水色狐
それは、今から遠い遠い、遥か昔々のお話。
名前もないようなとある山に、一匹の子狐がおりました。
その子狐は、頭のてっぺんから足のつま先まで、世にも珍しい水色の体毛をしており、その見た目から『水色狐』と呼ばれておりました。
しかし、その見た目ゆえに仲間からは気味悪がられ、水色狐はいつも一匹ぽっち。
まだ小さい子狐であるために満足に餌も得られず、水色狐はいつもお腹を空かせておりました。
そして、水色狐に降りかかる受難はそればかりではありません。
山に狩りをしに来た猟師が、偶然その水色の姿を目にしたのです。これを仕留め、市に売ればかなりの値が付くはず。
そう考えた猟師は、来る日も来る日も水色狐を狙い続けました。時に罠を仕掛け、時に矢を射掛け。
その場はなんとか逃げおおせ、水色狐が猟師に捕まることはありませんでしたが、山を下りた猟師が時の領主にその存在を報告し、瞬く間に水色狐の存在は人々に知れ渡ることとなりました。
朝の空のように美しいその水色の毛は、とても染色してできるような代物ではありません。
まさに、自然の神秘。たとえそれが、ただの突然変異であったとしても、人々は何か意味を見出してしまうものなのです。
水色狐について、尾ひれのついた噂が途切れることはありませんでした。
曰く、その毛並みには純金に勝る価値がある。
曰く、その狐の体液はあらゆる万病を癒す。
曰く、曰く、曰く――。根も葉もない噂でしたが、時の領主が水色狐の生け捕りの御触れを出したことにより、その噂の信憑性が増してしまったのです。
その結果、大勢の人間による大規模な山狩りが行われ、水色狐の居場所は日に日に失われていきました。
どこに逃げても、どこに隠れても、必ず誰かに見つかってしまう。
その度に追い立てられ、体は傷つき、美しかった毛並みも次第にボロボロになっていきました。
ろくに餌も得られず、疲弊し、衰弱していく身体。仲間も頼れず、水色狐は今も一匹ぽっちのまま。
ボロボロの身体を引きずりながら、水色狐はある朽ちた社に辿り着きました。
名も信仰も失い、風化してただ朽ちるのを待つだけのその社は、水色狐にとって絶好の隠れ家。
なんとかして屋内に入ろうと、その身体を動かそうとしましたが、とっくに限界を迎えていた身体は言うことを聞きません。
次第に、水色狐の意識は薄れていきました。
ただの子狐が思うのは、どうして自分はこんな毛色なのか、どうして自分ばかりがこんな目に遭うのか。
悲しみに暮れながら、力尽きたようにゆっくりと水色狐の瞼は閉じていきました。どうしようもない、深い絶望と共に。
しかし、水色狐は耳にしました。その朽ちた社に上がって来る、一つの足音を。
その足音の正体は、まだまだ顔立ちに幼さの残る、7歳や8歳といったくらいの年齢の、一人の少年でした。
その少年は水色狐の姿を見るや否や、慌てた様子でそばに駆け寄り、何を思ったのか小さな手を差し伸べました。
霞む視界の中、水色狐はぼんやりとしたまま、その手を見つめました。悪意も欲望も感じられない、純粋な善意。
しかし、ただの子狐が、その差し出された手を取れるはずもありません。出された手の意味も解らず、どうしてよいのかも、水色狐にはわかりませんでした。
なら、とその少年の顔を見ようとしましたが、遂に限界が訪れたのか、少年が呼び掛ける中、水色狐の意識はそこで途切れてしまいました。
*
次に水色狐が目を覚ました時、そこは石畳の上ではなく、社の中のようでした。ある程度は体力も回復したものの、それでも身体は痛むままで、満足に動かせそうもありません。
しばらくぼーっとしていると、ふと人影が見えることに気が付きました。慌てて身構えましたが、それが先ほどの少年だと気が付くと、自然と警戒も薄れていきました。
少年の両手には、社にあったと思われる柄杓と、一匹の魚が握られておりました。柄杓にはたっぷりと水が汲まれており、少年はそれを、水色狐の前にすっと差し出しました。
初めは、何をしているんだろうとそれを不思議に思っていた水色狐でしたが、やがて飲み水を持ってきてくれたのだと気づき、柄杓に汲まれた水をちろちろと舐めるように飲み始めました。
疲れ切った体に、染み入るように入って来る水。
水を飲む度に傷が癒えていくようで、気が付いたころにはすっかり飲み干しておりました。
続いて差し出されたのは、一匹の大きな川魚。
程よく脂の乗った、まさしく食べごろといったそれは、空腹な水色狐の食欲をそそるには十分すぎるというもの。
少年の手を離れ、自身の目の前に置かれた直後、飛び掛かるように水色狐はその川魚にかぶりつきました。
もりもり、ぼりぼり。今までろくに餌も得られなかった反動からか、自分でも驚くほどの食欲が、水色狐の中にはありました。
その結果、川魚は瞬く間に水色狐の体内に消えていってしまい、まだまだ食べ足りない様子の水色狐は、誰から見てもわかるような、悲しみの表情を浮かべておりました。
その悲しみを見た少年は、にっと笑みを浮かべ、またどこかへと行ってしまいました。
そして帰ってきたと思ったら、そこには籠いっぱいの川魚が。
近くに川でもあるのでしょうか。少年はその籠を床に下ろし、獲れたての川魚を一匹ずつ水色狐に手渡しました。
その手渡された川魚を、水色狐は喜色満面といった様子で、どんどんと平らげていきました。
果たして、お腹いっぱいになるまで川魚を食べたことなど、今の今まであったでしょうか。
夢中になって川魚を頬張る最中、ふと水色狐は気が付きました。川魚を手渡してくれる少年の両手が、痛々しいほどに傷だらけだったことに。
初めてその傷に気が付いた時、水色狐は誤って少年の手を齧ってしまったのかとあたふたしました。しかし、どうやらそうではないようです。
考えてみれば、少年は川魚を捕まえるような道具を、何一つとして持ってはいませんでした。ならどうやって川魚を獲っていたのかと言えば、それはやはり手掴みに他ありません。
ただでさえ動きが早く、水中にいる川魚を捕まえるのはそう容易ではないはず。事実、少年はこの量の川魚を獲るために、その両手を傷だらけにしたのです。
そのことに遅まきながらに気が付いた水色狐は、いたたまれなさやら、申し訳なさやらで胸がいっぱいになりました。
悲しそうに俯く水色狐に、しかし少年はその顔に浮かべた笑みを崩さないまま、ポンポンと頭を撫でました。なんだかくすぐったいその感触に、水色狐は思わず身じろぎをしてしまいます。
優しく温かい、その小さな手。誰からも貰うことの出来なかった、そこにある確かな愛情に、子狐はどこか安らぎを覚えました。
求めても叶わず、突き放され、見捨てられ。大勢の人間に追われる中、遂に仲間が水色狐を助けることはありませんでした。
巻き込まれてはたまらないと判断したのか、それとも水色狐など初めから仲間だとも思っていなかったのか、今となっては確認する術もありません。
それでも、いえ、だからこそでしょう。水色狐が、今この時の幸せを、噛みしめるように味わっていたのは。
*
それからしばらくは、水色狐と少年は共に過ごしておりました。歩けるくらいには体力も回復し、共に魚を獲ることもしばしばです。
不思議なことに、その朽ちた社には、あれほど大勢いた人間達は近寄ってすら来ませんでした。
まるで、山に迷わされているかのように、社とは正反対の方向へと誘われているのです。それは、この社の神の計らいなのか、それとも何かしらの自然現象なのか、はたまた……。
確かなことは一つだけ。それは、水色狐は今、幸せに満ちた時間を過ごしているということです。
誰かと時間を分かち合い、共に過ごし、共に食べ、共に眠る。こんな何気ないことが、しかしずっと一匹ぽっちだった子狐には、何よりも代えがたいものでした。
……ですが、しかし。
儚いことに、その幸せは長くは続きませんでした。
至極、単純な話です。追われ、逃げ続けた水色狐の身体は、とっくに限界を迎えていたのです。
表面上、体力が回復したようには見えましたが、結局それは上辺だけ。水色狐に残された時間は、もうほんの僅かしかなかったのです。
水色狐は……、子狐は、それがわかっていたのでしょう。自分の死期は、もうすぐだと。
その日、水色狐と少年は、社の縁側で日向ぼっこをしておりました。暖かな陽気に、頬を撫でる柔らかな風。
まさに、絶好の日向ぼっこ日和。気を抜けばすぐに寝入ってしまいそうな陽気の中、水色狐はちょこんと少年の膝の上に座りました。
ここは、水色狐の定位置。日向ぼっこをするときは、いつもきまってここに来るのです。
少年は、気持ちよさそうにしている子狐の頭を、ポンポンといつものように優しく撫でました。
これが彼らの、お昼時のいつもの光景です。
……けれど、その幸せな時間ももう終わりの時。
この一週間ほどの日々は、水色狐にとって、本当にかけがえのないものでした。今までの苦しみが吹っ飛んでいくかのような、それはそれは幸せな日々でした。
穏やかな陽気に誘われるように、安らかな眠気が水色狐を満たしていきます。眠りにつく前に、少年の顔を見ようと、水色狐は顔を上げました。
水色狐が見上げる少年の顔には、いつもと同じ笑顔が浮かんでいます。その笑顔を見た水色狐は、安心したように、今度こそ瞼を閉じていきました。
やがて、水色狐は眠りにつきました。穏やかで、暖かくて、何よりも安らかな、その永い眠りに。
……眠りにつく前に、ぽつんと頬に感じた冷たい感触。それが何だったのか、水色狐には最期までわかりませんでした。
*
……少年は、水色狐が安心して眠れるように、ずっと笑みを浮かべていました。辛くても、悲しくても。笑って送ってやりたいと、そう思ったからです。
ぐしぐしと顔をぬぐい、少年は水色狐を抱えたまま立ち上がりました。悲しむばかりではいられない、と己に言い聞かせながら。
社を離れ、森を抜け、少年はある見晴らしのいい丘にやってきました。水色狐と共に見つけた、彼らのお気に入りの場所です。
少年はいったん水色狐の身体を下ろし、せっせと丘の土を掘り返しました。
十分な深さになったところで、水色狐の身体をその穴の中に横たえました。そして上から土をかぶせていき、その穴を完全に埋め、木の棒を土の上にさしました。
そこに、水色狐が確かにいたという証を、残すために。
水色狐のための墓を用意し終えた少年は、社に戻ろうと踵を返し、そしてはっと振り返りました。
そういえば、と思い出したのです。まだ水色狐に、ちゃんとした名前を付けていなかったことに。
どんな名前がいいかとしばらく迷った後、少年はいい名前を思いついた、という表情で、木の棒に尖った石で、水色狐のための名前を刻みました。
そして、今度こそやるべきことは終わり、少年は社へと戻っていきました。
――丘に残るのは、少年が水色狐のために用意したお墓だけ。
*
それからしばらく経った、とある日のこと。
ある旅人がこの丘を訪れ、長い年月が経ったであろう、誰かのためのお墓を発見しました。
――そこ刻まれた文字は、風化し掠れて、読むことは出来なかったそうな。




