さよなら、ニコル
一番古い記憶は、花園。例えば絵の具を雨のように降らして、その色がそのまま残ったような色とりどりの花々。
私はそんな景色を眺めながら、ただ立っている。
「おいで」
ふいに呼び掛けられて、私は顔を上げる。
太陽の光に透き通るような緑の目が、私を呼んでいる。
呼ばれるまま一歩二歩、歩みを進めて、小石か何かにつまづきそうになる。
花園へ倒れる寸前、抱きとめた細い指が
「大丈夫?」
という声とともに頬に触れる。
見上げる。
そこに緑の瞳。
「おいで」
その指はそのまま私の手に触れて、強い力でもないけれど、しっかりとつながれた。 私の名前はニコル。
年は、本当の年は知らない。
母の事も父の事も知らない。
そして本当は、ニコルでもない。
私が本当はどんな名前で、誰の元に生まれてどうやって育てられてきたか、誰も知らない。
もちろん私も知らない。
私は、あるお天気の良い春の日に、領主様のお屋敷、エインズワース邸のお庭に広がる花園で見つかった。
どこからどうやってここに入り込んだかもわからない。
ただ私は、そこに立っていたと言う。
領主様のご長男にして唯一のお子様、セドリック様がそんな私を見つけた。
セドリック様はその時7歳で、たまたま庭を散策している時に花園に立ち尽くす私を見つけ、そのまま屋敷まで手を引いてきたそうだ。
突然見知らぬ子供を連れてこられて、屋敷は大いに慌てた。
女の子を囲んでそれぞれが意見をし、迷子だろうが捨て子だろうがとりあえず教会へ連れて行こうという話になった。
当時教会は孤児院も兼ねており、どちらにしろ、そうすることが一番だと思われたのだ。
なにしろどこの誰かもわからないし、それに、女の子はそのころやっとたどたどしく話す程度のおよそ二歳くらいの幼児だったからだ。
名前を聞いても、両親を尋ねても、彼女は細い首をちょこっとかしげるだけ。
おかげで、大人たちは首をもっとかしげなくてはならなかった。
大人たちが話をまとめいざ手を引こうとしたのだが、セドリックが頑として離さない。
今までこれと言ってわがままを言ったりぐずったりしたことのないセドリックが
「この子を連れていかないで」とむやみに首を横に振る。
屋敷の人々は大いに困った。
彼はそのきれいな緑の瞳に涙を浮かべて「この子は僕の妹なんだ」と言うのだ。
驚いたのは屋敷の人々だ。
そんな話は聞いたことがないが、すわ旦那様の隠し子かと色めきだつ。
セドリックの母親であるエインズワース夫人は病弱で、セドリックが産まれたと同時に息を引き取った。
あれから7年。
そういう事もなくは無いかと、その場にいた人々が戸惑っていると、セドリックが一番懐いている侍女が、ひざをついて、彼に視線を合わせて優しく問う。
「まあ、セドリック様、なぜ妹さんだと?」
「僕、ずっと兄弟が欲しかったんだ。毎日神様に祈っていたよ。だから神様があの花園に妹を連れてきてくれたんだ」
涙をこすりながらセドリックはしっかりとしたまなざしで侍女に言う。
「そうですか。でも、もしかすると迷子かもしれないし、もし迷子なら、本当のご両親や兄弟がこの子を探しているかもしれませんよ。とにかく、旦那様が戻ってお話してみましょうね」
「うん、でも、お父様が帰るまでもどこへもやらないで」
セドリックは、小さなその子を自分の背に隠した。
「ええ、わかりました。では、ひとまずお茶にいたしましょうか。お嬢ちゃんもクッキー食べるかしら?」
言いながら、侍女は立ち上がって、そして執事と件の子の親を探す手配をした。
そんなわけで、その日一日は彼女の特徴を書いた紙を持って、屋敷の者たちがエインズワース邸近くの町をあちこち訪ね歩いた。
『茶色い髪に、はちみつ色の瞳、年はおそらく二歳くらい。何の装飾もないベージュのワンピース、そばかすがやや目立つ。靴は履いていない。言葉は片言。名前不明。心当たりはあるか?』
二歳くらいの女児なら、ぺんぺん草を見つけるほど容易かったが、親が不明という点ではなにもかすらない。
領主の家付近がそこそこ町の形をしているとはいえ、ここはやはり田舎で、例えば二歳の女の子が迷子になっていたらそれはもう蜂の巣でもひっくり返す騒ぎになるだろうし、例えば二歳になるまでこっそり子供を育てて捨てるとしても、秘密に子育てなどできないほどお節介が多かった。
いわんや、捨て子をや。
捜索すればするほど謎は深まり、件のおせっかいのせいで町の隅々まで話は行き渡り、結局人海戦術になったにもかかわらず、わからずじまいだった。
屋敷の主が、遠方の領地の視察から戻ったのは、そんなこんなで一同が疲れ切っていた時だった
一体どうしたのかといぶかしむ主人は、ことの顛末を執事から聞く。
そして、セドリックの居室をノックしようと手をかざした瞬間、ドアの中から鈴を転がすような高らかな笑い声が響いた。
ノックする手を止めて、そっとドアを開け、中を覗き見る。
すると、部屋中に細切れになった紙が舞っている。
セドリックが笑いながらその紙を少女にかけているところだった。
少女もきゃっきゃとはしゃいでいる。
そういえば、息子のあんな笑顔を見たのはいつだったろうか。
どんなに辛くても泣き言ひとつ言わない息子。
妻に似て体が弱く、三日に一度は熱を出す。
外に出ることもままならず、学校へ通わすこともできない。
年頃の友達もいない。
ベッドから窓の外を眺めるのが常の息子は、父の心配を減らそうと、唇にいつも微笑みを浮かべていた。
苦しく咳き込むときも、熱に浮かされている時も、彼は変わらず微笑みを忘れなかったが。
それは唇に乗せられたセドリックの優しさであったのは父であるエインズワース子爵にも胸が痛いほどわかっていた。
それがあんな笑顔を見せて。
ドアをそっと閉めると、もう一度彼は手を振り上げ、軽やかにノックする。
「はい!」
常より弾んだ声がドアの内側からした。
「ただいま、セド」
そう声をかければ、セドリックはすっと、少女を背に隠す。
「おやおや、妖精でも捕まえたのかい」 「妖精じゃないよ、羽なんてないもの。妹をもらったんだ」
「セド」
紙ふぶきの上に座り込むセドリックの、すぐ横に子爵は腰を下ろす。そうして透き通るような緑の瞳を覗き込む。
「君のママしか、君に妹をあげることができないよ」
ひゅっとセドリックは息を吸い込む。
「… …知ってる。でも、僕」
大きな手で息子の頭をなでる。
「私がいない間に、ずいぶん骨を折ってスチュワートたちが彼女のご両親や知る人を探してくれたそうだ。だが見つからなかった」
「じゃあ、この子はどうなるの?」
「そうだな、本当は教会へ行くべきなんだが… …」
セドリックはじっと父を見つめた。
「妹にはできない。わかるね?」
「… …うん」
「だが彼女を家に置くことを考えよう」
「ほんとに!」
「ああ。その代わり、彼女の本当の親が見つかったら、その時はちゃんしかるべき場所へ返さなければならない。犬や猫ではないんだからね」
「ありがとう!!お父様!!」
二人がそうしているころ、邸に一人の男が玄関をたたいた。
執事が顔を出すと、不安そうにたたずむ男が、目をきょろきょろさせそわそわしながら立っていた。
「ああ、これはトッドじゃないか。どうしたんだい」
トッドは町のずっと外れに住んでいる羊飼いだ。
「あの… …なんでも、ご領主様が… …二歳くらいの女の子の親を探しているとかで… …」
今日の話がもう町外れにまで広がっていることに舌を巻きながら、スチュアートは鷹揚に頷いた。
「そうだ。何か知っているのか?」
「明け方の頃だと、思うんですがね、ずいぶんと馬をけしかけて、車が外れるんじゃないかって勢いで走ってった馬車があったですよ。見かけねえ馬車だったけど、旅の途中に寄るような町でもなし、何でもまたこんなところをこんな時間に走ってるのかと思ったんですが、もしかしたらその旅の人間が、女の子を置いていったんじゃねえかと思って」
トッドの言う事は一理あったが何分証拠もない。
得た情報も取り立てて役に立つようなものじゃなかったが、ひとまず帽子をにぎにぎしながらしゃべり終わって居心地悪そうにしている羊飼いに、いくらか金子を渡し(彼はずいぶんと遠慮したが)礼を言って、また何か気づいたことが会ったら知らせてほしいと告げた。
トッドが帰った後、執事はエインズワース子爵にひとまず彼の情報を知らせようとセドリックの部屋のドアを叩く。 廊下へ出てきた子爵は、顎を撫でて考え込んだ。
「預かるにしても二歳か… …」
奥方のいない子爵には、二歳の子を預かるというのは至難の業のように思えた。
しかも実子でもなく。
セドリックが幼い時は乳母を雇ったものだったが… …。
ドアの向こうでは、また笑い声が響いた。
するとその時、離れて控えていた侍女が前へ出た。
「旦那様」
「なんだ?エミー」
エミーは両手をしっかりと組み、静かに言う。
「私があの子を育てましょう」
「エミーが?だって、お前は結婚もしていないのに、子育てにかまけていたら先々困るんじゃないか?」
「セドリック様があんなにあの子に心を許しておいでです。セドリック様の為にがんばりたいのです」
エミーがそう言い切る。
「確かに、セドが一番信頼を置くエミーがあの子を見てくれるなら、たとえ妹にはできなくてもセドも納得するだろう。しかし、本当のそれでいいのか?」
独身でありながら子持ちとなると… …。子爵はエミーの身を案じた。
「私も力になりましょう」
スチュワートも前に出る。口々に手を貸すという屋敷の者たちに勇気づけられ、子爵は頷いた。
「わかった。仕事を増やすようで申し訳ないが、あの子の事を頼む」
こうして少女はエインズワース子爵邸にその身を置くことになった。
子爵はセドに一先ず決まったことを告げる。ただし、彼女の身元が分かれば速やかにそこへ連れて行くことも了承させた。
そして、彼女は妹ではなく、処遇としてはエミーの養女になる事も。
「ねえ、エミー」
「なんでしょう、セドリック様」
「あの子の名前、僕が決めてもいい?」
「ええ、セドリック様。私の娘がセドリック様にお名前をいただけるなんて光栄ですわ」
「ニコル」
「… …ニコル?」
セドリックは、未だ紙ふぶきで転がりまわってはしゃいでいる少女のそばに駆け寄る。
「君の名前は、ニコルだよ」
きょとんとしてセドリックを見つめる少女は、ぱくぱくと何度か口を動かし、セドリックの口元を見る。
「ニ コ ル」
セドリックは口をはっきりあけて発音した。
「ニ… …?オ… …?」
「ニコル。ニコルだよ」しばらく考えるような顔をして、少女はにっこりとほほ笑んだ。
そうして私はニコルになった。ある春の晴れた日、絵の具が降ったような花園で、私はニコルとして生まれたの。
*****
「ニコル!ちょっと手伝っておくれ!」
「ニコル!ちょっとあれ取ってくれ!」
「ニコル!これなんて書いてあるかねえ、小さくて読めやしないよ!」
私の一日は忙しい。お屋敷のあちこちからニコルニコルと呼ばれる。
まあ仕方がないけどね。
だって屋敷の若い人間って私と、母さん代わりのエミーくらいしかいないんだもの。
もうずいぶん新しい人を雇ってないらしい。
それほど内情が厳しいとは思えないけど、そんなに人手が要らないんだって。
スチュワートさんが言ってた。
スチュワートさんというのはこの家の執事で、ほとんどすべての事を取り仕切ってる。
年は45歳。表情が硬いから怖そうに見えるけど、ああ見えて刺繍の腕前はすごい、これ本当。
私が小さいころに着てたワンピースはほとんどがおさがりなんだけど、これにいろんな刺しゅうを施したのはスチュワートさんなんだって!
大輪の薔薇とか、野花を散らしたりとか、とても元がおさがりに見えないほど立派な刺繍で、実は小さくなって着れなくなった服の、刺繍部分は取っておいてあるんだ。
薄闇の向こうから夜明けがやってきて、屋敷が目を覚ますと私の仕事も始まる。
エミーと私は同じ部屋だけど、ベッドルームが仕切ってあって、一番奥の窓辺にベッドを押し付けたそのベッドの上が私の部屋。
窓からは白い朝日がきらきらと花園を輝かせる。いつものワンピースに着替え、髪を一つにまとめる。
今日も一日頑張ろうとブーツの紐を締め上げ、まだ眠っているエミーの横を静かに通り過ぎ、そっとドアを開けた。
朝のひと時は私だけの時間。
花園に立って、だんだん太陽がはっきりと姿を現していくのを見る。
新しい今日をセドリック様のために迎えるんだ。
今日はきっと体調がいい日になるだろう。
少しは外の風に触れることができるかな。季節もよくなって、植物たちの生気も満ちる。
19歳になっても、子供のころと変わらずにセドリック様は体が強くならなかった。
私が小さいときはいろんな神様に祈ったものだが、こうしてお日様に祈るのが一番効果的なような気がした。
太陽は一日を用意してくれる。
まだ始まらない今日の力に満ちている。
だからこの習慣だけは毎日続けている。
今日も一日よろしくね。セドリック様を守ってください。
毎朝同じつぶやきを、毎朝新しい夜明けに祈る。
お日様が上がってくると、まずパンの匂いが屋敷に漂ってくる。
厩舎の方からは馬のひづめが響き、お屋敷の一日が始まる。
私はというと、針の穴に糸を通して、それから飛んで戻って戸棚の奥にあった花瓶を椅子の上に乗って取り出し、それから御用聞きのメモを読み上げる。
そうこうしているうちにまたお呼びがかかる。
「ニコル!ニコル!」
「はいはい、ただいま!!」
そうして辻馬車みたいな勢いでお屋敷の廊下を走っていくと「ニコル」と聞きなれた声を耳が拾う。
つんのめる勢いで立ち止まり、声の方を見れば、部屋のドアをちょっとあけて緑の目がのぞいている。
「おはようございます!セドリック様!」 「おはよう、ニコル」
顔色はずいぶんよくなっているようだ。
一昨日まで高い熱が出ていたので心配したけど、やっと下がってきたみたい。
「立ち歩いてはいけませんよ、セドリック様」
そう言いながら私はドアを開いてセドリック様の体を押す。
「もう大丈夫だよ」
儚く笑うけれど、私は手を伸ばしておでこに触れる。確かに熱はもうないかも。見上げる緑の瞳も澄んでいる。
「でも、いけません」
私はセドリック様の背中を押してベッドまで戻す。
「ああ、でもニコルあの」
「お話は、ベッドに横になってから聞きます」
そう言えば、セドリック様はしぶしぶ毛布の中に潜った。
「さて、お聞きしますよ?」
普段は見上げるその瞳を見下ろす。そうすると、まるで子どもを寝かしつけているような気持ちになってくるのよね。
セドリック様、もう19歳になるんだけど。
「ニコル、もう学校に行く時間だと伝えたくて」
「え」
ええええええ!私はあわててセドリック様のお部屋にある時計を見る。
時計は懐中時計で、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあるのだ。
「うわああああ!」
「ニコル、気を付けていくんだよ」
「い、いってきます!!」
「ニコル、転ばないようにね、転んでも泣かないでね!」
いつまでたっても幼児扱いするセドリック様の言葉を背に受けながら、調理場の隅に置かれたカバンをひったくるように掴むと、勝手口を駆け抜ける。
「あら、もう時間?いってらっしゃい」
あんなにのんびりした風なのに仕事はテキパキな、わが尊敬するエミーにのんびり見送られ、こっちは脱兎の勢いで車寄せを突っ切り、無駄に広いお屋敷の敷地を走る。
結構走らないと敷地の外にも出られないなんて、大きなおうちも考え物よ!
町から少し離れたところにある学校は、このあたりの子供たちがみんな通っている。
私がエインズワース邸で暮らし始めて、おそらく10歳くらいになったころから(本当の私の年齢は未だにわからない。たぶん発見されたときが2歳だろうということになっている)学校へ通わせてもらっているのだ。
これはセドリック様のご提案だそうで、同じような年頃の子供が集う場所に自分も行ってみたかったという憧れがあって、私がそこで見聞きしたものを教えてくれるとうれしいとのことだった。
私は自分の勉強以外にも、セドリック様の為によく目を開いて耳を澄まして、学校の様子を逐一報告している。
大変だとは思ったことはない。
学校の話をすると、セドリック様はとても楽しそうだし、そういうセドリック様を見るのが私はとても好きだから。
「おい!そばかす!邪魔だろどけよ!」
後ろから同じように走ってくる足音と共に、聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んでくる。
「うるさいわね!蹴っ飛ばすわよ!」
そう言いながら、私は走る足を止めずに蹴りの態勢を取る。
「バカか!そんな事やってっと遅刻だぜ!」 「バカって言った方がバカですううう」
「はああああああ???」
言い合いながら、かろうじて教室に滑り込んだ私たち。
この口の悪いバカは同じクラスのダスティン・カーター。
ダスティンは口は悪いし性格も良くないけど、彼に出会ってよかったと思うことが一個ある。
それは、セドリック様が比較の対象なんて存在しないほどかっこいいということがわかったこと。
私は小さいころからセドリック様と遊んで、セドリック様以外はみんな大人という場所しか知らなかった。
だから男の子というのはみんなセドリック様みたいなものだと思っていたの。
ところが、学校へ行くとびっくりするほどみんな品が無かった… …。
私だって全然お嬢様じゃないけど、日々セドリック様と暮らすうちに、食事のマナーも立ち居振る舞いも、自然とこなしていたみたい。
学校のお昼なんてまるで戦争!教会で作ってくれたお昼をみんなで分けるんだけど、ガチャガチャキイキイ音を立てるわ、口いっぱいにしながらしゃべりまくるわ、最初はひどくショックを受けて食欲も消え失せたものだった。
そんな話をセドリック様にすれば、お腹を抱えて大爆笑していた。
大爆笑と言っても、セドリック様は声を立てて笑うことはあんまりないので、涙を浮かべながら声も出せずに永遠と肩が揺れているという状態。
笑い声くらい、マナーなんて忘れて大笑いできるように人間はしておいたほうがいいと割と真面目に思ったりした。
そんなわけで、突然私の目の前に、セドリック様とそれ以外の人々というのが認識された。 セドリック様以外の男なんてね、本当にひどいからね!いつの間にか私は「そばかす」と呼ばれるようになったし(無論顔にそばかすが散ってるからだけど!)、人をからかうことと食べ物の事しか考えてないのかしら!セドリック様に比べたらあの子ら猿も同然よ!
私は憤慨して、セドリック様に話す。すると、セドリック様は細い指で私の頬を撫で
「ニコルのそばかすがかわいいからだよ。元気いっぱいで太陽に愛されてる感じがする」
そう言うと、ベッドの上で半身を起こし、優しく私を抱き寄せる。
「お日様の匂いがする、ニコル」
セドリック様は、学校から帰るとこうやって私を抱きしめる。
外の空気をいっぱい吸ってきた私から、それを感じようとしているみたいだ。
「お日様というより、ほこりっぽいんだと思います」
そう言うと、体を離してしげしげと私を眺め
「確かに、ニコルの背中、泥すごいよ」
そうして見せたセドリック様の白くてきれいな手に、べったりと泥がついていた。
ダスティンんんんんんん!!
明日は許すまじ!
鞄の中に、あいつの大嫌いなヒキガエルを仕込んでやる!
ダスティンの顔を思いうかべて、その顔が恐怖にゆがむのを想像すると私の口から笑いが漏れる。
「ニコル?」
はっと気づけばセドリック様が不審そうな顔で私を見ていた。
「何でもないです、タオル持ってきます!」
セドリック様の手を拭きながら、それでもダスティンに感謝すべき点はある。
そう、素行だけでなく、セドリック様の容姿も抜きん出ているということに気付けたのもダスティンのおかげだ。
なぜなら、ダスティンたちをセドリック様の隣に配置しようと頭に浮かべれば浮かべるほど、セドリック様の容姿が際立った。 セドリック様は見た目も素晴らしい人なのだと、私が気付いた瞬間だった。
その容姿を語る時、やはり美しい緑の目は外せない。学校でいろんな子たちにあったけど、あれほどきれいな緑ってそうは無い。
すっとした鼻も、形のよい唇も、比較が無ければ気付かなかった。
礼の一つも言わなくちゃなと思い、私はたまに卵の殻に向かって、ダスティンありがとう!と呟くことにしている。
言い終わったら、卵の殻を素手で握りつぶしてるんだけど。
*****
「アマガエル?」
「そうです!」
私は柔らかく手で包んでいた緑色のそれをそっとセドリック様の手に乗せた。
セドリック様は指にアマガエルの両手をひっかけると、びよーんとカエルは体を伸ばした。
「面白い」
「でしょ?なんかかわいらしくて憎めないですよね」
「… …かわいいかどうかは個人の見解だとは思うけど」
指を揺らせば、カエルはプラプラする。
いやかわいいだろう、実際。
学校帰りに、どんぐりや草花や虫などの生き物なんかを捕まえては必ず一つは持って帰るようにしている。
セドリック様は体が弱いから、こんな風に花を摘んだり、木の実を獲ったり、虫を捕まえたりしたことが無くて、全て図鑑でそれらの生態を吸収していった。
だから小さなころから私は、道々でいろんなものを見つけてはセドリック様に届けていた。
そして、これは何と言う植物でまたは生物で、花期はいつか餌は何か、そういったことを詳しく教えてもらって、資料として図鑑も見せてくれる。
図鑑はものすごく立派で、触ったら罰が当たりそうなくらいだったけれど、使わなきゃ意味がないよとセドリック様は笑って遠慮なくその本に触れるように私に言った。
私が図鑑を読んでいる時は、セドリック様は私が持ってきた実物をじっくり観察する。トンボの羽を透かしたり、花を分解したり。カエルを懸垂させてみたり。
「アマガエルってセドリック様の瞳の色みたいできれいですね!」
アマガエルの背中がつやつやと綺麗だったので、私はそんなことを口にした。
「そっか。僕の目はアマガエルかー」
そうつぶやきながら、なぜか肩が震えている。
「セドリック様?」
いぶかしく思ってのぞきこめば、セドリック様は涙を浮かべて笑っていた。
「え、なんで、何かおかしかったですか?」
「別に… …いや、おかしくなんか… …」
クックと声の出ない笑い声を続けながら、セドリック様は肩を揺らし続ける。
「おかしかったら遠慮なく笑ってください」
少し膨れて私が言えば、細い指が伸びてきて、私の頬を軽く引っ張った。
「ひたひです!」
「本当だよ、おかしくないよ」
そう言いながら、目に涙が浮かんでいるし、口元はひきつっているし、どう見ても笑ってる。
「ごめんね、ニコル」
そう言うときは、まるで小さな子供のように細い首をかしげるから、私だっていつまでも不機嫌な顔ではいられない。
ほんと、昔からそういう態度に弱いことをセドリック様は知っているからいつもこの手で私はごまかされる。
5歳も年上のくせに、かわいさで押してくるなんてずるい。
そんな日々が過ぎて、私は14歳になった。
さすがにもう虫を持ち帰ることはなくなったけれど、やっぱり常の習慣で、道端の花を摘んでは、ささやかな花束にしてセドリック様にお土産にしている。
今日も道端に、とてもかわいい桃色の花が咲いていたから、リボンでくくって小さなブーケを作る。
「ねえ、ニコル。あんたいつまでそういうのをお土産にするつもりなの?」
学校からいつも一緒に帰るアリスが、私の手元を覗き込む。
「確かにかわいく作ってあるけど、あの方、もう19歳なんでしょ?こういうのはもう興味ないんじゃなないかしら。そもそも男性だし」
「そんなことないわよ。いつも喜んでくれるし」
「あんたが喜ぶから喜んでるんじゃないの?」
「ええ?なにそれ。よくわからない」
そう言うと、アリスはちょっと肩を上下させる。
帰り道はうららかな春の日差しが照らし、のんきな蝶がひらひらと舞う。
学校からの帰り道は、周囲が牧草地帯が続いて、そのうち町が見えてくる。
町に入ればこんなのんきな景色は一転して、賑やかな街並みが続いていく。
そのマーケットの中に、アリスの家がある。アリスの家は洋服屋さんだ。
お母さんがミシンを踏んでいろんな服を作っている。
アリスは金髪の青い目のお人形さんみたいな容姿だから、どんな服もよく似合うので、それらを着ていることが即ちお店の宣伝なんだそうだ。
「まあいいけど。それよりも、あんたももう少しセドリック様離れしないとまずいんじゃないの?」
「セドリック様離れ?」
「そうよ。もう19歳なんでしょ。奥様をもらってもいい年だわ」
「… …」
「何よ、狐にでもつままれたような顔しちゃって。セドリック様だっていつまでも子供じゃないのよ。ずっとお子様なあんたと遊んでくれると思ったら大間違いよ」
セドリック様が、結婚。
その言葉は想像以上に私にとって衝撃だった。
子供の頃からずっと仲良く遊んでいて、いくつになってもあまり丈夫にならなかったセドリック様は、私の思い出の中の印象をそのままに、まるで時を止めた様に変わらなかった。
現実はもちろん背も伸びているし、体つきだって変ってきているだろうけど、未だに半身をベッドに沈め、目の高さで話し合える気楽さと、ベッドに寝ている関係で、昔からラフな服装だったから、結婚をするような年齢になっていることを知っていながら実感がなかった。
けれど、アリスからその言葉を聞いたとき、そうか、もうセドリック様は大人になっているんだという事実に私は初めて驚いてしまったのだ。
「大丈夫?ニコル。あなたまさかセドリック様と自分が結婚できるとでも思ってないでしょうね?」
「はああ?」
またもやとんでもない言葉が飛び出し、私はさらに仰天する。
セドリック様の結婚だってなかなか頭で実感できないというのに、私と結婚??
「どんなに好きになっても、ニコルとセドリック様じゃ全然身分違いよ。それをよく頭に入れておかないと、身の程知らずの恋に身を焼くことになるわ」
妙に熱っぽい口調でアリスが力説する。
最近、大人向けの小説を読んでいると思ったらすっかり影響されたようだ。
それから道々、アリスがまるで浮かされたように話す身分違いの恋について、右から左へ聞き流しながら帰宅した。
いつものように、一番に帰宅を告げるため、セドリック様のお部屋をノックする。
返事がないからそっとドアを開ければ、開け放した窓はそのままに、茶色の髪が風になびく。
枕元へ行けば、すやすやとよく眠っていた。
お嫁さんか。
こうして眠っている姿は、全然大人に見えない。
でも、そうか。
サイドテーブルに小さな花瓶を置いて、そこに摘んできた花を生けた。
窓辺をよってそれを閉めようと手を伸ばす。
こんなに風が入っていては、寝冷えをするといけない。
昔から心配事は同じなのに、セドリック様は大人になってしまうというんだ。
カタリ、と窓がちいさな音を立てて閉まる。
「ニコル?」
ベッドからセドリック様がぼんやりと私にそう言った。
「起こしてしまいましたか、すみません。今帰りました」
「おかえり、ニコル」
そう言うと、ベッドサイドの花に視線を移した。
「今日もきれいな花だね。ありがとうニコル」
「いえいえ、どうしたしまして」
セドリック様の視線がそのまま私の後ろに流れた後、一点を凝視した。
「どうしました?」
「… …ニコル。バッグから、何かの足みたいなのが出てるけど」
私はあわててカバンを上から抑える。
「こ、これは別に何でも」
「何が入ってるの?」
興味深そうにじっとこちらを見据える緑の目に促されて、私はカバンの中身をそっとセドリック様に見せる。
「ヒキガエル!!!」
セドリック様は仰天して目を見開いた。
「なんでこんなもの持ってるの?」
「えーっとこれは… …えーっと、実はダスティンがヒキガエルが好きで!」
「ヒキガエルが好き??ダスティン君の趣味って結構個性的だね」
「そうです!こせいてきなんです!えへへ!!」
私は飛び出そうになるヒキガエルをぎゅうぎゅうとカバンにおしこめ、薄ら笑いを浮かべながら退室しようとする。
「じゃあ、私、夕方の仕事がありますから、また!!」
「うん。あ、ヒキガエル、屋敷内で逃げないようにね。それ、結構大きいし、みんなびっくりすると思うよ」
「はいはい!もちろん!」
「それにしても、ニコルは優しいね。いくら友達の為とはいえ、ヒキガエル取ってきてあげるなんて」
そう言って、セドリック様は罪のない笑顔を浮かべるから、真っ黒な気持をお腹に隠していることがいたたまれなくなって、逃げるように部屋を出た。
まさかダスティンに一泡吹かす為なんて言えない。
それから私は夕方の忙しいひと時、自分の仕事の合間にまたしてもニコルニコルと呼ばれるまま仕事をこなし、気付けばすでにお屋敷は夜の闇に包まれている。
今日は仕事中も、セドリック様とお嫁さんの事がずっと頭を巡っていた。
どういう方がお嫁さんになるのかと考え始めたら、それが止まらなくなる。
セドリック様を思い浮かべて、隣に立つお嫁さん。
髪は柔らかいはちみつ色なんてどうかしら。アリスみたいな金髪じゃちょっと派手目な感じだし。
もう少し落ち着いた色。
目の色はそうね、ハシバミ色!おとなしそうでいて芯の強さがあるような感じがいいわ。
肌の色はそんなに白くなくて、健康的な感じがいいわ。
セドリック様は体が弱いし、いつも太陽みたいに明るい雰囲気の、そういう方がきっとお似合いよね。
*****
「奥さん??」
セドリック様は、しゃっくりを飲み込んだような顔をして、私を見た。
ちょうど就寝前のセドリック様に着替えを持ってお部屋に入り、ベッドを整えながら、仕事中に野菜を切り損じたり子爵様のベッドのシーツを裏返しに張ってしまったり、ついうっかり失敗しつつ考えていたことをセドリック様に伝えた。
よし。今度はシーツは裏返しじゃないし、花瓶も落とさなかった。
なのに、セドリック様は、びっくりしたまま私を見る。
「そんな、そんなこと考えた事も無かったよ」
サイドテーブルに置かれた水差しから、コップに注いだ水を一息に飲むとセドリック様はやっとそう言った。
「まあ!セドリック様も、まだまだ子供のおつもりなんですね」
私はまるでアリスのように、セドリック様に言い含める。
「セドリック様だってもう19歳です。19歳と言えば大人なのです」
そう告げれば、いつのもの様に、セドリック様は口元を抑えて肩を揺らしている。
「まじめな話なんですよ!」
「く… …わかってるっ!… …君に大人と諭されるなんて!… …」
昔からそうだけどセドリック様は笑い上戸だと思う。そしてすごくツボが浅い上に、なかなか笑いが引かない。
ようやく深呼吸すると、またコップに水を注いで一口飲む。
「ニコルの言うとおりだけど、まだ僕はそんなこと考えた事もないよ。それにしても、そんなにこまかい容姿の特徴を、よく考えついたね」
「人間は容姿ばかりではありませんが、内面というものは外見に出るものです」
「そう。それは肝に銘じておこう」
「セドリック様、まじめに聞いてます?」
そう言うと、儚く笑う。
「おいで、ニコル」
そう呼び寄せて、いつものように抱きしめる。
「いろいろ考えてくれてありがとう。でもまだ僕は結婚なんて考えた事もないし、それに」
細い指が私の髪を梳く。
「こんなに病弱な僕のところへ来てくれる人なんて、いるとは思えない」
私はセドリック様の胸を押して顔を上げ、その緑の瞳をじっと見る。
「そんなことないです!セドリック様は素晴らしい方ですから、きっと素敵な方がお嫁に来てくれます。私だってこうしてずっとセドリック様のおそばにいますけど、そりゃ体調は心配ですが、それでセドリック様のそばにいたくないなんて思いません!」
「… …ありがとう、ニコル」
「あきらめちゃいけませんよ!きっとかわいらしい方がお嫁にきますよ!それこそ入れ食い状態で!」
「ニコル、ダボハゼ釣じゃないんだから… …」
そう言ってくすりと笑った。 セドリック様の結婚。
真剣に考えているつもりでも、ふわふわとした夢のようなものでしかなかった。
だけど、それは突然に現実の問題として私たちの前に突き付けられる。
そうして私は知るのだ。
花園に嵐が吹けば、ひとたまりもないということを。
「大変です!!旦那様が!!」
*****
死というものは、平等に訪れる。
だというのに、その人の立ち位置によっては、周囲が悲しみに浸る時間すら与えてくれない。
子爵が倒れたという一報を受け、馬車を飛ばしてセドリックは視察地まで走った
が、結局帰らぬ人となった。
亡くなったという事実から、感情よりもやらねばならないことが頭を占拠し、まず葬儀の手配、親族への報告、国王への報告並びに、領地を預かる身としてそれらの対応、簡易な棺に入れられてエインズワース邸にセドリックが子爵と帰宅した瞬間から、屋敷は大変な忙しさに見舞われた。
セドリックはその間、必要な事以外は何も話さず、ただ黙々と目の前にあるやらねばならぬことを片づけていく。
実際体が弱く、家の事等何一つ手がけた事がないにもかかわらず、セドリックはその有能さをいかんなく発揮して、つつがなく全てを淡々とこなしていく。
ニコルもここずっと学校を休み、セドリックと屋敷の人たちと共に、やるべきことをただひたすらこなし、日々を消化していった。
ひと月も経つ頃には大分落ち着いてきたが、そうなってくると逆に違う問題が立ち上がってくる。
エインズワース家をどうするか、ということだ。 葬儀の頃からひそひそとささやかれてはいた。
エインズワースを継ぐには、セドリックは体が弱いということが目下一番の問題とされ、彼以外に跡継ぎがいないというのも親戚筋には不安の種だった。
というよりも、なかなか上質な羊毛を生み出す大地と、治安のよいそこそこのにぎわいを示す町はそれなりの収入を期待できる辺鄙とはいえ手ごろな大きさのエインズワース家の領地が、同じくらいの家督の親戚たちには、大変魅力的に映ったのだろう。
この領地をそのままそっくり手に入れる、またとないチャンスであるように思われたのだ。
何かにつけて、エインズワースをどうするのか、婉曲に彼らはかつひっきりなしにこちらの尻を叩き、そしてそれは段々と大きな声となって、今や、どうするのかと直截的な催促になっていった。
このひと月、精力的に日々をこなしていたセドリックも、さすがに疲労の色が濃くなり、さらに矢の様な催促がまたセドリックの心を陰らしているだろうということは誰の目にも明らかだった。
最初は父親を若くして失くし大変だという同情の目が、いつしか、エインズワースを次ぐには若すぎるし体も弱いし他に兄弟もいない。
まして未だ結婚もせず、エインズワースは先が見えないとまで言われるようになってしまった。
子爵が亡くなって、40日目のある晩に、屋敷の者すべてとそれから子爵の秘書を務めていた男グラハムが、子爵邸の一室に集まった。
中央にいるのはもちろんセドリック。
重い空気に風を入れるような声が周囲に響く。
「皆さん知ってのとおり、父であるエインズワース子爵は亡くなった。今日まで、葬儀の手配など、私の至らぬところを補助してくれて本当にありがとう。本来ならばこれくらいの事は私が先頭に立ってやらねばならなかったのだが、私は力が足りず、結局みんなに苦労させてしまった。申し訳ない」
そう言って頭を下げた。
屋敷の人々はみな口々に、そんなことはない、セドリック様はご立派だった、顔を上げてください、と声を上げる。
「ありがとう。本当にありがとうございました。この件については本当に私は皆さんに感謝してます。それで今日集まってもらったのは、他でもなく、エインズワースの今後の事です」
みんなが一斉にセドリックを見た。
「皆さんもご存じのとおり、エインズワース家の存続は、今親戚内でも一番の問題となってます。なぜ存続が問題なのかというと」
そう言って、セドリックは一旦言葉を切り、聞こえないよいうなため息を漏らした。
「私がひとえに、体が弱く、そして他に兄弟もいないし結婚すらしていない、そういったことから、もうこの家を父の代で返上してしまったほうがいいのではないかと言われているからです」
人々の間に、やるせないため息が漏れる。
「私は、私のわがままを言わせていただくと、父や母が大事にしていたこの家を失くしたくない。できればこのままエインズワースのを存続させたいと思っています。ですが、私だけの力でこの家を父のように存続させていくことは、難しいと思います」
「セドリック様!皆まで言わずとも私らに言わせてください!お手伝いさせてください!旦那様が大事にしてくれたこの家を、セドリック様と守っていきたい!」
そう、コックが言うと、我も我もと人々は声を一つにする。
「もちろん私も、お手伝いさせてください。セドリック様。体調の兼ね合いがございましたら、視察は私が引き受けますから!」
子爵の秘書グラハムも、目に涙を浮かべながら言う。
「私もです、セドリック様。今まで以上にお役にたちましょう」
執事のスチュワートも力強く頷いた。
「ありがとう!皆さん、本当にありがとうございます!」
セドリックは椅子から立ち上がって、再び深く頭を下げた。
「セドリック様はもう旦那様になるんだから、そんな頭なんか下げないでふんぞり返ってなくちゃ!」
コックの妻が茶化すと、皆笑い声を漏らした。
こうして久々に、子爵邸に明るい声が満ちた。
そんな中でニコルも、エインズワースがみんなに大事にされてよかったとつくづく思った。
皆が同じ気持ちでセドリックを温かく見守っているのもうれしかった。
自分も誠心誠意をこめて今以上に、セドリックのために頑張ろうと固く誓ったのだ。
屋敷は一丸となってこの問題に立ち向かおうとしていたが、親戚内では問題は前進しているようには見えず、このままセドリックがエインズワースを名乗ろうとも、皆あまりいい顔をしなかった。
そんなときの事だった。
親族の中で、一人の男がセドリックにかなり直球の意見を入れる。
結婚してはどうかと。
家庭を持てば、その先にはまた後継ぎが生まれ、そんな未来に向かう展望があれば、すくなくとも親戚連中を説得する材料にはなる。
何心配するな、奥方の手配なら自分が手を貸そうと。
こうしてエインズワース家の嫡男セドリック・フィン・エインズワースの結婚が決まったのである。
夜も深まったころ、セドリックの部屋からはまだ灯りが漏れる。
ニコルはそのドアをそっと叩いた。
「はい」
中からセドリックが答える。
「ニコルです」
「どうぞ」
返答を聞いてからニコルは部屋に足を踏み入れる。
セドリックはベッドで半身を起こし、ベッドの備え付けの机に書類を広げ、熱心に何かを読んでいるところだった。
「まだお仕事ですか?」
「うん、これだけやってしまおうと思って」
儚く笑うその顔は、ずいぶんと痩せたような気がする。
「セドリック様」
「なんだい、ニコル」
ニコルはまっすぐセドリックのベッドの、枕元までやってくる。
そして、触れたら砕けてしまいそうな緑の瞳をじっと見た。
「私には、両親がいませんからちゃんとした事は分りません。だけど、子爵様はお父様でもないのに、もういないと、もう会うことができないと思うと、とても悲しい気持ちになるんです」
ニコルがそう言うと、そのはちみつ色の瞳からぽたりぽたりと涙が落ちた。
「だから、セドリック様の悲しみをわかるとは思ってないですけど、でもセドリック様。セドリック様はもう、泣いてもいいんですよ」
「ニコル… …」
子爵が倒れてその命が消えた後も、セドリックは一度も泣かなかった。
葬儀の間も決して涙を見せなかった。
だから。ニコルは言う。両目からぽたぽたと流れるに任せた涙のまま、ニコルは言うのだ。
「おいで、ニコル」
セドリックはいつものように彼女を呼んで抱き寄せる。
「ありがとう、ニコル」
そう言うと、その骨ばった肩が小刻みに揺れた。
笑うときも声を立てないセドリックは、泣くときも声を上げなかった。
ニコルはその茶色い髪を優しくなでて、そして細い肩を抱きしめた。
温かい涙が彼女の胸にゆっくりと染みていく。
こんなに悲しい出来事でも、セドリックの涙はとても温かいと、彼女は思った。
明日はいよいよ王都から、セドリックの結婚相手がやってくる。
幸せになってください。
彼女は、ただそれだけを願った。
*****
翌朝は、とても素晴らしいお天気だった。
屋敷に奥方を迎えるのは、セドリックの母親以来だったので、隅々まで掃除をしたり立派な花を活けたり、早朝からエインズワース邸は大わらわだった。
みなぎる緊張感に、ニコルも圧倒される。
そしていよいよ、馬車の音が遠くから近づき、止まる合図とともに玄関のドアが開け放たれた。
馬車から降り立つその人は、つやつやと輝く黒い髪をゆるくまとめ、目に痛いほど真っ白な肌に、豊かな胸元を深い青のドレスにのぞかせ、真っ赤なルージュが口元を彩り、うすい灰色の瞳が屋敷の外観をぐるっと見渡した。
屋敷の人々は、彼女のその美貌と圧倒的な存在感に皆立ちすくんだ。
ニコルも息を飲む。
やがて、彼女の視界にセドリックが映る。
そうすると、赤い口元がきれいな弧を描いた。
皆その笑顔にくぎ付けになる。
何か妖艶な花が見事に開いたような、そんな迫力があった。
「初めまして、エインズワース様」
彼女は皆の視線を一身に浴びながら、そんなものは慣れっこと言った風にセドリックに歩み寄る。
もとより、彼女の視界にはセドリック以外の人間は存在しないかのようだった。
「わたくし、アレクサンドラ・ミンターと申します。よろしくお願いしますね」
そう言って、ひざを折った。
その優雅な振る舞いに、皆まるで見事な舞を目前にしたように見惚れた。
そんな中で、ただ一人、セドリックだけが一つも表情を変えずに、彼女と視線を交わした。
アレクサンドラ様がエインズワース邸に到着してすぐ、折り返す様にセドリック様が王都へと出発した。
エインズワースを正式に継承するということと婚姻を結ぶためだ。
子爵様の秘書だったグラハムが旅に同行する。
セドリック様は体が強くないので、負担がかからない様な旅程を組んだから、往復に相当日数を費やすらしい。
「後をよろしく頼みます」
「ええ、道中気を付けてくださいませ」
蜜の様な甘い声がそう返した。
こうしてセドリック様は旅立っていかれた。
日差しは柔らかく、セドリック様を乗せた馬車を優しく包み、淡い影が見えなくなるまで私たちはそれを見送った。
アレクサンドラ様の居室は、私たちも出来る限りの装飾でお迎えしたけれど、王都の流行とはずいぶん違ったようで、あちこち手直しが入った。
私が学校へ行っている間に、ずいぶんいろんなものが運び込まれ、そしていろんなものが捨てられた。
お迎えにあたって、玄関ロビーに飾られた花園から選んできた花たちは、すぐに王都から取寄せたという大輪の花々にとってかわられた。
何しろ、花びら一枚一枚がまるで造形物のようにピンとして、全てが絵に描いた様に完璧な形をしていた。見上げて思わずため息が漏れる。
「ニコル、触るなよ」
給仕のジョニーが言う。
「触らないわよ、子供じゃないんだから」
「どうだか!」
そう言って肩をすくめる。
「行ってきます」
頬をふくらましたまま、いつものように私は裏口から学校へ向かう。
呟いた「行ってきます」を拾ってくれたセドリック様はいない。
セドリック様がいないことなど、今まで一度もなかったから、その姿が見えないお屋敷は、まるで別のお屋敷の様だった。
けれど、それは予感とか直観とかそういう不確かなものじゃなくて、日に日にお屋敷には、見た事もない装飾が増え、見た事もない調度品が並び、庭の花々も取り替えられ、確かに別の屋敷になっていくようだと言っても言い過ぎじゃなかった。
花園にたたずむ。
花園はすでに花園ではなくなっていた。
色とりどりの花は見事な形に裁断されたバラの園へ変えられていく。
淡い色が緑にかすんだこの場所が、赤や黄色やオレンジの、それらが飛びぬけて鮮烈な色でお屋敷を縁取り始めた。
「お前たち、立派過ぎるわ」
洗濯場から眺める遠くの薔薇たちが日差しを浴びている姿にそう呟く。
料理の種類もだいぶ変わった。わざわざ王都から食材を散りよせ、コックたちは頭をひねったり書物を読んだり、とにかくランチ一つも大騒ぎだった。
それでもなかなかアレクサンドラ様のお口に合うメニューが作れず、毎日大変そうだ。
そう言ったら、
「この年になってこんなに修行することなんかないから、いい勉強だ!」
と笑顔で答えてくれる。
みんな一生懸命アレクサンドラ様、いいえ、奥様のために、ひいてはセドリック様のために頑張ろうという気合いに満ちている。
ある日の事だった。
私が廊下を掃除していると、ちょっと隙間の開いた奥様の部屋から声が漏れ聞こえた。聞くつもりはなかったが、あまり楽しい会話ではないようで、言葉の強さが耳を打った。
「アレクサンドラ様、大変申し上げにくいことですが、エインズワース家はそれほど裕福ではありません。もうこれくらいにしていただけませんか」
執事のスチュワートさんの声だ。
けれど、聞いたこともないほどそれは固く、押し殺されたような声音だった。
「あら、今この家の主人はわたくしよ。主人の言う事が聞けないの?」
「確かにそうですが… …」
「お金お金って、庶民のような話をわたくしに持ち掛けないで頂戴。この家の内情なんて、わたくしが知る必要もないわ。わたくしは、エインズワース子爵夫人なのよ?差し出がましいにもほどがあるわ」
「… …失礼しました、奥様」
「そうね、こうしましょう。あのコックを首にすればいいわ。だって料理のセンスがまるでないんですもの。その分もう少し安い賃金で別のコックを雇えばいいわ」
「しかし、奥様!」
聞き捨てならないセリフに私は体を緊張させる。
「そうそう、あのニコルとかいう小間使い、あれは学校へ行ってるんですって?たかが使用人に教育なんて必要かしら。あれをやめさせてもっと働かせればよろしいいんじゃなくて?まだ若いから、あの子一人で二人分以上は動けるでしょ?どうせろくに頭なんか使わない仕事なんだから、年を取っているよりは若い方がよく働くわ」
「… …奥様、それはセドリック様が… …」 「今はわたくしが主人なの。セドリックだって、この家を継いでいくというのに、無駄なところにお金を使うような世間知らずじゃないでしょ?いい?わかったらさっさとやって頂戴。人に意見を求めたんだから、相応の結果を持っていらっしゃいよ」
「はい… …奥様」
しばらく間があって、その沈黙に一滴のインクを垂らしたような密やかな声がじわりと広がった。
「あなたまさか、本当にエインズワースが存続すると思っているの?」
私ははっとして隙間を覗いた。
本当はいけない事だけれど、奥様が、いったいどんな顔をして、何を言おうとしているのか私は見たかったのだ。
ドアの向こうの奥様は、ゆったりと体をソファに預けながら、スチュワートさんを見上げている。
その目は、まるでネズミをいたぶる猫の様な光に満ちて私は息を飲む。
あんな目つきを、人はするものなんだと。
「だって、セドリック様、男性として不能でいらっしゃるでしょう?」
「奥様!!」
「あら、屋敷の人間はそれくらいもう知っているかと思ったけれど」
「断じて!断じてそのような事は… …!!」
「本人がおっしゃってたのよ。なんなら、あなたがお尋ねになったらいかがかしら」
そういうと、ころころと鈴を転がすように笑った。
「そうねえ、じゃあそれは秘密にいたしましょう。わたくしとあなたの。それで、跡継ぎが産まれても、口を挟まないでくださるかしら。国には、茶色い髪の緑の目の男なんて山ほどいるんですもの」
スチュワートさんの、握りしめた手がかすかに震えているような気がした。
こちらに背を向けているから、表情は分らない。
「没落する家を、無理に存続させようとするから無理が出るのよ。まあせいぜい贅沢させてもらうわ。どうせ、あとに残す必要なんてないんだから」
そう言うと、あでやかに笑って紅茶を口にした。
私は震える足を叱咤してその場を離れる。
なんということだろうか。
私は今し方耳にしたことが信じられなかった。
女神のように美しいその姿から、あんな言葉が流れてくるとは。
いえ、あれは仮の姿かもしれない。
だって、彼女だって突然結婚しろと言われて、困惑しているのかもしれない。
それを隠すためにわざとあんなことを言うのかもしれない。
玄関ホールの美しい花々を見る。
だってあれだけ美しい花を選ぶ方だもの。
悪い人なんかじゃないわ。
王都から急にこんな田舎へやってきたんだもの。
戸惑いがあっても仕方がないわ。
セドリック様の代わりに、私はしっかりと奥様にお仕えしなくちゃ。
私はその日を最後に学校をやめた。
読み書きはできるし、セドリック様に学校の様子を報告する必要ももうないだろうから。
その分、しっかり奥様のお世話をさせていただこうと思う。
エミーはそんなに頑張る事なんてないと言うけれど、奥様は誰も知らない土地できっと心細くしてらっしゃるだろうから。
セドリック様に毎日お花を届けた様に、奥様のお部屋にも花を届ける。
「なんの嫌がらせかしら、この花。雑草をこの部屋に飾るなんて」
「申し訳ありません、奥様」
「あなた、学校で何を教わってきたのかしら。これだから意味のない人間に教育なんて無駄なのよ。あなたもそう思うでしょう?」
「ええ、奥様… …」
奥様はとても棘のある言葉を使うけれど、きっとそれは心が痛んでいるせい。
「この紅茶、味が悪すぎるわ。もう一回淹れなおして」
「はい、奥様」
5回淹れなおした後に奥様は言う。
「悪いわね、茶の葉が違うんだわ。わたくしが王都で飲んでいたものを取寄せてちょうだい」
「あの… …銘柄は… …」
「そんなの気にしたこともないわ。わたくしが飲んでたものよ。誰かに聞けば分かるでしょ?」
奥様は無理なことを言うけれど、それは私が本当に奥様を信じているのか試す為。
毎日毎日、夜になればベッドに倒れ込むほど疲れる。
そんな私をエミーは心配してくれる。
無理しないでというけれど、今無理しなければいけない時じゃない?
今、奥様が心を開いてくれなくちゃ。
セドリック様がお帰りになるころには、きっと皆と打ち解けた奥さんでいてくださるために。
きっとそれがセドリック様の幸せになるんだから。
セドリック様が旅だってから、20日が過ぎた。
王都まで4日ほどかけて到着したが、その後思わしくなく、しばらく休養してから処々の手続きに入るらしいことをスチュワートさんから聞いた。
「なんにしろ、我々はがんばろう」
そう呟く。周りを見渡せば、それぞれが疲れを引きずっていた。
「がんばりましょう!」
私も努めて明るく言う。
「だってセドリック様も一生懸命頑張ってるんですもの。おかえりになったらお式を挙げて、お子様が生まれたりするんですよ!こんなに明るい出来事がこの先起こるなんて、楽しみじゃないですか!」
「そうだな、ニコル」
コックさんが大きな手を私の頭に置いた。コックさんはやめさせられることが無くて本当によかったなと思いながら見上げる。
「一番小さいニコルががんばってる。俺たちも頑張らなくちゃ」
そうだと皆口々に呟き、確かにと頷いた。 頑張ろうと私も呟きながら、胸に手を当てた。
季節は徐々に移ろいを見せ、日差しが強くなってくる。
セドリック様、どうしているかしら。
王都はここよりも暑くなったりするのかしら。
暑さは一番こたえるもの。
あまり暑い場所じゃなければいいけど。
そんなことを思いめぐらしながら、私は窓の外を見る。
大きな雲がエインズワース邸に、いくつも影を落とした。
*****
綺麗な馬車がお屋敷に突然やってきたのは、そんな眩い季節の始まるころだ。
馬車の中から身なりの良い、茶色い髪の緑の目をした紳士が現れる。
「まあ、ようこそ、エリオット!」
奥様は駆け出して抱き着くから、私たちは目を丸くした。
「まあ何をぼうっとしているの、お客様よ!しっかりしてちょうだい。これだから田舎は嫌なのよ」
「そう怒るなよ、ハニー。せっかくの美人が台無しだ」
「まあ、エリオット。いつもお上手ね」 「俺は真実しか口にしないのさ、女神様。罪は君をつい見つめてしまうことだけど、この目だけは罰しないでおくれ。君が見えなくなったならこの世は地獄も当然だ」
そんなことを言って、奥様の腰に手を回し、仲良く奥様の部屋に入っていった。皆がまるで狐にでもつままれたように一連の様子を見ていた。
ただスチュワートさんの、歯を食いしばって握りしめた手袋が、深い皺を作っていた。
すると間もなく、ベルの音が響き、私はあわてて紅茶を用意する。
ノックをすれば、楽しそうな笑い声が部屋から響いてきた。
「奥様、失礼いたします」
そう言って、紅茶の乗ったワゴンを押して中に入った時、奥様は、お客様の膝の上に乗って、その首に両手を回していた。
私は一瞬、何がどうなっているのかわからなくなって、つい見つめてしまった。
「なあに?何か文句でもあるのかしら?」
奥様は不機嫌に私を睨んだ。
「あなただって似たようなものでしょう?」
「私… …ですか?」
「あなた、ずいぶんとセドリックに大事にされてるようじゃない?」
「いえ、そんな」
「おかしいと思ったのよね、19歳の男が私に興味が無いなんて。ねえ、ダーリン」
「敵は少ないほうがいいな、ハニー」
二人は甘く見つめ合う。
「私が言いたいことはこういう事よ、お嬢ちゃん。セドリックはあんたみたいなのがお好みなんじゃないかって」
そう言うと、優雅に眉をひそめたかと思うと、口にするのもけがらわしいといった具合にこう言った。
「あの人、少女趣味なんじゃないの、気持ち悪い」
この時 私の中で 何かが
砕けてしまったような気がした
後の事はよく覚えていない。
聞こえるのは背に投げつけられるような笑い声と、ワゴンを押す自分の手が、その取っ手よりも冷たくなっていたこと。
そして、奥様は、セドリック様を幸せにしてくれないだろうということ。
ニコルがそのまま調理場へ向かうと、階段の陰で、スチュワートが誰かと声を押し殺すようにして話していた。
「このままじゃ、セドリック様が戻られるまでにどうにもならなくなる」
「セドリック様の様子はどうなんだ」
「なんとも。まだ熱が下がらないしご回復は遅れているようだ」
「無理もない」
「どうしたらいいんだ」
「本家の、マッケンジーを頼ったらどうだろう」
「本家か… …」
「本家なんて誰が行くんだ?グラハムさんもいないというのに」
「私らなんかが行っても、会ってくれもしないだろうよ」
沈黙が降りた。
話し合いはそこまでだった。
一同は深く息を吐く。
ニコルはそこからゆっくりと引き返し、ワゴンを所定の場所へ置いた。
そして、そのまま勝手口へ向かう。
ドアを開ければ、日はいくらか黄色くなり始めていたが、夕方というには早い。
ニコルはまっすぐ顔を上げて、屋敷の中庭を進んでいく、後ろを振り返る事もなく、ただ黙々と。
「ニコル!ニコル!」
聞き覚えのある声が背後から聞こえて、ニコルははっとして足を止める。
「ニコル… …その、あの、旦那様が亡くなって、お前もいろいろ大変らしいな」
シャツに吊りズボンをはいた少年が、ニコルの様子を窺うように話しかけてきた。
「ダスティン… …」
「どうしたんだよ、大丈夫か?」
うつろな色を浮かべた、ニコルの瞳を心配そうに見る。
「大丈夫よ。私急いでいるから、またね」
そう言って、ニコルはまたささっさと歩きだした。
「おい!ちょっと待てよ!」
今度はニコルは立ち止まらず、歩む速度も緩めなかったから、ダスティンも後ろから追いかけた。
「急いでるって、今頃どこへ行くんだよ」
「シスレー」
「え?」
「シスレー」
「シスレー?!」
ニコルの後頭部が、うんうんと頷く。
「っていうか、歩いてるけど、どっかから馬車にでも乗るのか?」
「乗らない」
「乗らないって!シスレーまで歩くつもりかよ!」
「そうよ」
「待てよ!」
「待たない。急いでるんだから!」
「待てったら!」
ダスティンは、先を急ぐニコルの肩に手をかけて、彼女を止める。
「離してよ!ダスティン!」
「シスレーまで歩くとか何言ってんだよ!しかも今何時だと思ってるんだ!もう日が暮れるんだぞ。いくらシスレーは隣街とはいえ、どれくらいかかると思ってんだよ!」
「だって仕方がないでしょ!他に方法が無いのよ!」
ニコルの目にみるみる涙がせりあがる。
動転して、ダスティンは手を離す。
「どうしたんだよ… …もしかして、セドリック様に、何かあったのか?」
「いいの!ダスティンには関係ない!」
「お前が困ってたら、それはもう俺に関係ある事なんだよ!」
はっとしてニコルが顔を上げると、ダスティンは、見た事もないような真剣な顔でそう言った。
しばしの沈黙が流れる。
どこかで子供が遊んでいる声が響いていた。「こっちだよー!つかまえてみろよー!」そしてきゃっきゃと笑う声。
風が吹いてニコルの髪を揺らす。
顔にかかる髪を右手で抑えて、ニコルはため息を吐くと、ぼそぼそと小さな声で言う。
「… …本家へ行きたいの。本家にお願いしたいことがあるの。セドリック様の事は本家に助けてもらうしかないの」
「本家って… …マッケンジー伯爵のとこか」
黙って頷くニコルの前で、ダスティンは何かを考えるように腕を組んだ。
「… …待ってろ」
「え?」
「ここで待ってろ、親父から馬車借りてくる」
「そんな!いいよ!歩いていけるよ」
「バカか!お前、シスレーまでどれくらいあると思ってんだよ。まずこの街を抜けて延々と続く牧草地を抜けて、その向こうの森を抜けて、小麦畑を通って、その先なんだぞ、シスレーは!」
「わかってる」
「わかってねーよ!これから夜になる。お前は夜の恐ろしさを何にもわかってない。お前みたいなのは、簡単にかっさらってとんでもないところに売り飛ばされるか殺されるかが関の山だ」
ダスティンは、ニコルの目を見てはっきり言う。
「いいか、ここにいろ。今すぐ戻るから」 「だって!」
「だって、何だよ?」
「ダスティンは馬車に乗れるの?」
そう言うと、ダスティンの思いがけない大きな手がニコルの髪をくしゃくしゃにした。
「ばーか。俺は羊毛工場の息子なんだぜ。馬車の一つも動かせなくちゃ、繁忙期大変だろうが」
見上げてニコルは思う。
いつの間にダスティンとはこんなに背の高さも違ってしまった。
馬車を算段する横顔をぼんやりと眺めながら、いつからダスティンはこんな風な表情をするようになったのかと思う。
ダスティンはもう一度、ここを動くなと念を押して、日が傾きかけた道を走っていった。
ニコルは背後に続く、これから進む道を振り返る。
町はずれのまばらな建物が長い影を落とす。
その先には牧草地帯。
目を凝らしても先の森までは見えない。
急に距離が感じられて、ニコルは知らずにスカートを握りしめた。
ほどなくして馬車が近づいてくる音が聞こえる。
前髪の長くて、がっしりとした馬がぽくぽくと足音を立てていた。
「荷馬車だから」
ダスティンは、ニコルを引っ張り上げながら言う。
「乗り心地は悪いだろうから、これ敷けよ」
そう言ってダスティンの隣にパッチワークのクッションを置いた。
「ええ、なにこれ、かわいい!」
「おふくろが持ってけっていったから」
そう言ってダスティンは、そっぽを向いた。
馬車はしっかりとした足取りで道をゆく。
連なる建物の影がいつしかまばらになり、やがて夕陽になりつつある太陽が、二人を一直線に右から照らした。
牧草地が黄金の波のように風になびいている。
もう羊たちも家に帰ってしまった。どこからか大きな鳥が3羽、夕陽に染まっていく空を羽を広げて飛んでいく。
荷馬車の二人はさっきから何も話さず、ただ馬車に揺られていた。
ダスティンは時折ニコルの様子をうかがうけれど、彼女はただひたすら前を睨むように見つめているだけだった。
「これ、食う?」
荷馬車に乗せられたバスケットに、顎をしゃくってダスティンはその存在を示す。
「なに?」
「あけて見ろよ」
ニコルは手を伸ばして持ち上げると、それを膝に乗せる。バスケットにはやっぱりパッチワークの布がかぶせてあった。
「お母さん、お裁縫得意なのね」
ダスティンの母親を思い浮かべる。
恰幅のよい笑顔の似合う人だ。
親がない上に素性のしれないニコルを、快く思わない人はいるけれど、ダスティンの母親はいつだってニコルを笑顔で迎えてくれた。
『また、あの子のカバンにヒキガエルを入れておくれよ、ニコル!あれをやると、あの子はしばらく借りてきた猫みたいになって、静かでいいんだから!』 そう言って、楽しそうに笑う。
ニコルはお母さんというものを知らないけど、あんな人がお母さんだったらいいなとよく思う。
ダスティンに促されて開けてみれば、中にはパンとチーズと水が入っていた。
「大したものはないけどよ。お、おふくろがお腹すくだろうって」
「お母さんに気を使わせちゃったね。帰ったらよくお礼言わないと」
「腹減ってんじゃねーの?少し食べろよ。」
「ありがとう。じゃあいただくね。ダスティンは?」
「俺はいいよ、手がふさがってるし」
手綱をしっかりと握って前を向いてるダスティンに、ニコルはパンを少しちぎって差し出した。
「はい、あーん」
「はああああ?」
驚いたようにダスティンは思わずニコルを見た。
彼女の白い手には一口サイズのパンが乗せてあって、いかにも当然のようにダスティンが口を開けるのを待っていた。
「ちょ!いいよ!俺はいいって!」
「大丈夫よ、手がふさがってても、こうすれば食べられるでしょ。ほら!遠慮しなくていいよ。私は座ってるだけなんだから」
ぐいぐいと押し付けられて、ダスティンは仕方がなく口を開ける。
ほどなくしてパンが口に放り込まれ、ニコルの指先が彼の唇に触れた。
「どう?おいしい」
「… …ああ」
そう言うと、もぐもぐと口を動かす。それきり、ダスティンはニコルの方へ一度も顔を向けないから、仕方なくニコルは
「次はチーズ?お水にする?」
と忙しくダスティンに尋ねることになった。
「じゃあ私も頂こうっと。いただきます」
ニコルは両手でパンを持つと、小さな口を動かして、小動物さながらにモクモクと食べる。それを時折盗み見ては、明後日の方を眺めるという忙しい目の運動をする羽目になって、いったい自分は何をやってるんだろうと、ゆっくりと尾が揺れる馬のお尻を眺めながらダスティンは思った。
何かを口にすると心が落ち着くものだなとニコルは思う。
さっきまではずいぶんときりきりしていたけれど、パンを食べてチーズをつまんだくらいになると、だんだんと冷静になってきた。
「… …こんな歩かせて、馬は平気なの?」
バスケットの中身をあらかた食べた後、不意にニコルは問う。
「歩いていける距離なんだろ?」
ダスティンが口の端を上げて言う。
「いじわる言わないでよ。ちょっといろいろ!さっきはあせってて」
「この馬は」
ニコルがわたわたと説明するのを肩をすくめて受け流すと、ダスティンは誇らしげに馬を見ながら言う。
「普段はすげえ重いもの乗せて荷車引いてんだよ」
「そうなの?」
「こいつは働き者なんだ。馬って結構気性が荒かったりするけど、こいつはどっしりと構えて、何があっても驚かない。肝が据わってんだ」
「すごいのね」
「ああ。だから荷物なんて全然無い、空の荷馬車を引くなんて、こいつには屁でもない」
「お名前なんて言うの?」
「… …ニコル」
「え?」
「だから!ニコルだよ!」
「えええええ?」
「ぐーぜんだからな!ぐーぜん!!父ちゃんの友達のいとこのはとこがつけたんだ!」
「… …へえ。そう、ニコルっていうんだ。よろしくね、ニコル。無理なこと頼んでごめんね」
ニコルは馬のニコルに向かってそう言う。
相変わらず、馬の尻尾はゆっくりと右に左に揺れているだけだ。
そんなに日は落ちていないのに、森に入ると急に暗くなってきた。
ニコルはダスティンに言われてランプに火を入れる。
ぼんやりとしたオレンジの色の火があたりを明るく照らす。
「夜中になる前には着けそうだな」
ダスティンは呟く。
「ごめんね」
「気にすんなって言ってんだろ。あのままお前を歩かせた方が気分が悪い」
「ごめんね」
「もう、ごめんねは禁止だ」
やがて森を抜けると、目の前に月が見えた。
今日は三日月で、触れば取れてしまいそうだった。
小麦畑が広がる先の一角に、黒い小山が見える。
「ほら、あれ」
ダスティンが言う。
「あれが、マッケンジー伯爵様のお屋敷だ」
ニコルは目を凝らす。
ざわざわと揺れ動くそれは、お屋敷を取り囲むように植えられた木々のようだ。
その木々たちのように、ニコルの心もざわざわと揺れた。
薄暮の空には星が瞬き始めていた。黒い影の塊のような森が、小麦畑の中にただのっそりとした姿を現している。
門は無く、花壇に縁どられた道を場違いな荷馬車が駆けていった。
森を抜ければ、そこにはその森が守るに値する立派な屋敷が姿を現した。
オレンジ色の灯りが玄関に濃い影を落とし、近寄りがたい雰囲気を滲ませる。
「本当に、行くのか?」
ダスティンが心配そうに聞く。
見上げれば、うちのお屋敷よりもずっと重厚なこの扉が、私が叩いたところで開くようなものじゃない気がしてくる。
だけど。
私はセドリック様を幸せにしたいの。
「大丈夫よ。ダスティンはそこで待ってて」
玄関から少し離れたポーチを指さす。
荷馬車がこちらを気にしながらも去っていくのを見届けて、私はまたこの立派な玄関の前に立つ。
そして大きく深呼吸をして、思切ってその扉をたたいた。
「ごめんください!!夜分にすみません!エインズワースのものです!!」
かなりな力で叩いたけれど、そう簡単に大きな音を立ててはくれなかった。
だからもう一度と、手を振り上げようとした時、扉は向こうからぎっと音を立てて開いた。
扉の向こうから顔を出したのは、多分スチュワートさんと同じ立場の人だろう。
「エインズワース… …っておやおや、お嬢さんこんな時間にどうしたんですか?」
私を見ると、すっと腰をかがめたその人は、スチュワートさんよりずいぶんと年が上のようで、髪がもうすべて真っ白だった。
「あの、あの、私、伯爵さまにお話がありまして!」
頭の中で用意していた文章がすべて吹き飛び、私はやっとこれだけの話をした。
これじゃ、話にならないと言われてしまうに違いないとうつむいた私に、先ほどと同じ優しそうな声が降りてくる。
「そうですか。あなたは運がいい。ここは伯爵さまの別邸だから普段はあまりいらっしゃらないんですよ。だけど、今日はここに立ち寄られるから… …ほら、聞こえてきましたよ」
見上げれば、その人は森の遠くにまなざしを送る。
暗い森の向こうから聞きなれぬバタバタバタという音とブオーーーンという音が重なって響いてくる。
まばゆい光が目を射ると、それはあたりを照らしてぐるりとする。
たちまち目の前に自動車が姿を現した。
「自動車… …」 私は思わずそう呟く。
私の街ではまだ自動車に乗っている人はいなくて、目にするのは初めてだった。
「どうした?オルトン?」
「おかえりなさいませ、旦那様。エインズワースから小さなお客様がお見えですよ」
「エインズワースの客?」
そう会話しながら玄関の灯りの中に現れる。
うわ、ライオン… …。
金色の髪をまるでたてがみのように長くなびかせて、がっしりとした体格の長身の男。
この人が。
「お嬢さん、マッケンジー伯爵ですよ」
ライオンが深く青い目で私を見る。
すごい目の色だ。
セドリック様は新緑みたいな優しい色だけど、この人は青いのにまるで炎みたい。
体つきからは想像できないほど、顔つきは教会に飾られている絵みたいな端正な顔立ちで、またその中の目の強さに固まってしまった私に、ふっと力を弱めた。
「恐れることはない。私は、我が国王の『どのような身分のものであっても、軽んぜずそのものの話に耳を傾けよ』という意思に従っている。私は国王に忠誠を誓い、また国王も私に信を置いている。さあ、まずは中に入るといい」
そうして優しく笑んだ。
まだかちこちでうまく歩けない私をオルトンと呼ばれた人が背を押して、お屋敷の中へ招き入れてくれた。
伯爵さまは、こうやって陳情に来る私のような庶民を扱いなれているのかもしれない。
執務室の様な場所に招かれ、私にソファに座るように言い、伯爵さまはソファの前の大きな机に着けられた椅子に腰を掛けた。
ほどなくして、さっきのオルトンさんがいくつかの書類の束を持ってきて伯爵さまの前に置く。
伯爵さまは大きな手でぱらぱらとそれをめくり、そしてまた私を見た。
「それで、君はエインズワースの誰なんだ?」
緊張してのどがカラカラになっているから、何度かつばを飲み込んでいると、横からすっと水の入ったグラスが渡される。
驚いて顔を上げるとオルトンさんがほほ笑みながら「さあ、どうぞ」と促してくれた。
冷たい水を一口、二口飲み込んで、私はやっと、ライオンのような伯爵さまに視線を移す。
「… …こんな夜分に、突然押しかけてお話を聞いてもらうような立場の人間ではないのですが」
「それは構わない。君はそれを気にしなくていい。先も言った通り、私は誰の話でも聞く。それの真偽が分からないほど愚かではないつもりだから、君も述べるところを述べよ」
まっすぐに注がれる瞳には偽りは見えなかった。
そりゃ私のような下っ端が、偉い人の嘘やごまかしなんてわかるとは思えないけど。
私は両手を握りしめて、伯爵さまを見る。
「私はエインズワースの使用人、ニコルと申します。今日はセドリック様の事についてお話に上がりました」
「わかった、ニコル。セドリックというのは、フィンレイの長男だね。体は弱いけれどずいぶん優秀なようだ。父親の仕事もいくつか手伝っているようだね」
それを聞いて私は驚いた。
セドリック様は一日ベッドで過ごしているだけのもと思っていたのに、子爵様のお仕事を手伝っていらっしゃったのか。
「まあ、そう無理はできなかったようだけど」
伯爵さまは資料と思しき書類をさらにめくる。
「財政状態も悪くないし、特にこれと言って問題もない。彼が次期当主としてやっていくに、私は異論はないかな。それで、彼がどうしたと?」
セドリック様が子爵になっても問題ないという伯爵さまの言葉が、まるでやまびこみたいに何度も私に響いた。
問題ない。
問題ないのに、じゃあなぜセドリック様は無理をしてでも結婚しなくちゃいけないの?
「他の親戚方は、そのような事をおっしゃってはくれませんでした。セドリック様が体が弱いことをご指摘になり、またご結婚もされていないから先も見えない、エインズワースは取り潰したほうがいいのではないかと、そう言われていたんです」
「結婚!」
そう言うと、伯爵さまはおかしそうに笑った。
「この私ですらまだ結婚などしていないのに、19歳の青年に無理難題を強いるとは、古い連中の考えそうなことだ。どうにかしてエインズワースを継ぐに値しない理由を見つけようとでもしているんだろう」
そう言うと、伯爵さまはペンをとってサラサラと何か書きつける。
「セドリックは、王都へ?」
「そうです。エインズワースの継承と、結婚の承諾に」
「結婚の承諾?」
ふと手を止めて、伯爵さまは眉をひそめて私を見た。
「結婚相手がいるというのか?」
「はい」
「結婚しろと言われてすぐ実行できるというのは、昔からの許嫁とか、親の代からの約束だとかそういったものか?」
「いえ… …、あの、結婚すらしていないという話が出た時に、親戚の方からご紹介いただいて、相手の方もすぐに承諾いただきましたので、お話もどんどん進みまして」
「名前は?」
「アレクサンドラ・ミンター様です」
そう言えば、バンと、伯爵さまは机を片手で叩いた。
「吸血鬼!」
「は?」
「その女は王都では、吸血鬼で通っている。余命わずかな男の元に嫁ぎ、いざ主人が死んだあとには、財産も何もひとかけらも残さない、その女が立ち去った後は」
伯爵は両手を合わせてすぐそれを離す。
「何も、無くなる。全てを吸い尽くす、という意味で、その女は吸血鬼と言われる。まあ、たぐいまれだという美貌もあるからな。そんな女を押し付けるとは、いったい誰の紹介だ?」
そんな話を聞いて、私は血の気が引いていくような気がした。
誰もかれもが、エインズワースをつぶしてしまおうと考えているんだ。
優しい子爵様と、セドリック様と、それから屋敷のみんなのあの温かい場所を。
「大丈夫か?」
そう呼び掛けられて私ははっとする。そうだ。こうしてはいられない。ますます私ががんばらなくては。
「大丈夫です… …。紹介者の事は分りません。私はただの使用人ですので」
「そうか。まあそんなことはこちらで調べればすぐわかる事だ。話は分かった」
そう言うと、また、さらさらとペンの紙を滑る音が部屋に響く。
ランプの灯りが机の上でちらちらと揺れた。
「よし」
そういうと、書かれたものを私の前に差し出した。
「字は読めるか?」
「はい。セドリック様が学校へ行かしてくれましたので」
「そうか。それは良いことだ」
指し示されたそれには、国王あての書簡だった。セドリックがエインズワースを継ぐことに何も障りが無い事、後見は本家がするということ。
そういったことが流麗な筆致で書かれてあった。
「これを私は明日、国王のところへ持っていく。よく働いてくれた、ニコル。お前のおかげで、エインズワースは確かにセドリックのものだ」
はあっと大きな息を吐くと、全身から力が抜けた。
よかった。
これでセドリック様もお屋敷もみんなもすべて今まで通りだ。
「お前にも誓約書を書こう」
「いえ、あの大丈夫です!」
「いや、約束はきちんと書類にしておかなくてはな。万一、私が約束を反故すれば、お前はこれをエインズワースの秘書に渡せ。私はたちまち国を追われるだろう」
「そんな」
「だが、そうはならない、私は約束を守る」
そう言うと、伯爵さまはペーパーナイフですっと親指を撫でた。
ぷくりと赤い血が滲む。
「何を!」
そうして伯爵さまは、私の為に作った書簡に血の出た指を押し付けた。
「私を信じろ、ニコル」
私はあわてて伯爵さまに駆け寄る。厚い大きな手を持って、傷を見た。
それほど深くはないけれど、赤い血はゆっくりと滲む。
「何か、布か何かを当てないと」
「ニコル」
「誰かお呼びしましょう」
「ニコル。もう一つ私はこの紙に書き記したことがある」
私は伯爵さまを見上げる。
「君はエインズワース邸を辞去し、私の元に来い」
「… …え… …」
不意に大きな手が私を抱き寄せる。とっさに抜け出そうとしたけれど、厚い体はびくともしない。
「本家の血が流れた子供をエインズワースにやれるだろう?セドリックの養子にするにはちょうどいい」
そう耳元に囁かれる。
「選ぶ自由を与えるよ、ニコル。今日はもう遅い。部屋を用意させよう。一晩考えて明日には答えを出してもらう。そうすれば私は明日には良いニュースをエインズワースに持っていくことができると思うのだがな?」
血判が押された紙が視界に入る。
確かに私の名がそこに記され、もちろん使用人として雇う旨が書かれている。
「妻の座をあたえることはできないが、大事にしよう」
伯爵はなおそう言葉を続けた。
とても大きく暗い穴が、足元に開いているような気がする。
力を抜いたらどこまでも落ちていってしまいそうで、私は身を固くする。
「ニコル」
目の前の、血のにじむ親指に視線を落としながら伯爵さまは言う。
「舐めてごらん」
私はその傷と、青い瞳を交互に見た。
そうして、手を顔に引き寄せて舌でその傷をぬぐう。
鉄の味が口に広がる。そうしてしばらく傷をなめさせた伯爵は、私の腰に回した手をほどくとゆっくりと髪を梳いた。
「上手だ」 とささやきながら。
「オルトン」
伯爵がその名を呼べば、ドアの向こうにさっきの白髪の執事が姿を現す。
「外の荷馬車の彼を帰してやれ。丁重にな」
そう言うと、ポケットを探って何かを渡す。手の隙間が金色に光る。
「かしこまりました、旦那様」
「ニコルを客室へ」
オルトンさんは優しそうな笑みを顔に浮かべ、私を招く。 「では一緒に」 。
案内された客室のベッドの上で私は高い天井を見上げる。
胸の前で手を組んで、目を閉じる。
瞼の向こうでは、セドリック様が儚く笑う。
そう。
私はセドリック様の幸せを、それだけを願って生きてきた。
これで幸せに生きられるなら。
組んだ手に力をこめた。
*****
靄に包まれる早朝。
私は起き出して客室のドアを開ける。
階段を下りていけば、オルトンさんが、もうそこに立っている。
私を認めれば、右手を開いて先を示し、私は昨夜の執務室に急ぐ。
ドアを開けると、朝日に神々しい光を放つ金髪の伯爵さまが、唇に笑顔を浮かべ、こちらを見ていた。
「おはよう、ニコル」
「おはようございます」
「さあ、答えを聞こうか」
私はつばを飲み込む。
短く息を吐いて、真っ青な瞳をしっかりと見据えた。
「よろしく… …おねがいします」
そう言って頭を下げれば、伯爵が「賢い選択だ」と言った。
乗り心地は置いといても、自動車はやっぱりすごく早い。
目が回りそうでくらくらしていると、伯爵さまがきょろきょろすると気分が悪くなるぞと言う。
そこで今度はしっかりと前を見ていたんだけど、迫ってくる景色がぶつかりそうで何度も目を閉じた。
そうしている間に、自動車はあっという間にエインズワース邸へ到着したのだ。
玄関に乗りつけると、音を聞きつけたのかあちこちからお屋敷の人たちがばらばらと出てきて、そして伯爵さまを目にすると、皆一斉に一歩下がって頭を下げた。
そのなかでスチュワートさんだけがすっとこちらに歩いてくる。
私は自動車から転がるように降りて、スチュワートさんに駆け寄った。
「スチュワートさん!」
「ニコル!心配したよ」
「ごめんなさい、私… …」
「話はダスティンに聞いたよ。小さなお前に心配かけて私たちの方が悪かった」
「スチュワートさん… …!」
私の両肩におかれたスチュワート様の手が急にこわばった。
車から伯爵さまが降りてこられたのだ。
「朝から突然の訪問済まない」
「いえ!ご訪問いただきましてありがとうございます。マッケンジー伯爵様。ニコルがご無礼を」
そう言って、スチュワートさんは頭を下げる。
「いや、領民の声を聞くのが私の仕事だ。ニコルはニコルの仕事を、私は私の仕事を果たすまで。荷馬車の彼がちゃんと伝えてくれたようだな」
伯爵さまは風になびく黄金の髪を揺らし、振り返ってダスティンを見つけた。
お屋敷の人間の後ろからひょっこりとダスティンが顔を覗かす。
そして伯爵さまの前へ進み出て、片手をつき出す。
「伯爵様。あなたがすごく偉い人だとは知ってるけど、こういうものはもらえないから」
そう言ってさらに握りしめた手を前に出す。 伯爵さまは握られていたそれを片手で受け取ると、そのまま握ってズボンのポケットに落とした。
「では、その気持ちを買っておくよ」
にこりと笑みを浮かべる。
「屋敷の人間は今ここにいるだけか?」 「いえ、まだ奥様がお部屋にいらっしゃいます」
「奥様ね」
そう言って口の端を上げる。
「皆よく聞くんだ。エインズワース家は私の後見で必ずセドリックに継承させる。異論は許さないつもりだ。お前たちは先代と変わらず、セドリックに忠誠を誓い、今まで通りに働いてもらいたい。セドリックは体が弱いが、彼のその分は私が補おう。彼がエインズワース家を継承するに、どんな条件もいらない。ここに国王への書簡もある。今私が言ったことは全て国王の前でも宣言すると誓おう」
ぐるりとお屋敷の人たちに視線を流す伯爵さまを、皆呆けたように見つめた。
「異論はないな?」
「異論なんてそんなこと!!」
そう声を上げたのはコックの奥さんだった。そのまま崩れ落ちるように泣き出した。
皆が一様に涙を浮かべながら伯爵さまにお礼を口々に言う。
そんな光景を見ながら、私は、本当にこれでよかったのだと、確かにそう思った。
「ニコル」
隣に立つダスティンが、鼻をこすりながら言う。
「学校に早く戻れるといいな」
「… …そうね。ダスティン」
満足そうにその情景を見ていた伯爵さまがぱんと一つ手を打つ。
「さあ、皆に異論がないならこのまま吸血鬼退治だな」
そう言ってにやりと笑う。
「さて、吸血鬼の居場所を教えてくれるか、ニコル」
大股でお屋敷を進むその後姿は、小走りになっても追いつけない。
お屋敷の人たちが並ぶ玄関ホールを抜け、説明したとおりに階段を駆け上がり、私がようやっと登り始めた時には、もうすでに伯爵さまは部屋のドアを開けるところだった。
あまりの勢いに押されてスチュアートさんは出遅れたが、私と同じように伯爵さまを追った。
バンと大きな音を立てて、無遠慮に開かれたドアにアレクサンドラ様の悲鳴が聞こえた。
ドアの向こうに、あられもない格好をしたアレクサンドラ様とそのお客様が見えたかと思うと、スチュワートさんが私の腕を引き、その背に私を隠す。
そうして振り返ってこう言う。
「ニコル、お前は下にいなさい。ここからは大人の仕事だから」
いきなり開かれたドアの前に立っているのは、王都の美術館でもこれほどは無いような、この世の宝ともいうべき彫刻を、そのまま存在させたような精悍な男だ。
金色の髪は無造作に顔にかかり、簡易に来ているシャツからのぞく胸も腕もがっしりとたくましく、深い青色を湛えた瞳はあふれるほどの才気を放っていた。
突然の乱入者に驚きながらも、アレクサンドラは言葉も失うほど彼に見惚れたのだ。
伯爵は先ほどと同じ歩調でベッドへ近づくと、そのままどかりと腰を下ろした。
ベッドの上には、裸も同然のアレクサンドラとその連れと、そしてこの雰囲気にまったくそぐわないほど高貴な雰囲気をまとう伯爵。
その顔に、冷たい笑みを浮かべて伯爵は言う。
「さあ、言い訳を聞かせてもらおうか。アレクサンドラ」
突然名指しされて、さすがのアレクサンドラもびくりと体を震わせる。
「な、なんのことでございましょう。それより」
彼女はすっと息を吸い込むと、体勢を立て直すように背筋を伸ばした。
「あなた様こそ、人の寝室に突然乱入するとは、不躾にもほどがあります。エインズワースも、こんな人間を勝手に邸宅に引き入れるなど、取り潰しになっても仕方がありませんわね」
「やれやれ。お前たちは私が誰だか知らぬようだ」
射抜くような青い瞳がベッドの上の二人を一巡する。
凍るようなその空気に、茶色い髪の緑の目の男は、真っ青な顔をして今にも気を失いそうな始末である。
「私は、エインズワース家もとより、この一帯を拝領しているマッケンジーだ。聞いたこともないか?」
そう言って不敵な笑みを浮かべるから、男の方は「マッケンジー」と呟くと、もう呆然自失としてしまった。
「マッケンジー?」
アレクサンドラは小首をかしげる。このあたりを拝領している田舎貴族の、それがどうしたという態度だ。
「悪事を働くなら、もう少し賢くないとな。現国王の4番目の弟の名くらい、覚えておいても損は無い」
そう宣言すれば、その場の空気が一瞬にして圧縮されたように、アレクサンドラは口をはくはくと動かし、さすがの手の先も震えた。
「国王陛下の… …」
男の方は、瞬間立ち上がると、這うように逃げ出す。
ところが、バタバタと大きな足音が響き、ドアの前にはそろいの制服を着た屈強な男たちがあっという間に逃げ出した男を捕えてしまい、アレクサンドラが悲鳴を上げる。
「散々好き放題やってきたお前の事は、私はようく知っている。ありがたく思うんだな。けれど、この私の領地にまで手を出したとならもうただでは置けない。お前の悪事をどうやって暴いてやろうかと思ったが、どうで、ここまでの様だな。さてどんな罪状を付けてやるか」
青い顔をしながらも、アレクサンドラは胸を張って伯爵を見つめる。
「どんな罪も犯しておりませんわ、伯爵。愛する人が短命であったという不幸なだけでありましょう。不幸な女は罪でしょうか?」
「いくら先が短くとも、お前と結婚したならば驚くほど寿命が縮まるのはさてどうした事か」
「さあ、わたくしが美しすぎたからかもしれませんわね」
そう言って蠱惑的な笑みを浮かべた。
「セドリックは私の医者に見せている。王族お抱えのな。お前の専属医に任せていたらどうなるか。お前ならよくわかっているだろう?面白い罪状になりそうだ」
さすがのアレクサンドラも、その美しい顔から笑みを消す。
「いろいろご存じですのね」
「いろいろご存じだ。さあ、お迎えを待たせてはいけない」
伯爵が目で合図すると、警察がアレクサンドラを捕えて引きずるように連れて行った。
玄関前には、伯爵の車以外にも数台の黒い車が停まり、捕えられた彼らはそこにおしこめられる。
車に乗り込む前、後ろ手に縛られながら、この屋敷に来た時のように、アレクサンドラは屋敷と居並ぶ人間をぐるりと見渡す。
皆一様に目を伏せたが、その中で、一つだけこちらをしっかりと見る眼差しがあった。
「ニコル… …」
アレクサンドラの紅が剥げ落ちた唇がそう呟けば、そこからのぞいた真っ赤な舌が何かを言おうとした瞬間、伯爵の大きな体が視線の先に立つ。
ニコルは突然できた影を見上げる。
日の光を受けて輝く金色の髪が、ニコルの視界に現れた真っ黒な悪魔から彼女を隠した。
やがて、黒塗りの車は、土煙を上げながらエインズワースを後にした。
突然の出来事に、屋敷の人間はでくの坊のように立ち尽くしてしまう。
そこへ手を打って正気に返らせたのは執事のスチュワートだった。
「さあ!皆さん、セドリック様をお迎えする準備をしなくては!名実ともに我々の旦那様ですよ!」
そうして一同は、それぞれがやるべき仕事へ戻っていった。弾むように、軽い足取りで。
現にジョニーは本当にステップを踏んでいるくらいだ。
「伯爵様。この度は本当にいろいろとありがとうございました」
「気にすることはない。それより、セドリックだ」
「セドリック様ですか」
「あの女の主治医とやらに王都では体を見させていたようだが、どうも薬と称して少しずつ毒物をあたえられていたらしい。昨夜ニコルからこの話を聞いて、すぐに王都に残した私の家の者に調べさせた。昨夜から、セドリックは私の屋敷で休んでいる。それほどの量はまだ飲んでいないし、私の医者の話ではすぐに回復する見込みだそうだ」
「なんということを… …!!」
スチュワートはさすがに顔色を変えた。ニコルも蒼白でその場に立ち尽くす。
「なんにせよ、ニコルのおかげだ。よく頑張った」
そう言って、伯爵はニコルの肩に手を置く。
「彼が持っていった国王への書簡は私が訂正するし、お前たちはもう何も心配しないでセドリックが戻るのを待つがいい」
「伯爵様、朝早くからいろいろとありがとうございました。お茶のご用意もせずに失礼いたしました」
そう言って招こうとするが、伯爵は首を振る。
「いや、私はこのまますぐに王都へ立つよ。あの女の事もあるし、書簡も渡さねばならないし、なにしろ、お前たちのセドリックも早く帰してやりたいからな」
伯爵は来た時と同じような足取りでさっさと車に乗り込む。
「ニコル」
そう呼び掛けられて、ニコルは車に寄った。
「では行ってくる」
「ありがとうございました」
ニコルはこれ以上出来ないほど頭を下げた。
「いや、これは君の手柄だ。君が、人生をかけてこの家を守ったのだ」
伯爵は笑みを浮かべると、そのまま走り去っていった。
ニコルは自分の胸を片手で抑えながら、エインズワース邸を見上げた。
あちこちから、働く屋敷の人間の声や物音が聞こえる。
皆一様にうれしそうだ。
そして、スチュワートの笑みも深い。
私が、この家を守ったんだ。
彼女は心の中で、噛みしめるように呟いた。
*****
「セドリック様がお帰りになるぞ!」
弾んだ声がお屋敷に響いたのは、あの朝の出来事から1週間ほどたった頃だった。
お屋敷の電話が鳴って、もしやと小走りに電話へ駆け寄ったスチュワートさんが、息を弾ませながら話をする。
屋敷中の者たちが何となく周囲に集まり様子を伺った。
そのスチュワートさんがどんどん顔に笑みを広げるのを見て、電話はきっと良い知らせだろうと思ったのだ。
「こうしちゃいられない!セドリック様の好物を作らねば!!」
そう言って駆け出すコックに
「あんた、今から作ってどうするんだい!」
とその奥さんが大声で止めに入る。
1週間前から庭園を元の花園に戻す工事も急ピッチで進む。
花には罪は無いと言って、バラは苗木にして町の人たちに配った。
立派過ぎてうちのあばら家に合うかどうかと苦笑いを浮かべながらも、美しい花に町の人たちはうれしそうだった。
捨てるために納屋にしまってあった家具もあらかた元に戻し(ついでに修繕をし)ほとんどセドリック様がいらした時と同じお屋敷に戻った。
前より少しだけきれいになったお屋敷に、「毎日もっとちゃんと掃除しなくちゃだめだね」とエミーが笑う。
私は学校へ行けばいいと言われたけれど、お屋敷を元に戻す作業をしたいと言って、そうさせてもらった。
セドリック様が戻る前に、私は全てを元通りにしたいの。
セドリック様が毎日笑顔で暮らせるようなあの日々に、全てを戻して。
私がいなくなる前に。
セドリック様が戻られる前日。
私は夜の花園の前に立つ。
月の光が淡くあたりを照らす。
ニコル。
私はニコル。
エインズワースの花園で生まれたの。
けれど。
私は花園の前に座り、その土に触れる。
ここで生きた私の日々はもう終わる。
ニコルはこのお屋敷を守るという仕事を果たしたわ。
「さよなら、ニコル」
そう呟けば、風が言葉ごとさらっていった。
****
暑い季節は終わりを告げつつある。
正午でも日差しはもう以前ほど強くない。
お屋敷の皆はそれぞれの持ち場にいながらも、遠くに耳を澄ませていた。
聞きなれぬ機械の音がいつ聞こえてくるかと。
やがて風の唸りだと思っていたその音が、少しずつ近づいてくるものだから、皆一斉にお互いの顔を見てそして玄関へ走った。
唸るような音は玄関の前で止まる。
スチュワートさんがドアを開ければ、黄色い日差しがめいっぱい、お屋敷の中へ飛び込んでくる。
そして、その光の中で、淡い茶色の髪と澄んだ緑の目が揺れた。
「ただいま、みんな」
微笑むその人は、セドリック様。 お屋敷の人たちはみなセドリック様に駆け寄って、それぞれがお帰りなさいというし、半分泣いてるしで、何を言っているのかわからないくらいだ。
その人影に隠れるようにいた私をセドリック様は見つけると、まっすぐ私に手を伸ばす。
「ニコル、おいで」
かつてのように、私は呼ばれる。
「はい、セドリック様」
そして、いつもの日常のように、私はセドリック様に抱きしめられた。その肩は細く、腕も細く、見上げる顔は以前よりもやつれていた。
私は肉の落ちてしまった頬に手を伸ばす。
「セドリック様… …」
「ニコル」
セドリック様は頬に触れる私の手に手を重ねた。
「ありがとう、ニコル。ニコルがこの家を守ってくれたんだね」
「セドリック様… …!!」
思わずこぼれた涙を、セドリック様の細い指がぬぐった。
「さあ、中に入ったらいい。この屋敷はおまえのものだ、セドリック」
一部始終を自動車の脇から見ていた伯爵さまがそう言う。
「これは!伯爵様!失礼いたしました!!」
スチュワートさんが慌てふためいて、伯爵さまの元へ行く。
「いや、気にするな。それよりセドリックを休ませてやれ。とりあえず回復はしたが、これからもっとゆっくり静養せねばな」
皆が荷物を持ったり先導したりのお祭り騒ぎでセドリック様をお屋敷の中へ連れて行く。
「では、私はいくよ、セドリック。また連絡する。ニコル!」
呼び掛けられて私はふりむく。
「ニコルは連れていく。なかなか頭の回転は良いし、マッケンジーで働いてもらおう」
そう、当たり前のように屋敷に言う。
屋敷へ向かう一同がそろって足を止めて振り返る。
「皆さん、いろいろとありがとうございました。少しでも御恩を返せたなら、私もうれしいです。今まで本当にありがとうございました」
私は皆に頭を下げる。
「どういうことなの!ニコル!」
エミーが言う。
お屋敷の人たちが戸惑っている様子が見て取れる。
「マッケンジー様のところへ行きます。皆さんの事は忘れません」
そう言って、私は勝手口に置いておいた自分の荷物の入ったカバンを取って戻った。
「さあニコル」
伯爵さまが私の腰に手を回す。
最後に振り返ると、こちらを見る皆の中で、ただ一つ、見開かれた淡い緑の目と合った。
「さよなら、セドリック様」 唇だけでそう言う。
そしてもう二度と振り返らないと誓って、伯爵さまの手を取った。
車に乗り込もうとする二人を、屋敷の人たちはじっと動かずに見つめた。
「セドリック様」
執事のスチュワートが静かに言う。
「私は、あなたが生まれた時の事を一度でも忘れた事はありません。この小さな手に、いったいどれほどの未来を握っているのかと。19年たった今でも、忘れる事などありません。小さなあなたを、子爵様に抱かせてもらったあのぬくもりを、大きな緑の瞳が私を見て笑ったことを、何一つ、何一つ忘れていないのですよセドリック様。あの時から、私の願いは、ただあなたの幸せだけでした。それは今だって同じです」
そしてセドリックの肩に手を置いた。
「セドリック様。あなたの望むように生きてください。あなたの幸せだけを考えてください。そのためにはそれ以外の事はもう、もう考えなくていいのです。ここにいる人間は、皆同じ気持ちです。セドリック様」
セドリックは、そのきれいな瞳で、周りを見た。
皆は同じように頷いている。
「ありがとう… …」
それだけ言うと、セドリックは駆け出す。
今まさに、走り出そうとする車の前に飛び出し、セドリックは叫ぶ。
「ニコル!」
ニコルがセドリックを見る。
「ニコル!」
両手を広げて、セドリックは叫ぶ。
「ニコル!!」
ニコルの目から涙がボロボロと伝い落ちる。
はじかれた様に、車のドアを押した。
風が彼女の髪をさらう。
「ニコル、おいで」
そうして、ニコルは地面を蹴って、セドリックの胸に飛び込んだ。
*****
ほどなくしてエインズワース家は取り潰しになった。
エインズワースの領地は本家であるマッケンジーが接収した。
牧草地が広がる小さな町は、領主が変わっても平和で穏やかな暮らしが守られている。
エインズワース家に仕えていた者たちはそれぞれ、今は別の場所で暮らしている。
コックとその妻は、町で小さな食堂を開店させた。
時々見た事もない食材を扱った料理が供されて町の人たちを驚かし、また王都の人たちが立ち寄った際には、ここでこの料理が食べられるとは!とまた驚かした。
エインズワースの庭園は解放され、皆がピクニックを楽しむ場所となった。
ジョニーは王都の花屋で働いているという。
そして、ニコルとセドリック。
彼らは、マッケンジーの所有する、ここよりもさらに田舎の方の、湖の近くの別荘で二人で暮らしている。
ここで二人で暮らすうちに、セドリックの体調もずいぶんと良くなった。
心を悩ますものが何もなくなり、そして子爵として得るはずだった町の収入のなかの、エインズワース家の取り分もそのまま二人に届けられるから、暮らしに何の不安もなかった。
伯爵がそう取り計らったのだ。
伯爵家のお抱えの医者も往診してくれて、セドリックの体は以前よりもずいぶんとしっかりしてきた。
空気がよいのも良かったのかも、とニコルは思う。
湖を渡ってくる風はとても気持ちいいのだから。
エインズワースでいろんな雑事をこなしていたニコルは、二人だけになってみても、困る事が無かった。
料理も洗濯も、そこそこにできるようになっていたからだ。
あのころは大変だったけど、こうしてみると、無駄な事なんて人生にはないのね、とニコルは思う。
最近では体調の良いセドリックが洗濯を手伝ってくれたり、ジャガイモの皮むきもやってくれる。
二人で歌を歌ったり、湖の周辺を散歩したり、こうして二人は心穏やかな幸せな日々を送っている。
何よりセドリックがだんだん健康になっていくのがニコルにはうれしかった。
緑の瞳は今、光があふれるほど輝き、笑顔は絶えない。
「ニコル、おいで」
いつものようにセドリックはニコルを呼ぶ。
そしてその身を抱きしめながら言うのだ。
「僕は、幸せだ」と。
遠くから荷馬車が、毎月同じ日にかつてのエインズワース領から、手作りのチーズやセーターやそれからアリスの店の洋服なんかを運んでくれる。
アリスは今ではお店の看板娘になっていて、お母さんのように自らミシンを踏む。
出来上がった洋服は好評で、王都でも段々人気が出てきたという。
「アリスは、しばらく王都へ修行に行くらしいぞ」
変わらずぶっきらぼうな口調で荷馬車の彼は言う。
「そう!すごい!アリスの服は素敵だもんね。見てよ、これもアリスが作ったんだから」
そう言ってニコルはダスティンの前でくるっと回って見せた。
「へえ」
「へえって!反応がつまらない!」
「俺にそんなものわかるわけないし」
「まあそうね……」
二人で荷馬車に腰かけて、ひと月ぶりに町の話をする。
「そう言えばさ」
「なんだよ」
「ダスティンは結婚しないの?」
ぶはあっと、ニコルが手渡した水を盛大にダスティンは噴きだした。
「汚いなーもう」
「お前が変なこと言うからだろ!」
「変な事じゃないわよ。学校で一緒だった子だってもういろいろ結婚しているってあんたが言うのに、あんたの話はまるで出てこないから」
「うるせー、ほっとけ」
「お母さんを安心させてあげなくちゃ」
「余計なお世話だっつーの!」
そう言って、ダスティンはニコルの頭をぐりぐりとこぶしで押した。
「いたー!!ちょっと!何すんのよ!」
「うるせーな、俺にはあいつがいるからいいの!」
「ニコル… …?」
目線の先には今まで荷馬車を引いていた、馬のニコルがおいしそうに草を食んでいる。
「馬とは結婚できないわよ?」
真剣な目でニコルが言うから、ダスティンは「わかってるよ!」と叫ばざるを得ない。
「やあ、ダスティン」
「ああ!これはセドリック様!!」
恐縮して立ち上がるダスティンに、セドリックは笑いかける。
「僕はもう、領主でもなんでもない、ただのセドリックなんだから、そんな緊張しなくていいって言ってるのに」
セドリックはこの別邸に引っ越してからというもの、ニコルにも「様付」はやめてほしいと言った。
「ニコルがただのニコルのように、僕もただのセドリックだよ」
そう言って笑う。
最初は苦労したけれど、最近ようやくニコルも「セドリック」と呼べるようになった。とはいうものの、ダスティンにはそんなこと敷居が高すぎる。
「そう言えば」
セドリックはその緑の瞳をくるっと回して思案するように言う。
「この辺にはかなり大きなヒキガエルが住んでいるらしいよ、ダスティン」
そう、輝くような笑顔で言われてダスティンは息を止めた。
微妙な空気が流れるのを察知して、セドリックはダスティンに聞く。
「ダスティンはヒキガエルが好きだったよね?」
「勘弁してくださいよ!俺、一番苦手なのが、ひ、ひ、ひ、ヒキガエルなんです!!!」
ヒキガエルという言葉を出すのもつらいと言わんばかしに、ダスティンは顔色を変えた。
「え、だってニコルが」
そう言って、セドリックがニコルを見れば、彼女はすっと目をそらす。
「ニコル。君は学校でずいぶん優等生している話をしていたけど?」
「そんなことあるわけないじゃないですか!だってこいつ… …」
ダスティンが何かを言おうとするから。
「ちょっと!!やめて!!」 あわててそれを遮り「ヒキガエルぶつけるわよー!!」と逃げ出すダスティンを追いかける。
「なんか、どういう学校生活か、ちょっとわかるかも」
追いかけっこを続ける二人を眺めながら、セドリックは呟いて、また声も立てずに笑う。
「セド!!今笑ってるでしょ!!」
遠くから肩をゆするセドリックを見つけてニコルは叫ぶ。
「笑ってないよ、笑ってない」
「笑ってないって言葉がすでに笑ってる!!」
こんな風に、二人で暮らす日々は過ぎていった。
セドリックが35歳でこの世を去る、その時まで。
私の名前はニコル。本当は私が誰なのか、私も知らない。母の事も父の事も知らない。そして本当は、ニコルでもない。けれどただ一つだけわかることがある。それは、私が、セドリックと出会うことができて、とても幸せだということ。
「ニコル!ニコル!」 「はーい!!」
そしてまた、新しい朝が始まる。