嵐の余波 1
その数日前、王都の屋敷では。
「た、大変ですーっ! 大奥様、若奥様ぁっ」
屋敷に響き渡る使用人の叫び声に、上品な出で立ちの夫人が目を丸くした。
「まぁ、何事なの? そんなに大きな声を出して」
「そ、それが……ルンルミアージュお嬢様のお部屋に、こんなものが」
震える手で使用人が差し出したのは、丸みのあるいかにも子どもらしい字で書かれた書き置きだった。
『シオンに会いに、アグリアという人の領地に行ってきます。
薄情なシオンを私がうんと叱り飛ばしてくるから、心配しないでね。
ルンルミアージュ』
夫人の口が、あんぐりと開いた。
「なんてこと……! あの子、まだ九歳なのにたったひとりで馬車に乗り込んだっていうの⁉ あんな遠い所へ?」
そこに書かれていたのは、まさかの家出の知らせだった。いや、ちゃんと行き先も理由も書いてあるのだから、家出とは言わないのかもしれないけれど。
夫人が産んだふたりの息子のうち長男のジグルドはすでに結婚し、家を継いでいる。立派に独り立ちしたと言っていいだろう。けれどもうひとりの息子シオンは、夫人にとって悩みの種だった。
この国が隣国と戦争をはじめて、もう何年にもなる。
ジグルドの子ルンルミアージュが一歳を迎える頃には、すでにきな臭い不穏な空気が国中に漂っていた。
戦いの発端は今となっては判然としないが、確か隣国との境界線沿いで起きた両国の兵たちの些細ないさかいだったはずだ。よってこんなに長く続くなんて、誰も思いもしていなかった。
けれど戦争なんて、いつの時代もそんなものだ。大抵は、上に立つ者のくだらない顕示欲だとか度の過ぎた縄張り意識からはじまる。
それでも最初の頃は、貴族の若者もこぞって国のためにと戦地で戦った。けれど次第に様相が変わりはじめた。皆この戦いは一部の金持ちだけが利を得るためにはじまった、無益なものであると気が付いたのだ。
以来戦いに行く者と言えば、お金や仕事を得たい事情を抱えた者であるとか、もともと軍人家系に生まれた者ばかりになっていた。
シオンはと言えば、長男ではないから家を継ぐことはない。けれどいくらだって他に仕事の口はあった。無理に戦地で戦う必要などないのだ。もともと家系的に言っても軍人向きではないのだし。
その上シオンときたら、数年前から王都に寄り付きもしなくなった。手紙は時折届くものの、内容はいつも素っ気ない。
『もうそろそろ戦地には戻らずに、国に戻ってきたら? 仕事ならいくらでもあるわ。何も身を危険にさらしていつ死ぬかわからないような暮らしを続けなくても……』
何度そう言って、戦地に戻る息子を止めたかわからない。けれど答えは決まって否だった。
『他にやりたいことも特にないし、一日中じっと小奇麗な部屋に座って事務仕事なんて性に合わない。だから行くよ』
いつもそう言って、戦地へと戻っていった。
そんなある日、恐れていた事態が起こった。シオンが重傷を負い、王都の病院へと運び込まれたのだ。
変わり果てた息子の姿に、言葉を失った。何かの爆発事故に巻き込まれたらしい。全身傷だらけで、ぐるぐる巻きに包帯が巻かれた頭が痛々しかった。
それ以上に、シオンの表情に愕然とした。まるで生きる力をごっそりと根こそぎ奪い取られてしまったかのような、亡霊のような顔をしていたのだ。
息子の身に、何か恐ろしいことが起きたのかもしれない。目に見える傷だけではなく、もっと心を深く抉るような何かが。
けがが治り、シオンは何かから逃げるように戦地へと戻った。以来、シオンは王都に寄り付かなくなった。家族にも会わずに、まるで王都の土を踏むのを避けるように。
そんな息子にどう接したらいいのかわからないまま、時は過ぎた。
『結婚することにした。
相手はアグリア・ノーレルという子爵令嬢だ。双方の希望で、籍だけを入れ挙式等はしないつもりでいる。
色々と心配だろうが、何も言わず受け入れてくれると嬉しい。
シオン』
ある日突然にきたシオンからの手紙には、そう書いてあった。
驚きはした。顔合わせも両家の付き合いもしない。挙式もなしだなんて、とても普通の結婚とは思えなかったし。
けれどノーレル家は王都から遠く離れた地にあるらしいと知って、ある意味納得もしたのだ。あの子はきっと王都には二度と戻らない代わりに、他に安住できる地を求めたに違いないと。
こうなったら、あの子が生きていてくれさえすればいい。ほんのひと時でもあの子が楽に息をして笑ってくれるなら、それだけで。
だから何も言わず、おめでとうと伝え遠くからそっと幸せを祈っていたのだったけれど――。
ともかくも今は孫娘の行方が問題だ。
「困ったわね……。どうにかして呼び戻したいけど、もうとっくにあちらに向かっている頃でしょうし……」
夫人は孫娘の斜め上の行動力に、深いため息を吐き出した。
ルンルミアージュは、年の割にはしっかりとした子だ。賢く、人の心のちょっとした機微を読むのも得意だ。父親に似たのだろう。その反面、どうにも向こう見ずなところがあった。母親に似たのではない。母親であるリリアンヌは、朗らかで穏やかな質だが行動はいつも慎重だから。
「変なところがシオンにそっくり。困ったところが似るものね、まったく」
おそらくルンルミアージュが屋敷を出たのは、今から二時間ほど前だろう。となれば、一応はダメ元で馬車の行方を追うとしてアグリアに知らせをやらねばならない。きっと迷惑をかけてしまうだろうから。
まさかこんな形で息子の嫁に連絡を取ることになろうとは思いもよらず、またしても大きな嘆息がもれた。
「もしも入れ違いにシオンからも手紙がきたら、すぐに教えてちょうだい!」
おろおろと心配そうな表情を浮かべる使用人に、夫人は告げた。
夫人の脳裏に、もう何年も顔を合わせていない息子とまだ見ぬその妻の顔がぼんやりと浮かんだ。
「ふぅ……。まったく困った子たちだこと」
夫人の口から、心配と情の入り交じった嘆息がこぼれ落ちた。




