カドニイル
あれは、仕事で少々トラブルった日のことです。
帰り時間がだいぶ遅くなってしまい、人の気配のない会社の廊下をカバン片手に一人で歩いていました。
いくつかのテナントが入った五階建て雑居ビルの最上階で、つきあたりにはエレベーターの扉がひとつあります。
私が、その数歩手前まで来たとき。
──チィーン。
エレベータの到着を知らせる音が、静かなフロアにやたらとよく響いたのを覚えています。それから扉が、今度は音もなくゆっくりと開きました。
この時間にうちのフロアに来るのは、清掃員さんか警備員さんだろうか? とにかく良いタイミング。
用具をどこかにぶつけたのか、中から「ゴン」と小さな音が聞こえました。
私はすこし左手に避けて「おつかれさまです」を言おうと待ちかまえていたのですが……。
いつになっても、誰も出てこないのです。
それどころか、中からまったく人の気配がしない。このままでは、せっかく来たエレベーターが行ってしまうと思い、慌てて中に乗り込みました。ほとんど同時に、扉は背後で音もなく閉じます。
右手側に並んだボタンから、1階を押しました。
きっと誰かが間違えて5階を押して、途中で目的の階に降りたのでしょう。
そう思うことにした瞬間、また「ゴン」と音が聞こえました。驚いて目を向けた、エレベーターの左奥の角。
──そこに、人がいたのです。
心臓がはねあがりました。声はぎりぎり抑えた、つもりだけど、すこし漏れていたかも。
ちょうど私から対角線上に位置する、左奥の角。
そこに頭を押し付けるように、こちらに背を向けて、「彼女」は立っていました。
その背中には、長い長い、ところどころほつれた黒髪が流れて、腰辺りまであります。
服装は長袖で、くるぶしまで丈のある白っぽい──病院で検査を受けるときのガウンのようなあれを着ていて、その下からのぞく足元は裸足です。
青白い足首は木の枝みたいに細くて、簡単に折れてしまいそうでした。
私は霊感とかまったくない人間なので、そういう霊的なものを見たこともありません。そこにいるのが霊なのか人間なのか、そんなのはどっちでもよくて、ただただ怖かった。
でも、騒いで気付かれるのもまずいような気がして、そのままエレベーターが一階に着くのを待つことにしました。
五階から一階なんて、一瞬のはずだけど、体感三分は待ったような気がします。
──チィーン。
ようやく、一階への到着を知らせる音が鳴りました。扉が音もなく開いて、同時にエレベーター内に響いた「ゴン」という音と振動は、「彼女」が角に頭をねじ込むように打ちつける音でした。
私はほとんど倒れ込むような勢いで、外に飛び出しました。がくがくと震えてもつれそうな足で、必死に廊下を走りながら、気付いたんです。
ここが1階じゃなくて、5階だと。
──チィーン。
響く音に、おそるおそる振り向くと、開いた扉の向こう、エレベーターの中に「彼女」はいない──ように、見えました。
でも、もう絶対に乗りたくはない。エレベータのすぐ横にある鉄整の扉をあけて、階段で1階まで降りることにしました。
震える足が踏み外さないように、手すりにすがって駆け下ります。カバンをどこかで落としたようだけど、もう気にしてられません。
そしてようやく二階から一階にたどりつく、直前の踊り場まで来たときでした。
──居たんです。踊り場の左奥の角に、こちらに背を向けた「彼女」が。
でも、私はもうそんなものは視界に入れないことにして、その背後を通り抜け、一階への階段に急ぎました。
そのとき、ふわりと体が浮かぶような感覚がして、つづいて後頭部に硬いものが思い切り叩き付けられ──私はそのまま、意識を失っていました。
目が覚めたとき、私は病院のベッドの上にいました。
階段の降り口で気を失っていた私を見つけて、救急車を呼んでくれたのは、警備員さんだったとのこと。
足を踏み外して階段に後頭部を強打し、脳震盪を起こしてしまったらしい。
これから精密検査になるけれど、おそらくは外傷だけで済んでいるだろうという看護士さんのお話を聞き流しながら。
私は病室の角、窓際にまとめられたカーテンの下からのぞく青白い足首を、ぼーっと見つめていました。
これが、三年前に私が体験したことです。
けっきょく、看護士さんの言う通り怪我は大したことなくて、すぐ退院できました。私が階段から自分で足を踏み外したのか、それとも「彼女」に押されたのか、それはわからないけど、もうどちらでもいいと思っています。
いなかったのは「彼女」を無視してしまったこと。存在を受け入れたら、それから何も悪いことはありませんでした。
あのあと色々調べたのですが、なんでも部屋の角というのは、ホコリと同じように良くない霊が溜まりやすい場所なのだとか。
特にあのエレベーターの左奥は、建物の南西──陰陽道において裏鬼門と呼ばれ、邪気の通り道とされる不吉な方角だったようです。
基本的に、部屋の入口から向かって左手の角はできるだけ見ないこと。これをおすすめしておきます。
そこにはだいたい良くないものが溜まっていて、時と場合によっては、霊感の弱い人でも「見えて」しまう。
音でこちらの気を引こうとすることもあります。
そうして、こちらが「見えてしまった」ことを確認すると、彼らはずうっと付きまとってきますからね。
──ええ。「彼女」は今も、そこの角にいますよ。
ところで、あなたの部屋の角は大丈夫?