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透明人間  作者: 岡倉桜紅
15/22

15 津野

 俺は、ずっと透明が嫌いだった。

 俺が高校生になるころ、世界の透明化は進み、とうとう俺の生活でも手の届く場所にまでやってきた。クラスメイトは一人、二人と透明になっていく。高校二年になるころ両親が家族全員分の仮面を買って来た時は驚いた。

 たぶん、どこか寂しかったんだと思う。皆、俺を置いていって、残された俺はひとりぼっちになってしまうような気がした。

「透明になるのをやめようよ」

 そう姉に言った。

「透明になれば安心できるの。通学中、気持ち悪いおっさんに体をじろじろ見られずに済むし、他人との無駄な関わりをカットすれば、それ以外の面倒な事件も避けられる。誰かに迷惑をかけたり傷つけてしまうことも減る。私は自分を透明で守りたいの。世界は優しくないけど、私が透明になれば、少なくとも私は世界に対して優しくあれるでしょ?」

 意味がわからなかった。詳しく問い詰めて理解しようとしたが、姉は透明にすっと隠れた。仮面を被ることや被らないことは誰も他人に強制してはいけないというルールに従っているのか、両親も「困った息子だな」と言わんばかりに顔を見合わせるだけだった。誰も俺に話をしてくれず、俺に黙って透明になっていく。

 気に入らなかった。むしゃくしゃした心は、青春時代特有の無鉄砲さと混じりあって、俺を非常識な行動に走らせた。

 透明を否定するにはやはり、透明の対極にあるカラフルな何かで訴えるのがいいだろう。そうだ。美術室から絵具を大量に盗み出して、そしてその絵具で皆の目に入る場所に大きく主張を書きなぐってやるのだ。全員が同時に透明をやめない限り、この透明化時代は終わらない。

 グラフィティをしよう。透明が無かった昔の時代は、街中や地下鉄、どこにでもアートが存在し、道行く人の目を無差別に楽しませていたらしい。アートの素養なんて全く無かったが、グラフィティは万人に開かれた表現手段だと聞いたことがあるし、誰にも相手にされていない俺の声を誰かに届けることもできるかもしれない。

 そう決意すると、俺は胸をわくわくさせながら放課後を待った。

 美術室の扉を開けると、絵具特融のシンナー臭のような臭いが鼻の奥をついた。部屋は静かで、遠くで吹奏楽部が練習している音が開いた窓から入ってきていた。俺はまっすぐ教室の奥の壁際の棚へ向かった。貸し出し用の絵具がその棚に大量に収められているのを俺は知っていた。たくさんの生徒の手を渡って来たであろう汚いチューブを掴み出しては手近な机の上に置いていった。ほとんど絞り出されてしまってつぶれているものも多い。時々、業務用のように太くて大きなチューブを発見した。使い終わった後、チューブの蓋をちゃんと閉めないやつもいるようで、すっかり固まってしまっている絵具の塊や、まだ乾ききらずにチューブ表面についているものもあって、俺の手はすぐに絵具で汚れた。

「何するつもり?」

 声をかけられて俺はぎょっとして振り返った。閉まった扉の傍には誰もおらず、窓際に視線をやった時、その人物に気づいた。仮面が合っていないのか、半透明の彼女は窓辺の乾燥棚の横の窓の桟に寄りかかるようにしてそこにいた。白いカーテンが揺れる。彼女が顔に手をやり、仮面を外すと、彼女の姿はゆっくりと輪郭を結んだ。今の今まで彼女がそこにいるなんて気が付かなかった。多くの場合、仮面を着けていたって気配まで消せるわけではない。仮面を着けている人と着けていない人が入り混じるこの時代の過渡期には、仮面の効果が、姿は見えないけれど存在は感じられる程度であることで成り立っていた。自分の計画に興奮して周囲が見えていなかったこともあるが、それを抜きにしても彼女の存在感の薄さは桁違いだった。

「関係ないだろ」

 彼女の名前を思い出そうとしたが、思い出せなかった。

「……誰かに、俺がやっていることを見たって言うか?」

 俺の質問には答えず、彼女は質問する。

「絵を描きたいの?」

「まあね」

 思い出した。隣のクラスの夜野というやつだ。一年生だった去年まで同じクラスだった。

 夜野は窓の桟からふわりと体を離し、俺の出した絵具の山のもとまで歩いてきた。

「何かを表現しようとするとき、その行為は必ず他人に何かを押し付けることになる。あなたは透明が嫌いなんでしょう?透明を選んだ人のことも。透明をやめてほしいと表現したくて、絵具を取ったんでしょう」

 部屋の前の方の席に、一文字も書かれていない白い原稿用紙が一枚と、文鎮のようにシャーペンが置かれていた。美術室が、美術部と文芸部の合同活動場所だったことを俺は思い出した。

 俺たちの学年が受験に近づいているからなのか、時代の流れで変わっていくまさに先端にいるのかわからないが、今年になって急に芸術系の科目が減った。

「人には、どうしても他人に触れてほしくないようなものがあるの。透明を選んだ人は、それを守りたいだけ。他の人を傷つけるつもりも、透明によって悪いことをするつもりもない。ただ、自分から一人を選んで、一人になりたかっただけ。他人の心は私には難しすぎてよくわからない。皆本音を透明にするし、嘘を吐くし。たぶん、一生分かり合えない事柄もあるんだと思う。私はそれでもいいと思う。今の私の言葉も、あなたの気持ちを無視した押しつけになっているかもしれない。それが怖い。でも、言いたいの。透明の人をどうかそっとしておいて」

 夜野は指先で絵具のチューブをいじるようにした。白い指先にくすんだ青が付いた。普段、あまりしゃべることがないのか、夜野は言い終えてから小さく咳払いをした。

「本音がわからないなんて、そんな世界は嫌だ」

 俺は人と話がしたいし、人の気持ちが知りたい。

「お願い」

 夜野はささやくような声で言って、それから水道へ歩いて行って指先に付いた絵具を洗い流した。仮面を着け、もう俺と関わるのは終わり、というように席に座った。すう、と彼女の存在感が空気のように薄くなる。

 彼女は俺に何も押し付けない。透明になる人の気持ちが知りたいと思う俺に、それを普段使わない声にして説明した。そしてささやかに願いだけを、こんな俺にもわかるように言葉にして、それからまた静かな透明に戻った。他の大勢の透明な人を守るために。

 俺は気付いた。人の心がわからないのは、他人が隠しているからではない。俺が未熟で、読み取れないだけなのだ。俺の読み取る力が無いのを、他人の説明不足のせいだと押し付けてわがままに他人の方を変えようとした。おかしいのは世界じゃなく、俺だ。

 俺は絵具を棚の中に戻した。その間、夜野は一度も俺の方を振り返らなかった。俺の手はさまざまな色の絵具で汚れ、よどんだ黒になっていた。どこから見ても、色彩あふれる美しいカラフルではなかった。世界に色は溢れているが、溢れすぎているのかもしれない。俺は水道で手を洗い、美術室を後にした。

 俺はその日から、本を読むようになった。映画も観た。受験勉強にも邁進したが、それ以外の時間は全て作品を摂取することに費やした。生身の人に教えてくれと迫る前に、作品から人の心を学ぶのが一番誰の迷惑にもならない方法だった。俺は、誰も傷つけない、誰にも何も押し付けないような、そんな優しい人になりたかった。

 俺は国内で最も文学の研究が進んでいる大学に進学した。そこでは文学以外のあらゆる芸術を学んだ。しかし、がむしゃらに学んでも学んでも、どこか見当違いのところを探しているような予感が頭の隅から消えなかった。人の心と言っても、具体的に何を学びたいのか、俺自身もぼんやりとしていてよくわかっていなかったのだ。そんな時、決まって俺の頭に現れるのは夜野だった。俺はとうとう仮面を被った。彼女と同じ透明になれば何かわかるかもしれないと思った。いつまでも頭の中には夜野がいた。体が透明になった時、気付いた。俺が知りたかったのは、他人の心ではなく、俺の心だった。

 俺はあの日から夜野に恋をしていた。

 気付くのにずいぶん時間がかかったが、俺が優しい人になりたいと思うようになったのは、あの日からだった。透明を静かに守っている高潔な彼女の後ろ姿にあこがれていた。夜野のことばかり考えた。

 夜野の憂いを帯びたような雰囲気は、何かどうしようもなく彼女を苦しめ、隠れたいと思わせるような出来事があったからだと今更思った。その傷を他ならぬ自分の手で癒したいと思った。しかし、遡って調べるにはあまりに時が経ちすぎていた。俺は何もかも遅すぎたのだ。

 ただ、こんなに鈍くて遠回りな自分が、彼女につり合うだろうか、という気持ちが俺の頭を占めた。

 とっくに昔から好きだったのに、自分の気持ちすら理解していない。もっと早く自覚できていたなら、彼女が抱える何かをいっしょに背負えたのに。

 情けない。

 情けない。情けない。情けない。

 その時、心地よい透明が俺を優しく包んでいることに気が付いた。

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