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透明人間  作者: 岡倉桜紅
17/22

17 文披

 僕は自分のことが嫌いだった。

 無力で、泣き虫で、寂しがり屋で、何一つ一人ですることのできない、自立していない子供。それが僕だった。僕は優しくされるのが好きで、いつも他人にそれを期待していた。両親は仕事が忙しくて、ほとんど僕に構う暇は無かった。だから、僕は甘えたい気持ちを抱えたまま、まだ幼い時から大人のようにふるまうしかなかった。送り迎えが困難だったために幼稚園には行かせてもらえず、毎回違うベビーシッターがかわるがわる僕の家を訪れては僕の身の周りの世話をした。てきぱきと家事を片付け、余った時間にスマホをいじるか、ベランダで煙草を吸うのが生き甲斐の彼らが、この部屋で唯一の僕以外の他者だった。僕の家は高層のマンションだったので、外を駆け回ることもできず、僕は彼らが仕事をしている間、窓の傍で街を見下ろすことしかできなかった。仕事を手伝おうとしてみたこともあったが、上手くいかず、結局邪魔をすることしかできなかった。

「ねえ、なんであんたはそんなに家事をしたがるわけ?あんまり仕事奪われると困るんですけど」

 その日、初めて僕の家に来たベビーシッターのお姉さんが、洗濯を手伝おうと洗濯機に体を突っ込んでばたばたもがいている僕を見下ろして聞いた。

「あたしは金もらってるから仕方なくやってるけどさ、正直自分の洗濯なんて面倒で、できるもんなら他人にやってもらいたいよ」

 煙草の匂いがするお姉さんは僕を洗濯機から引っ張り出した。

「僕は忘れられたくないんだ。僕がちゃんと役に立つことをすれば、僕はここにいてもいいんだって思える。僕はここにいるんだってわかってもらえる」

「ふーん。存在証明のためってわけか」

 お姉さんは顎を前に突き出すような頷き方をした。お姉さんはしゃがんで僕と目を合わせた。だらしなく下ろし、もはや顎の下を隠すファッションの一部のようになっている透明マスクが目に付いた。マスク着用はベビーシッターの会社からの指令なのだろうが、よく見れば体の輪郭が透けているのがわかる程度の透明感のお姉さんは、その指令を守る気はなさそうだった。

「あのさ、私はそんなに真面目な方じゃないけど、大学では経済学ってのをやってるんだ。新たなビジネスは大抵、誰かのああ困ったなあを解決したいと思うところから始まって、気付いたら対価も得てる。お金が欲しいなあ、さて何を売ろうかなという順番じゃない。あんたが今やってるのは、存在証明っていう対価が欲しくて、でも何をしたらいいかわからないから、がむしゃらに周りの仕事を奪おうとしてるだけだ」

「どういうこと……?」

「だからさ、需要は自分の目で見つけろってことだよ。対価が欲しいならね。対価が欲しいと思うのは悪いことじゃないが、それを丸出しにしとくと嫌われる。このままだとお前はいい子ぶりっこの迷惑なやつになっちまうぞ。つまり、あたしの仕事を邪魔すんな、他の人を観察していち早く困っていそうなことを発見して、誰かに助けられる前にお前が助けろってこと」

 お姉さんの説明は難しい単語が多かったが、最後の言葉の意味はわかったので僕は頷いて洗濯機から離れた。お姉さんは満足気に「それでいい」と言った。

 僕はお姉さんを観察した。お姉さんはかなり適当な手つきで散らばった洗濯物を洗濯機に放り込み、ボタンを押した。そして部屋の掃除をこれまた適当に、いや、速度重視で手際よくこなした。食器を洗い、キッチンの普段掃除が行き届かないところを磨き、料理の作り置きをし、そして一つ伸びをしてベランダに向かった。

 僕は小走りでお姉さんの元に駆けていき、お姉さんが自分の尻ポケットからライターを取り出す前に、父のライターで火を付けた。

「おお、やるじゃん」

 お姉さんは目を丸くしたが、やがて顔を崩して笑って、僕の髪をくしゃくしゃになでた。

 僕は小学校に入学し、お姉さんとはもう二度と会うことはなかったが、僕は困っている人を常に探すようになった。困っている人を見つけ、誰よりも早く駆け寄って手を差し伸べる。それをすれば、僕は僕のことを肯定することができた。

 そんな生活を続け、対価が欲しいと思う下心も笑顔と愛想で上手く隠せるようになってきたころ、僕は高校生になっていた。僕は求めていた。僕より弱くて、誰かの助けを必要としていて、助ければ僕にたくさんの感謝と存在証明を与えてくれそうな人を。顔だけはへらへらと笑顔を振りまきながらも、僕の目はいつもハイエナのように油断なく周囲に気を配っていた。友達はいなかった。すべて、僕の周りの人は僕を肯定してくれるための道具にしか思えなかった。

 その日も、僕は人助けをした。落ちていたノートを拾って、持ち主に返した。中身はろくに見なかったが、筆跡で隣の席の女の子のものだとわかった。その女の子は夜野といった。夜野は僕からノートを奪い返し、顔を真っ赤にしていた。でも、僕がよく考えもせず口にした「面白かった」という言葉でひどく動揺したようだった。彼女は僕に小説を読んでほしいと言った。

 机の下でこっそり手渡された原稿は、思ったよりも厚みがあった。僕は家に帰り、その文字すべてに目を通した。不思議だった。夜野は僕よりも弱そうな人間には見えなかった。他人から存在の証明を請う素振りもなく、僕からのささやかな感想で満ち足りているようだった。まるで、ほとんど食事を摂らずに霞で生きる仙人みたいな人だと思っていた。彼女と話すのはいつも数言だったが、その短い会話の中で、彼女が「読んでくれてありがとう」と言ってくれると、僕は不思議と満足した。小説家は静かで極力何もないような場所に自分の精神を置いて、ほとんど何もないその世界に目を凝らす。すると、情報に塗れた環境にいた頃には気づかなかった些細な、心の動きに敏感に気付くことができるようになるそうだ。

 夜野の小説を読み、夜野と言葉を交わす時間は、僕を穏やかな気持ちにさせた。いつもは、より強い存在証明を、より強い刺激を求めていたのに、夜野といる時は心が凪いで、ほんの小さなことにも喜びを感じ、幸せを見出せるような気がした。たぶん、僕は夜野のことを生まれて初めての友達だと思って、浮かれていたんだと思う。

 ただ、夜野と出会って少し交流を深めたところで、僕の本質がすっかり変わってしまうなんてことはなかった。僕はいまだに僕の庇護欲のようなものを満たし、自分の英雄願望を叶えてくれそうな、献身のしがいがある、僕より弱弱しい存在を探していた。

 そして僕は、うってつけの人材を発見した。帰り道、河川敷を歩いていると、橋の下に本を並べている老人を見つけた。おじいさんは空咳を繰り返していて、そこも気に入った。古本を安く仕入れて、それより高く売る、そういう仕事をせどりと言うことをおじいさんから聞いた。僕は本を買うと申し出たが、読みたくないものをわざわざ買うものではない、と諭された。僕はどうすればおじいさんのことを救えるのか必死で考えた。アルバイトを辞めたので、両親が残してくれたお金の残りも減りが早くなり、少し寂しい財布をはたいてコンビニで食べ物を買って持って行ったが、断られた。

「わしの立場になって考えてみてくれ。その行為はみじめになることがわからんかね」

 おじいさんは頑なにものを受け取ろうとしなかった。家も家族も持っていなかったが、一つ残った自分の心だけは大切にしていたのだった。何も持っていない癖に、いつも穏やかな顔をして、むかつくくらい豊かに生きていた。僕は今まで通りにいかず、苦戦した。

「大丈夫、君がこうして時々ここに来て話をしてくれるだけで、十分ありがたく思っているよ」

 おじいさんは本を抱えて日中は町を歩き、夕方は橋の下に戻っていた。僕はおじいさんと話した。とにかく時間を作り、おじいさんの話し相手に徹した。春が終わり、季節は梅雨に向かっていた。三寒四温の毎日が続き、雨の日の後は、地面が湿って本やおじいさんの段ボールの家が濡れた。

「今日は君の誕生日だろう。こんな老いぼれに構っていないで大切な人に祝ってもらいなさい」

「誕生日なんて、勝手に意味をつけただけで、普通の日と何も変わらないよ。それに、両親は海外に行ってしまっているし、僕に友達はいない」

「誕生日を祝われなくていい人なんていないんだよ」

 おじいさんは言った。

「そうだ。それならおじいさんの誕生日はいつなのさ」

「わしはずいぶん前にそれを忘れてしまった。だからいいんだ」

「良くないよ。じゃあ、今日を誕生日にしよう。明日、誕生日のプレゼントをあげる。プレゼントなら受け取ってくれるよね」

 僕はおじいさんに何かできるということに喜んだ。贈るなら花が良いと思った。おじいさんはいつも河原の花を愛でていた。僕は花屋に行った。

 そして愕然とした。僕は今まで商品の花というものを買ったことがなかったから、花の値がこんなに高いなんて知らなかった。透明化時代が迫っていて、普通に咲いている花を愛でる人は減っていた。そのため、花は祝い事や節目の記号となり、その美しさのためではなく、その希少性と意味づけによって高値がつけられるようになっていた。豪華なものでなくてもいい、小ぶりな花束一つで良かった。しかし、僕の財布の中身ではそれすら叶わなかった。

 今、必要なのに。おじいさんを救うには花が必要なのに。僕は貨幣制度や資本主義や金、経済という概念を世界に縛り付けた全てを呪った。

 僕は、花を盗んだ。店先のブリキのバケツに入れられた、小さな白い花がたくさんついた茎を数本つかみ取って逃げた。

 おじいさんは花を見て柔らかに顔をほころばせた。そしてしわだらけの手でそれを受け取り、「ありがとう」と言った。僕はたちまち満たされた。これをずっと求めていた。脳に変なホルモンが出たかのように、体中が震えるような快感が僕を突き抜けた。

 おじいさんが死んだのは、その数日後だった。

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