猫の毛、蛇の目、人の爪先
愛想だけはよかったと思う。私が好きな人に告白する勇気が出なかった時もはげましてくれた。後から、自分の狙っている人が私に気があってそれを片付けたかっただけだったと知ったけど。
甘ったるい声だった。自分の魅力を初めて知りだした子どもを思わせた。いつもスカートを巻いていて、開きっぱなしのピアス穴を隠すためか、いつも耳はパーマのかかった髪に隠れていた。
「いいじゃない。友達でしょ?」
不満を持っても、そう言って流されてしまった。
今なら「友達なのにそんなことをするの」と言えるけれど、中学生の私には言えなかった。私には彼女しか友達がいなかった。そして私は、彼女に見捨てられたらすっかり孤独になってしまうのだと思い切ってしまっていたのだ。だから私は彼女から離れられなかった。
彼女がいなければ孤独になってしまうというのが勘違いだったのは高校に入ってすぐに気づいたことだけど、中学生の私にとってはその勘違いが頑丈な檻だった。
小学校の頃の友達から縁を切られてしまったことも、私のその思いを強くさせていた。
「あの子は、本当じゃないレイカを見て友達だって言っていただけだったんだよ。友情も絆も最初からなくって、レイカは何も失くしていないの」
彼女はそう言った。中学生の私にその言葉はとても分かりやすい答えになった。
小学校の時に仲良くしてた女子はるみという名前だった。いつもうつむいて髪はぼさぼさ、少し昔の海外の音楽を聞きながら「皆、センスないんんだ。はやりに流されちゃって」と悪態を吐いていた。長くてぼさぼさの髪といつもうつむいているところ、他の友達がいないこと、そんな共通点が私達を仲良くさせたんだと思う。
本当は私はテレビから流れてくるようなはやりの日本語の歌が好きだったし、海外の歌はよく分からなくて好きじゃなかった。わざわざ自分にはわからない言葉で歌われているところが癇に障った。
それでもるみの褒めたたえる歌を自分も好きなようなフリをしていたら、るみは私のことを「親友」とか「唯一の理解者」とか言った。そう呼ばれることは心地よかったし、それが友達というものなんだと思っていた。
るみは時折私の顔を見ては、「顔はいいのにね、もったいない」というようなことを言った。私はそんなことはないだろうと思ったし、そう言ってるみの言葉を否定したけど、るみは私にもったいないと言い続けた。それですっかりいい気になって、思い上がってしまった私は春休みにるみに内緒でイメージチェンジをした。
ぼさぼさだった髪をまっすぐになるように切って、整骨院に行ったりストレッチをしたりして猫背を直した。手鏡も買った。可愛い櫛も探した。そして貯めこんでいたお小遣いをはたいて、めいっぱい可愛いと思うお洋服を買った。
私は一番かわいいと思う姿で中学校の入学式に向かった。
「西小の子? よろしく俺は――」
「――はさ、ねえ、聞いてる?」
「……でさ、同じクラ――」
「名前、なんていうの?」
「僕は、――」
人生で一番、人から話しかけれらた。ほとんどが男子だった。私はどうすればいいか分からなかった。ネズミの巣に放り込まれたチーズの気分だった。友達である話し慣れたるみから「ほら、やっぱりれいかはかわいい」と言われたらいいななんて、そんなほんのちょっと背伸びしたことを考えていただけだったから。
私はただ恐くって、人の森の中でるみを探した。
るみは「天使は本当はただの羽が生えた人間なんだ」と言われたような、ぽかんとした表情でつっ立っていた。私はるみにどれだけるみを探したか、春休みの間に可愛くなるためにどれほどのことをしたか、舌が回らなくなってしまうくらいにまくし立てた。るみから「かわいいね」って「やっぱりれいかはかわいいね」って言ってほしくて、訳が分からなくなるくらいにまくし立てた。
「ど、どう……かな。私」
私は恐い人の森の中で友達のるみを見つけて上気していた。走ってもいないのに少し息が上がっていた。そんな私にるみは「う、うん……」と気まずそうにそれだけ言った。
るみは私に背中を向けて、それきり前のように話すことはなかった。
その日私は、初めて「もったいない」という言葉に「そのままがいい」という意味があることを知った。
そうして友達が誰もいなくなった私に、皆が少しだけずつ距離を取る中で一人だけ話しかけてきてくれた女の子がいた。それが彼女だった。
彼女は私に教えてくれた。
「入学式の日、男子から話しかけれらるのをみんなあしらっちゃったでしょ。それで皆から高嶺の花だって思われちゃったんだよ。皆、易々と話しかけちゃいけないんだってうわさしてるよ」
でも、そのうわさを流したのは彼女自身だった。高嶺の花を落としたのだという箔が欲しかったからだろう。その箔を独り占めするためでもあったんだろう。
そんなことを知る由もなかった中学一年生の私には、冗談抜きで彼女のことが一筋の光に見えた。何より彼女は私のことをかわいいと言ってくれたのだ。私の心はかわいいと言ってくれなかったるみからかわいいと言ってくれる彼女の方へと移っていった。
中学一年生の私には、それがいいだけの意味じゃないと分からなかったのだ。
不細工は恥ずかしいことだと思っていた。私が小さい頃に母がよく、「私たちが不細工だからお父さんに選んでもらえなかったの」と言っていたからだ。小さい私は自分が不細工で恥ずかしいものなのだと思い込んで、うつむいて誰にも顔を見られないようにしはじめた。すると誰からも話しかけられなくなった。私はますます、自分は不細工でそれが悪いのだという思いを強くした。だから私には不細工の逆であるかわいいに悪いことがあるだなんて思ってもなかったのだ。
かわいくなれた入学式の日こそが恐ろしい日になったのだから、そのくらい分かってもよかったはずなのに。
中学校にいる間、私は彼女の見目が良い道具だった。友達とは言えない。釣り餌にも盾にも箔をつけるのにも使える便利な道具だった。今の私にならそれが分かる。でも彼女はその関係のことを友達と呼んで、中学生の私にはそれを飲み込むことしかできなかった。
三年生の終わり頃になると状況は少しだけ変わっていった。
彼氏から性的なことを求められて関係を壊すことしかできなかった私を尻目に私のことを好きだった男子とうまくやっている彼女とは、次第に疎遠になっていったのだ。
気付くと、彼女とは違う高校に行っていた。
卒業してからは、元気でねよろしくねと言い交わす程度の連絡をしてそれきりだった。
私は息を吐く。細く、長く、重く。
まるで彼女との関係みたいだったなと思う。吐き切ってしまえばそれきりなところまで。
「……あーちゃんか」
彼女の名前を口にしてもひどく馴染みのないもののように感じられた。私はスマートフォンの画面へ目線を戻す。連絡先の整理をしていたら彼女の名前を見つけてしまったのだった。色々と思い出してしまった。
私が画面をタップすると警告ウィンドウが出る。
『本当に連絡先を削除しますか』
本当に、と無機物に問われる。
私は「はい」を押そうとして、最後にもうひとつ彼女のことを思い出した。彼女はとてもやさしく手を握ってくれるのだった。彼女の指先が絡められるとどこか安心したのを憶えている。
彼女は、猫の毛を被って蛇のギラついた目をしても、爪先だけは人間だったのかななんて、そんなことを思った。