粗悪な扱い
決して安請け合いした訳では無い。今の潜水艦に任官して10年。本山はエリートの中では中の上に位置するであろう順調な出世を果たし、プライベートでは二人の子宝に恵まれていて、不幸だと思った事は一度もない。
しかし、いつ死んでもおかしくない状況である対米戦争が起きた今、その戦況を馬鹿な国民の様には喜べなかったのである。
この頃の潜水艦のテクノロジーと言うものは、現代の潜水艦よりも遥かに雑で粗悪なものであり、昭和の潜水艦乗組員の劣悪な環境を本山は誰よりも知っていた。大日本帝国海軍の中で、艦名を与えられない屈辱に耐えながら、それでも必死の想いでここまでやって来た。
伊呂波に分けられた潜水艦乗組員として、粗悪な存在に命をかけて戦う事の意味を、本山は大本営に直接聞いてみたかった。
パールハーバー作戦では、甲標的と呼ばれる小型の潜水艇5機10人が出撃し、米軍捕虜になった1人を除いて、他9人が行方不明(戦死扱い)になった。"九死に一生はあっても十死零生の作戦"は無い。当時の連合艦隊司令長官山本五十六はそう語っている。
「なぁ、モト?パールハーバー作戦は成功したんだよな?」
「いや、ありゃあ失敗だ。米国太平洋艦隊の空母を一隻もやっつけてねぇ。タニ、そろそろ、俺達にも声がかかるだろうから、いつでも出撃出来る様にしておいてくれ。」
「了解。」
そう言うと谷山少佐は戦闘指揮所に戻っていった。米国と言う強大な国家に対して大日本帝国は余りにもかけ離れた、弱い戦力しか持っていない事を本山は悟っていた。脆弱なのは潜水艦隊も同じ事である。
だが、もし仮に細山武の言う政府開発の最新鋭潜水艦なる兵器が完成した暁には、その脆弱さを持ってしても、余り得る強大な戦力に成りうるかもしれない。と、本山は思った。その兵器のスペックを本山は知る為、また細山に会おうと思い、行動を移した。