11 微熱
ドアベルを鳴らして夜野は店に入る。仕事が少し長引いてしまったが、今日は仮面の型が出来上がっているだろうと少し期待に胸を膨らませながら、やや速足でここまで歩いてきた。
店の中は薄暗く、カウンターに少年の姿はなかった。椅子に座ってしばらく待ってみるが、出てくる気配もない。
「ごめんください」
夜野は少し声を張り上げてカウンターの奥の扉に向かって声をかけてみた。微かに扉の向こうでばたばたと音がして、それから扉が開いた。
「お待たせしてすみません、いらっしゃいませ」
その声が少し鼻声なのに気付いて、夜野は眼鏡を少しずらした。少年は額に冷却シートを張り付けていた。少し顔が赤い。
「仮面の大枠はできています。今お持ちしますね」
少年はカウンターの下からエプロンを取り出す。
「結構です。今日は休んでください」
夜野は鞄を持って立ち上がった。
「いえ、仕事には問題ありません。夜野さんの仮面を早く完成させるためには今日、目にはめるパネルの話をしておかなくてはならないんです」
「スケジュールは多少後ろ倒しになってもかまいません」
少年はエプロンを着ける手を止めない。
「本当にいいんです。むしろ、今のあなたに接客されたくはありません。風邪をうつされても迷惑ですから」
夜野はカウンターの中に入ると、やや強引に少年の腕を掴んだ。その手は温かいどころではなく、燃えるような熱を持っていた。そのまま奥の扉を開く。廊下の先にキッチンと二階への階段が見えた。
「やめてください、営業妨害ですよ」
少年は身をよじって抵抗したが、夜野は離さなかった。
「寝室はどこですか」
夜野の有無を言わさない態度に観念したのか、少年はうなだれて小さく「二階です」と答えた。
小さな寝室には、ベッドと本棚、部屋のサイズに対してやや大きい机が置かれていた。壁には色相環やカラーチャートなどの図表が隙間なく貼られ、元の壁紙の色が見えないほどだった。机の上には様々な形のデザインナイフやペイントスプレーなど専門的な道具が散らばっていた。
夜野は少年をベッドに寝かせると窓を大きく開け、換気した。少し涼しい秋の夜の風が部屋に吹き込んで、少年がぶるりと震える。
「今日の夕食は?」
「キッチンにある、けど……」
夜野はキッチンに下りて行って冷蔵庫を開ける。生鮮食品はあまりなく、冷凍庫の方に冷凍食品がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。インターネットの定期便か何かだろう。棚にかろうじて林檎が置いてあるのを見つけたのでそれをすりおろした。
少年がベッドに上体を起こし、林檎を食べている間、夜野はなんとなく手持ち無沙汰で、工作時に床に落ちたのであろう何かの削りカスをあまり埃を立てないように注意しながら掃除し、それから窓を閉めた。
「ありがとうございます」
少年は言った。
「早く治して制作を再開して欲しいからしたまでです。今日はもう寝てください」
少年は頷いたが、さほど眠そうではなかった。時刻は19時を過ぎたくらいだった。このまま夜野が出ていけば、またベッドから抜け出して作業を始めてしまいそうな気がした。
「いつも寝る前は何をしてるんですか?」
「え、寝る前ですか。本を読みます」
「じゃあ本を読みましょう。持っていきますから動かないで。どれにしますか?」
「その本棚にあるのは全部読んであるのでどれでもいいです。夜野さんが選んでくれませんか?」
夜野は本棚の前に立った。色に関する専門書ばかりが詰め込まれているのかと思いきや、子供らしい児童文学や、絵や図の多い百科事典など多様な本が並んでいた。具合が悪い時にあまり字の細かいものを読むのは辛いだろう。ふと、『花言葉辞典』というタイトルが夜野の目に留まった。以前、少年にキンモクセイみたいだと形容されたことを思い出す。なんとなくその本を本棚から抜き出した。
「キンモクセイの花言葉ですか?キンモクセイの花言葉は、『謙虚』『気高い人』『真実』です。小さくてすぐに散ってしまう花ですが、放つ豊かな香りで、姿が見えなくてもそこにいるとわかります。橙色です」
「覚えているんですね」
「そこに載っているものなら」
夜野は少年に本を手渡し、少年がページをぱらぱらと繰るのを横から眺めた。眼鏡をずらす。カラフルな画像がふんだんに使われていた。花の名前や花言葉をほとんど知らないので、まるで別の世界の理を綴った本でも見ているような気がしてきた。仮面を着け始めてから、花という情報はカットされ、花を見て美しいと感じたり、それをただ愛でるような感性が失われていた。現代において花とは、お見舞いや記念日、冠婚葬祭の式だけに登場する一種の記号で、花屋によって管理生産される商品の一つだった。
「あなたは何の花が好きなんですか?」
「僕ですか?僕は、その季節に、一番見頃を迎える花ならなんでも好きです。咲き誇っている花はどれも綺麗です」
しばらく、二人は本を見ていた。時折少年が指をさして、この花はどこら辺に咲いているとか、いつ頃が満開になるかなどの情報を教えてくれた。
「あ」
見覚えのある花があって、思わず声が出た。カスミソウだった。花言葉に『無邪気』『清らかな心』、それと『幸福』とあった。ずきんと心の奥が痛んだ。眼鏡をかけなおしても、もともと白い花の色が見えなくなっただけで、その二文字は消えなかった。
「カスミソウ、初夏に咲く花ですが、ドライフラワーとしても優秀で、花屋では年中置いてあります。白花色です」
それは幸いにも最後のページだったようで、少年は本を閉じた。
「あの、僕、そろそろ眠れそうです」
少年は布団を自分の顎の下まで引っ張り上げた。
「そうですか。それではお暇します」
夜野は本を本棚に戻し、少年の部屋を出た。裏口を教えてもらい、そこから店を出た。
ドアをそっと閉めたときから、片手は鞄の中に滑り込ませていた。あの紙をまた触っていた。