも何も知らせてくれなかったのか。というか、一体いつの間にそんな相手を見つけていたのか。
思わず先を越されたような気持ちも相まって、本気で腹が立った。が、同時にもしかするとようやくあの辛く心を抉るような過去から立ち直ったのかもしれない。そう考えて、心から安堵もした。
整った精悍な顔立ちに、切れ長で実に涼しやかながら時に甘く幼くも変化する目元。少々ぶっきらぼうに見える態度から垣間見える、真の優しさとはこういうことを言うんだろう、としみじみ思うような穏やかな性格。
そんなシオンは周囲からの人気も高く、女性にも大モテだった。本人が望めばいつだって幸せになれたはずだ。そう。あんな事件さえなければきっと。
事件直後に見た、すっかり光の消えた落ちくぼんだ目を思い出し何とも言えない気持ちがよみがえった。もうあんな苦しそうな顔を見ずに済むのなら、何よりではある。だが友人として一言連絡をくれたって罰は当たらないと思うのだ。喜んで祝福してやったのに。
けれどよくよく聞いてみれば、結婚したとは言っても婚姻届を出しただけで婚礼もなし。肝心の夫となったはずのシオンはずっと戦地に行ったきり、一度も同居していないと聞いて驚いた。一体何を考えているのか、さっぱりわからなかった。
それほど好いた相手がいるのなら、武器なんて放り出してさっさと国へ戻ってくればいいのだ。相手の令嬢は辺鄙な田舎の領主の娘で婿養子にシオンを迎えたというのだから、王都が嫌いなシオンには願ったりだろう。なのになぜ国にも一度も戻らず、一日もともに暮らすことなく妻を置き去りにしているのか。
そして少し前、偶然にタリオンはシオンがひと月もの長い休暇を取ったことを知った。そんなにも長い休みならば、一度くらい王都にくるだろう。家族にももう長いこと会っていないはずだし。
そんなことを思っていた矢先、偶然町中でシオンの兄ジグルドとその娘に遭遇した。だから聞いてみたのだ。シオンはいつ頃王都に顔を出すつもりなのか、連絡はもうきたのかと。
その時のやりとりを思い出し、タリオンは肩をすくめた。
驚いたことに、ジグルドは何も聞いていなかった。シオンが休みを取ったことも、何も。
(ありゃあきっと完全に黙って戦地に戻るつもりだったんだな。今頃俺がばらしたこと、シオンに伝わっている頃か? まぁ薄情なあいつが悪いんだ。結婚したことすらろくに連絡を寄越さないんだからな)
もしかしたら、シオンとそのアグリアという令嬢の結婚には何か裏があるのかもしれない。だからこそこうまで口をつぐんでいるのかも。
(まったく困った奴だ。何か悩みがあるのなら、なんでも話してくれればいいものを……。いつだって力になってやるのに)
タリオンは空を見上げ、すっかり暗い顔でぎこちなく笑うようになった友人を思った。
(アグリアちゃん、ねぇ。あいつが今頃、田舎でのんびり少しは楽に笑えているといいんだがなぁ)
あきらめと願いとが入り交じったため息が、ふわりと空に溶けていった。




