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透明人間  作者: 岡倉桜紅
18/22

18 カスミソウ

 僕が橋の下に行かなくなってから数日後、学校からの帰り道に横を通った時、警察が集まっているのが見えた。そこには段ボールやコンテナで作った家も無く、おじいさんはほとんど裸同然の恰好で、ただ河原に横たわっていたらしい。胸にはカスミソウの花束を抱いていた。

 僕はやっとそこで自分の愚かさを思い知った。おじいさんは知っていたのだ。僕が花屋から盗みを働いていたことも、僕がおじいさんのことを自分の欲求のはけ口にしていたことも、僕が幼さを捨てきれない愚か者であることも。すべて見抜いた上で僕と話し、僕の遊び相手に徹し、僕を守った。

 おじいさんは本を売るために町中を歩いていた。当然、花屋の前も通っただろう。何の花が並べられているのかも知っていただろうし、花屋の店主と言葉を交わし、仲良くしていたかもしれない。僕が盗んだことくらい、調べればすぐにわかったはずだ。おじいさんは自分の身の周りのものを売ったんだ。花を買うために。そして世間の人を残らず優しい嘘で騙した後、何も言わずに口を閉じた。僕はどこまでも子供で、おじいさんはどこまでも優しかった。

 花屋に今すぐ走って行って、僕が盗んだんですと告白しようか。でも、それはおじいさんがわざわざ僕に掛けた優しい嘘のヴェールを、自ら破るような真似だった。僕は何もできない状況に追い込まれていた。これは、おじいさんに背負わされた僕の罪だった。

 苦しい。

 苦しい。苦しい。苦しい。

 僕は学校に行かなくなった。上手く息ができない。自分が招いた罰なのに、僕は救いを求めてしまう自分に気づく。誰かに救けてほしかった。

 ふと、スクールバッグから飛び出した紙の束が目に入った。夜野の原稿だった。ずっと、夜野の傍にいればよかった。夜野の書く小説を読んで、夜野とささやかな会話をして、穏やかな日々の中で、小さな幸せにも気付けるような、そんな感性を育てていくべきだった。僕に友達はいないが、もし、そう呼んでも許されるのであれば、夜野に友達でいてほしかった。

 僕は手紙を書いた。僕の罪を懺悔できるのは彼女しかいないと思った。懺悔の手段は、対面よりも電話がいい。懺悔するというのに今更何を気にしているのかと自分自身に呆れるが、自分に軽蔑の視線を送る夜野の顔を見ることを思うと、泣かずにいられるかどうか自信が無かった。また、夜野が僕の人間性に嫌気がさしたときにすぐに切れるという点からも、やはり電話がふさわしいように思えた。

 夜野の連絡先は知っていたので、数秒スマホを操作すれば夜野に電話をかけることは可能だったが、どうしても自分の都合でかけることが許されないような気がしてできなかった。

 数週間経った。僕はいまだに部屋に籠り、一人女々しく夜野の電話を待っていた。スマホが震えるたびに飛びついて電話に出るが、どれも期待した人からではなかった。心配してくれる人たちに僕は無理に明るい声を出し、自分のことは気にしないでほしいと告げた。

 百回目の電話が夜野ではなかったのを確認して、僕はその電話を切った。僕は部屋の中で大の字に寝転がって乾いた笑いを漏らした。なんて馬鹿なんだろう。僕が夜野のことを勝手に友達だと思っていただけで、夜野の方は違う。そもそも、普段から自分の事ばかりな僕が、自分が辛い時にだけ他人に縋るなど、許されるわけがなかった。自分の弱さに絶望する。消したい。僕の胸のほとんどを構成するこの弱い心を消し去りたい。

 僕は屋上から飛んだ。

 目を覚ました時、変わらず僕の人生が継続しているのを確認して、ああ逃げることはできないのだと僕は悟った。僕が寝ている間に置いて行かれた誰かのお見舞いの花は、奇しくも僕が盗んだ白い花だった。僕はベッドに寝転んでいても見えるようにその花を吊り下げた。花は死んでいく過程で花弁を散らし、僕の頭上に降り注いだ。

 逃げられないのなら、隠れたい。この心を透明にして、僕からも見えなくしてしまいたい。

 僕は今まで通り、誰にでもヘラヘラと愛想よい姿勢を続けた。ただ、むやみに人を観察するのをやめ、自分の心を押し殺した。これ以上、僕の弱い心で誰かを傷つけることのないように。こうして僕はやっと、幼い自分を捨てた。部屋の中で寂しく街を見下ろす少年を地面に蹴り落して消した。

 僕は夜野から離れた。透明になって距離を取り、これ以上関わらないのが一番良いのだから。

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