14 香水
(そちらは、ギンモクセイの香りですね。最近町中で香っているのは橙色のキンモクセイですが、ギンモクセイは白の花で、キンモクセイにくらべてかなり控えめな優しい香りです)
店員は津野の手に取った香水について説明した。
(女性へのプレゼントなんですが、どうですかね)
(なかなか品があってよい贈り物かと思いますよ。この花は謙虚で控えめ、しかし芯のある高潔な方によくお似合いかと。それに、初恋という花言葉もありますから、純粋な気持ちをアピールするのにはもってこいだと思います)
(それじゃ、これをください)
綺麗な小瓶に香水を入れてラッピングしてもらう。高潔という言葉が、最初に会った時から変わらない夜野の印象だった。
店を出ると、夕暮れになっていたが、街灯が昼と遜色ないくらい明るく都会の道を照らしていた。生まれてから高校卒業まで田舎で暮らし、大学と大学院の六年間は別の地方の田舎に住んでいたせいで、都会の街並みにはまだ慣れなかった。こういう時、仮面があって良かった、と津野は思った。仮面は目に入ってくる情報量を最小限に減らしてくれ、疲労を防いでくれた。
食事の約束の時刻は刻一刻と迫っていた。勇気を出さないといけないと思っているのに、約束まであと三時間になのに覚悟が決まらず、自分が告白するところを想像しては失敗する未来が思い浮かんでそのイメージを追い出すように頭を振った。頭の中に長年居着いた、自分はあの人に釣り合わないという自信の無さが、胃をキリキリと痛ませた。いっそフられてしまった方がお互いのためになるのだろうか、というのはもう何年も考えては振り払ってきた考えだった。
(あの、落としましたよ)
後ろから誰かが走って追いかけてくるのがわかった。スマホを差し出される。店を出て香水を入れようと鞄を開けたときに落ちてしまったのだろう。拾ってくれた人は手渡す前に地面に落ちて汚れた画面を、自分のズボンの太ももにこすりつけるようにして拭き取った。
(すみません、ありがとうございます)
津野はスマホを受け取る。幸い、画面は割れたりしておらず、無事だった。それを確認し、拾ってくれた人も安心したような素振りだった。顔はもちろん見えないが、笑ったように思った。
(それでは)
明確な根拠はなく、ただなんとなく、届けてくれたその人が、どこかで会ったことがあるような気がした。
(どこかで会ったことありましたっけ)
本来ならば、会ったばかりの他人に不躾に名前を尋ねるなど、どんな田舎者でも知っているタブーだった。しかし、聞かずにはいられなかった。
(人探しですか?無いとは思いますが)
相手はそんな失礼な津野の態度にも、嫌がる素振りもなく、仮面を操作して名前を表示させる。ほとんど名刺交換のような作業だった。同時に津野も自分の名前を表示させる。
(文披……)
(津野君、だよね)
二人は七年ぶりに奇妙な邂逅を果たした。この透明な世の中で、一度疎遠になった人と再会する可能性は限りなくゼロに近い。皆、透明になる前に構築した人間関係、透明になってから透明の状態で構築した人間関係しか持たない。前者は決してこれ以上増えることはなく、時の流れとともにただ減っていくだけ。後者は、つながったとしても、いつふっと切れてしまってもおかしくないような細く頼りない縁だった。
東京に出ると決めてから、たくさんのことが目まぐるしく起こる。青春時代を清算すべき時が来たのかもしれない、と津野は思った。ひょっとしたらこの世に神様は存在して、適切なタイミングで適切な人物と出会うように仕組まれているのかもしれない。
高校時代、津野にとって文披はあまり接点のない単なるクラスメイトに過ぎなかった。しかし、夜野という存在を挟むと、二人はともに夜野と交流があったという共通点があった。
二人はファミリーレストランで向かい合った。ドリンクバーだけを注文する。
(仕事とか、今何やってるんだ?俺は去年院を卒業して東京でサラリーマンやってる。商社の下っ端だ)
津野はできるだけ自然体な会話を心掛けた。実際、高校時代は沈黙を埋めるための世間話程度しかしてこなかったので、どんな調子で話していたかほとんど思い出せなかった。
(院か、すごいね。僕も普通のリーマンだよ。昨日まで出張で地方にいて、さっき東京に戻って来たところ)
お互い透明なので恰好はわからないが、レストランの席に座るとき、大きな鞄を横の座席に置いた、どすんという振動を思い出した。
(調子はどうだ?)
(まずまずだね。可もなく不可もなく。幸い生活は苦しくないくらいには稼がせてもらってる)
文披はグラスから水を一口飲んだ。仮面を全くずらすことなく食べ物を摂取できるタイプの仮面もあることは知っていたが、目の当たりにするのは初めてだった。
文披と夜野は親しかった。誰にでも分け隔てなく明るく接していた文披は、夜野の前では肩の力を抜いたような顔を見せていたし、誰にでも分け隔てなく表面的にしか接していなかった夜野は、文披の前では柔らかい表情を見せていたと記憶していた。夜野のことが気になっていた津野はそれがずっと気に入らなかった。しかし、ある事件をきっかけに二人は全く関わらなくなり、そのまま時は流れた。
(夜野とは、最近会った?)
夜野の名前が出てきて津野は反射的に身を固くした。そう、世間話など時間の無駄だ。俺たちが会って話す話題などそれしかない、と津野は思った。
文披が今どんな表情をしているのか、透明に隠れてわからなかった。ほんのわずかな影すら見えない、完璧に近い透明だった。誰にでも優しく愛想のいい文披は、ある事件以降、透明な仮面の下にすっかり消え失せた。
(今夜、俺は夜野に告白する。文句ないよな)
津野は確かめるように言った。この件に関して、否定でも肯定でもいいから、文披からのコメントが欲しいと思った。
(今夜なんだ。今君と話せているのが運命のいたずらみたいに思えるね。それで今更僕の許可がいるわけ?僕は夜野のことはただ、友達だって思ってた。夜野はそうじゃなかったのかもしれないし、今となってはどうでもいいことだよ。僕が一番好きだったのは僕自身さ)
淡々と言う。まるで感情がないみたいだった。
(俺さ、大学生活六年もかけて人の感情について勉強したんだよ。墓まで胸中にしまっておこうと思ったけど、運命的にお前と出会えたから言うぞ。夜野はお前と話すときだけは、雰囲気が違った。一年の時の限られた期間ではあったけど、お前と夜野がなぜあんなに親しかったのか、今もわからない)
(そう見えてたんだ。でも、君が心配するほど夜野は僕のことに興味なかったと思うよ。僕は友達だと思ってたけど。僕がもう少し優しい人間だったなら、違ったかもしれない)
文披は少し黙って考えた後、言った。
(優しさってなんだろうね。経験?模倣?擬態?奉仕?期待?それとも、欲求?)
文披はもしかしたら、誰かとこういう話をする機会を待っていたのかもしれないと津野は思った。ずっと一人で考え続けているけれど、話せる人間や、こうして答えを話すように強要されるような場面には巡り合わなかった。そんな感じがした。
(僕にはもうよくわからない。僕は自分で夜野を遠ざけた。君が夜野を笑わせてあげてほしい。僕は嫌われる努力はした)
この世界で、本音は意味を持たない。わかりたいと目を凝らしても、底知れぬ透明の中へすっと逃げていく。
(嫌われる努力はしたんだよ)