後編
日が完全に落ちる前に、鬼は小屋に戻り灯りをともした。
狐を静かに下ろして、椀に水を入れてやった。喉が渇いていたのか、勢いよく飲み始める。
鬼は慣れた手つきで囲炉裏に火をくべ、鉤に吊るした鍋で湯を沸かす。
「餅を焼くか?」
言ったそばから、鬼は火箸を器用に使って餅を灰に入れていく。
え?という声が聞こえたと思ったら、先ほどまで狐がいたところに、姫が座っていた。
「灰に入れるんですか?」
「美味いぞ」
鬼は八重歯を見せて笑い、姫も耳をぱたぱたとさせて身を乗り出し、囲炉裏の中を、そして手際よく作業をする鬼をみる。瓢箪から酒を飲みながら上機嫌で話す鬼の姿は、一緒に暮らしてから毎日見ていても飽きないのだ。
「おかえり」
目を細め、鬼は姫を見た。
姫は、座ったままゆっくりと鬼ににじりより、そのまま止まる。
「なんで尾の数を変えているのにわかったんですか?里の者にもほとんど気づかれないのに…」
「わからないと思った?」
「…わかると思ってましたけど…」
そこまで姫が言い、二人で揃って笑いだした。
「俺が怖い?」
ふるふる、と姫は首を振る。耳と尾も一緒にゆれるのがなんとも可愛くて鬼は笑った。
「じゃあ、妬いてんの?」
「…わかりません」
「ん?」
鬼は沸いた湯に野菜をいれたり、火箸で灰をつついたりしながら、優しく相づちをうつ。
ええと、と姫は言葉を選びながらゆっくりと話し出した。
「里にいたときから父や他の者にとても大事にしてもらって。力も弱いけど構わない、と、元気で、そばにいたらいい、と。それは母がもういないせいもあるかと思ってました…でも」
うん、と鬼は頷く。
最初に人の姿で沢山のお伴に守られるようにしてきた姫はとても可愛くて、愛情を受けて育ったのがよくわかった。
「同じ一族でもないのに、あなたにもそう言われて…それで良いのかなって。何かしたいけど、何をしたらいいかわからないんです。そして頭は固くなると体も強張って…」
声の調子が落ちるのにつれ、耳が垂れる。
「そもそも、胸は無いからそちらはご希望に添えないかなと思って…」
「あ、いやそれはもう諦めたから…」
ぴかりと、室内なのに稲光が見え、鬼は動きを止める。宥めたつもりだったが、微妙に癇に障ったようだ。
「…鬼殿は、私に一番何をおのぞみですか?」
姫が、伏し目がちで静かに話す。小柄で垂れ目、童顔だが、妙に色っぽいのは九尾の娘だからか、それとも九尾の心を射止めた母譲りか。
知らず、鬼は生唾を飲み込む。
「…姫」
突然、口を塞がれた。姫が抱きつき、口づけてきたのだ。
小柄な姫が飛び乗ってきたので、鬼は勢いあまってそのまま倒れるが、その胸元に姫の手が押し付けられる。
「姫…」
「おにどの…」
姫は妖艶な笑みを浮かべ、潤んだ瞳で鬼を見下ろし、舌で自分の唇を舐める。その手に、力がこもるのがわかった。
「姫…俺は獲物じゃないぞ…」
平常心を保とうとしながらも無防備にはだけた姫の襟元を見て、鬼が、やっぱり胸がないななどと思っていると、ぱたりと姫は鬼の上に倒れた。
すぐに子供のような寝息が聞こえてくる。鬼は手を伸ばし、先ほど姫に出してやった椀を持つと、中身は空だが、かすかに酒の匂いがした。鬼は、囲炉裏端に置いた瓢箪を見る。
「…飲んだのか。酒に弱いのは知らなかった…」
あー、と鬼は寝てる姫の下で身動きできないまま、小さく叫んだ。
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餅は結局、翌朝汁に入れ直して雑煮にした。
毎度のことながら、酒を飲まなくても鬼は上機嫌で支度をしている。二人ぶんを椀によそい、揃って食べる。
食べ終わったとき、遠くで烏の鳴き声が聞こえた。
「あの…」
「ん?」
姫が、遠慮がちに鬼に聞いた。
「ゆうべ私…何かしましたか?」
ん、と茶を飲みながら鬼は答える。
「酔っ払って押し倒してきた」
「…」
結局そのまま囲炉裏端で寝たらしく、姫は起きたら大の字になった鬼の真上に丸まって寝ていたのだ。さすがに体を動かせなくて凝ったのか、鬼は首に手をやり2、3度頭を回す。
「…やり直していい?」
「え、その…」
姫は真っ赤になり口ごもっているが、鬼は座ったまま、ずいっと一歩進み、顔を寄せた。すでに目が据わっている。
「どこまで…覚えてる?」
「えーと…」
照れ笑いをしながら顔を逸らそうとした姫の顎に、鬼は指を添え軽く自分の方を向かせ、その小さな唇を親指でなぞった。
「これは?」
「…ちょっとだけ…」
姫の言葉が終わらないうちに、鬼は唇を重ねようとし、姫は慌てて押し退けた。
「待っ、て、下さい…!」
「散々待ったぞ。なあ、もういいよな、な?」
子どもの駄々のように、鬼は姫に詰め寄る。姫はたまらず狐に姿を変えて逃げようとしたが、戸口に差し掛かった時に無防備に抱き上げられてしまった。
「ちょっとあんた。姫に何してんのよ」
その豊満な胸に狐、もとい姫を抱いて鬼にすごむのは、烏天狗だ。天狗は決まり悪そうな顔で、そのまま室内に上がってきた。
「何って…いいじゃねえか、夫婦なんだし…」
鬼がぶつぶつ言っていると、姫がまた人型に戻る。しかし、何か様子がおかしい。
「姫?喋れる?顔がすごく赤いし、鬼に無理矢理襲われて怖かったんじゃない?」
烏天狗が真剣に心配するくらい、姫は赤面して動揺しているようだ。なおも烏天狗は姫を胸元に抱いて、子どもにするように頭や耳を撫でている。
男二人は、すでに囲炉裏端に胡座をかいて寛ぎ、茶を飲みながら女性二人を遠巻きに見て呟いた。
「あれは…あの膨らみは、女も虜にするのか。いいよな、あれ…」
「だよなあ。姫の母親も平らだったからな…色々衝撃を受けてるのは容易に想像できるな」
姫は、烏天狗の顔と、胸と、自分の胸を見て頬をふくらませている。
「餅みたいだな」
「胸も餅みたいに膨らめばなあ…」
そういえば、と、鬼は天狗を見た。
「おまえ、やきもち焼かないよな?」
「なんの話だ?」
烏天狗は姫をやっと解放して、一緒に中にあがる。姫が新妻らしくもてなそうとしている様子が、なんとも可愛らしい。
天狗たちが持ってきた茶菓子を広げながら、4人は囲炉裏を囲むように座った。
「最近はさ、ねえさんが大天狗様を好きだって言っても、お前と比べたりしても、妬かないだろ?昔は結構焦ってたのに」
烏天狗が思わず茶を吹き出しそうになる。しかし天狗は顔色一つ変えない。
「ああ、それか…。それこそ10年経つわけだからなあ…。もともと一族の長は慕われて当然なわけだし、俺の親だし…」
天狗は顎に手をやる。
「今、ねえさんは俺といるのが一番幸せだろ?わかってるのに何を妬くんだよ」
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天狗たちは、茶を飲むと早々と帰っていった。空を、大天狗の使いである烏が旋回している。
「母さんの居場所がわかったから迎えに行くんだとさ」
親が夫婦喧嘩の間に仕事を押し付けられるなんてなあ、と、天狗は面倒くさそうに戻っていった。
さっと羽根を広げ飛ぼうとした天狗だったが、その手を烏天狗が握る。
「なんだよ…」
「歩いて帰る」
遅れるけどなあ、とぶつぶつ言いながらも、二人は手を繋ぎ、並んで歩いて帰った。
「あれが阿吽の呼吸なんですかねえ…」
「うーん、それは使い方を間違ってると思うけどなあ」
鬼たちは、二人を見送ると室内に戻り残りの茶菓子を頬張る。姫が嬉しそうに食べる姿が、可愛らしい。
「…なんですか?」
「いや…ずっと見てられるな、って思って」
「見てる間に、全部食べちゃいますよ?」
本当に食べつくしそうな勢いの姫を見て鬼はおかしくなる。
「俺も」
え?と姫は顔をあげる。
「俺もさ、姫が隣にいてくれるだけで幸せだな、って。こうして、一緒に菓子を食べて、散歩して」
「…他には何かないんですか?」
「それは、あるけど…嫌がっただろ」
「それはっ!…後ほど…」
姫は手を目の前に掲げて後ずさる。よし、後ならいいんだな、と一人納得して鬼は頷き、真面目な顔で姫に向き直る。姫も、正座をした。
「俺は姫が、俺と一緒にいるのが一番幸せだって思えるよう、頑張るからさ。何かあったら言って欲しいんだ。こうして欲しいとか、これが嫌だとか…」
「鬼殿は…私に何か不満はありますか?」
胸以外で、と小さく姫が付け足したので、鬼はそれは言わずに首を横に振った。
「俺は、姫の一番になりたいだけだ」
何かあれば真っ先に自分を思い浮かべてもらえるように。楽しいときも、悲しいときも。
ふふ、と姫が笑った。
「もう、なってますよ?」
「え?」
姫は、鬼の頬に手を添える。子どものような小さな手だが、そっと、慈しむような手つきに導かれ、鬼は姫を見つめた。
「その人にとっての一番って、なろうと思ってなるものじゃ、ないんです。大事だな、いとおしいな、と相手が自分を思ったら、もうそれは一番なんだって」
にこり、と姫は笑った。
「父が、そう言ってました。父の一番は母で、母の一番は父でしたから。お互いがお互いを大事に思ってたって、大天狗様が…」
姫はそこでちょっと言葉をきり、鬼を見上げてはにかんだ。
「そして私は、あなたがすごく愛おしい。おそらく、10年先も20年先も、ずっと」
頬を染めながらもはっきり言う姫を見て、鬼は苦笑した。
「参ったなあ…うん、嬉しいし、悔しい」
「悔しい?」
「ああ、妬けるね」
そう言い、鬼は姫に口づける。照れながらも同じように返してくる姫の唇を、鬼も受け止めた。
「姫」
「はい」
ぱたぱたと尻尾を振る姿が、可愛らしく、いとおしい。
「俺は、幸せだな」
はい、と、姫が笑った。
やきもち・了