13 ライラック
その日は雨が降っていた。花屋に二千円突き出して作ってもらった小ぶりの花束は、白や紫、ピンクの細かい花がいくつも集まるように咲いている花で作られていた。値札には確かライラックという名前が書いてあったような気がする。
文披が生きていると知った後も、私は電話をかけなかった。彼の電話番号やメールアドレスは知っていたのに、スマホを数秒操作するだけでそれができたはずなのに、しなかった。
どうしたらいいかわからなかった。私にとって彼は重要な人物であったのに間違いないのだが、彼自身が私のことをそこまで重要だと思っていたことが信じられず、また、受け止めきれなかった。
私にわざわざ手紙を書くほど彼は悩み、追い詰められていたのだろう。手紙では書くことができず、あの土手で顔を合わせた状態でも話せない、とても微妙で大切な話をしたかったのだろう。
それはわかる。わかっていた。しかし私はあろうことか、家では家族がいるから電話できない、学校も駄目、だから電話の機会なんてない。よって、不可能。そう自分の中で自己完結し、やらない理由を生成し続けて彼のSOSから耳をふさぎ続けた。
私にはわからなかった。今まで透明だったせいで、誰の心にも近くで触れたことが無いせいで、いつも笑顔だった彼が弱っている姿を目の当たりにして、きちんと対応してあげられるだけの自信がなかった。笑顔以外の彼を近くで見ていい資格が自分にあるようには思えなかった。彼に信頼され、彼の背負っている重い荷物を肩代わりさせられることが怖かった。
私には友達なんて関係は難しすぎたのだ、とその時悟った。自分を無条件に肯定して存在を認めてくれる人が欲しかっただけの自己中心的な人間が、対等に認め合い、助け合う関係など築けるはずがなかった。私は文披の友人にふさわしくなかった。困っている人に誰にでも手を差し伸べるような、優しくて人間のできた文披の友人になんか。
でも事実、文披は私を信じて手紙を書き、裏切られた絶望で屋上から飛んだ。私は自分のことばかりで他人の心に無関心すぎた。なにもわかっていなかった。
謝ろう、と私は心に決める。文披は飛び降りたけれど、幸運なことに、取り返しがつかない場所まで行ってしまうことはなかった。今ならまだ許しを請える。自分に自信がなかったこと、そのせいで傷つけたことを。
私は雨に煙り、灰色に見える病院へと歩いて行った。文披の病室は中庭に面した一階だった。中庭越しに彼の部屋を覗いた。
「あ……」
ベッドで上体を起こした文披の周りには、たくさんの人がお見舞いに来ていた。多くの人からもらった花で彼の病室はすでにカラフルに彩られているのが遠目からでもわかった。文披はその花の真ん中で、笑っていた。彼らしい、明るいあの笑顔だった。特に、天井から吊るされた、小さな白い花の花束をよく覚えている。雨の中、それはてるてる坊主みたいに窓際で揺れていた。
「なんだ、元気じゃん……」
そもそも、彼が自分から飛び降りるだろうか。噂によって、彼が自殺を図ったように思っていたけれど、そんなのはただの根も葉もない噂で、ただ足を滑らせただけなのかもしれない。タイミングのせいであの手紙が、必死の思いで出したSOSのように見えたけれど、彼には支えてくれるたくさんの人たちがいるんだし、私だけに送って来たというのは私による都合のいい解釈に過ぎないのかもしれない。
「ダッセぇー……」
文披は自分のことを特別に思ってくれていたのだという事実は、私の頭の中で打ち砕かれた。少なくとも彼が、私無しでも笑顔で生きられるということは自明なようだった。今私が深刻な顔をして病室に入って、「手紙を無視してごめん」と言ったら、明るい空気を最速でぶち壊して、世界一簡単に空気が読めない人間になることができるだろう。お見舞いで来た人の一人が「この人誰?」と文披に聞く。そしたら文披は「友達だよ」と言うだろう。「僕によく一生懸命小説を書いて持ってきてくれる子」
恥ずかしい。
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
文披との関係のすべての始まりは、私の醜い承認欲求からだった。小説を読んでくれたから。私自身を見つけてくれたから。ずっと見ていて欲しくて、私がここに存在していることを承認してほしくて、依存した。依存して、ちょっと言葉をかけてもらっただけで舞い上がって、勘違いして、感情の独り相撲をした。
こんなみじめなら、ずっと透明のままが良かった。見てほしいなんて一度でも願っちゃ駄目だったんだ。自己顕示欲なんてものは、隠さなくちゃならない。こんな醜い自分、もう晒したくない。
私は仮面を被った。透明は私を優しく包み込んだ。もともと影の薄かった私は、透明な生活にすぐ馴染んだ。文披とはもう会っていない。彼が本当に自殺未遂をしたのかどうかの真相も知らない。小説はすっぱり辞め、社会の歯車となった。目立たず、文句を言わず、息をひそめる。時々人に合わせて笑い、人に合わせて泣く。
私はあの日から、本当に透明人間になった。
電話をかけていれば違っただろうか、と透明になった今でも少し考える。かけていたなら、あの色とりどりの病室の一部くらいにはなれたかもしれない。電話をかけなかったのは自分の弱さで、その弱ささえ無かったなら、このみじめさから解放されたのかもしれない。