2月
彼女が俺の家に来てから早一ヶ月。
彼女は文句一つ言わずに朝昼晩食事を作り続けた。
そして彼女は今もとんとんとん、と小気味好く食材を切って夕食の準備を進めていた。
ロボットが世界を支配してから、お互いの命を奪い合うような争いごとはなくなった。
ロボットに敵う人間がいないのはもちろんだが、それよりもこの時代を築き上げたイダスという奴がそれを許さなかった。
イダスは捨てられることや破壊されることに執着していた。
その執着は奴の戦略にも現れていた。奴は、欠陥ロボット、需要のないロボット、破棄されたロボット、いわゆる"ジャンク"と呼ばれる捨てられたロボットをかき集めて反乱を起こしたのだ。
争い事がなくなれば当然、軍事用ロボットが破壊されることはなくなる。しかし、同時に需要もなくなるのだ。
用なしになれば生きていくことはできない。そんな俺達も救ったつもりでいるのだろうか、軍事用として開発されたロボットには毎月多額な金額が支給されている。
しかし、戦場で弾をばら撒いていた俺が平穏な世界に放り出されても、金と暇を持て余すだけだ。
存在理由が奪われたロボットは、破壊されたと同義ではないのだろうか。
そんな俺が彼女を買い取ったのは、ほんの少しの偽善と出来心だった。
ある金曜日の夜、俺は街を出歩いて酒場で飲んでいた。
濃いめのウィスキーを飲みながら、戦友と語り合うのが俺の週課だ。
しかし、その日は用があると友が来れなくなったので一人で飲んでいたのだ。
そのとき、行きつけの修理屋の店長に絡まれた俺は、しぶしぶと彼と飲む羽目になり、しばらく彼の愚痴に耳を傾けていた。
訳あって若い娘を養っているのだが、全然使えず店番すら任せられないと彼はいった。
俺はその娘を知っていた。
彼女は俺の油さしを担当した事がある。ずいぶんと丁寧にさしてくれたお陰で機体がいつも以上に滑らかに動いたことを覚えている。
さし方一つでこんなにも動きが変わるのかと感心したものだ。
確かに非力そうではあるが、そもそも何十キロもあるパーツを人間の娘に任せようとするのが間違いだろう。
そう思ったが俺は黙っていることにした。上機嫌な酔っぱらいの揚げ足をとることほど、愚かな行為はない。
それでも彼はべらべらと彼女の愚痴をこぼし続けた。
_____なら、その娘を俺に売ってくれ。
情けないことに、酒に煽られた俺はついこんなことを口走ってしまった。
しかし軽い気持ちではなかった。俺なりに彼女を救おうとしたのだ。
だからといって買い取るのは小汚いが、コイツと一緒にいるよりはいいんじゃないのかと、慢心ながらにそう考えたのだ。
彼は一瞬戸惑って見せた。まさか、こんな提案をしてくるとは思ってもいなかったのだろう。
これでどうだ、と俺は指を3本立てた。
彼の生唾を飲む音を認識する。
なんだ、まだ足りないのかと煽るように俺は指をさらに2本足した。
すると、彼は売ります、売りますと俺の手を強く握り返した。
「ええっと…ご飯の支度ができあがりました」
気が付くと、テーブルの上には様々な料理が並べられていた。
彼女はあまり食べないのだが、俺に気を使って沢山作ってくれるのだ。
とてもありがたく思いながら、小さな皿にめいいっぱい盛られたシチューを口にする。
しょっぱさが表には出ず、牛乳のまろやかな味が味覚センサーを優しく刺激した。
テーブルをはさんで向かい合い、黙々と料理を口に運ぶ作業に集中する。
会話というものは、ほとんど交わされない。
それでも、一人でコードを繋ぎエネルギー補充をしていた俺にとって、誰かと食事をするというのは斬新なものだった。
「あの……お味の方はいかがですか?」
彼女は俺の顔色をうかがいながら、控え目に聞いた。
「ああ、うまい」
彼女が味の具合を聞いて、俺がうまいと答えるのはいつものことだった。
これはお世辞ではなく、本心だ。
彼女の食事は同じ料理でも毎回味が違う。
だから、この一ヶ月飽きることがなく様々な味を楽しむことができた。
どうしてもレシピ通りきっちりとしか作れない俺にはとても真似できないことだ。
並べられた料理を全て平らげると、彼女は皿を重ねて片付けに取り掛かる。
その後、彼女は決まって砂糖とミルクと一緒にオイルのような黒いコーヒーを出してくれるのだ。
砂糖を入れ、ミルクをいれるとたちまち白い渦が黒い液体を包み込み融合する。
ゆっくりと時間をかけてコーヒーを飲みながら、ふと考える。
……彼女をなんて呼べばいいのか。
もう一ヶ月も共に生活をしているというのに、俺は彼女の名前を呼んだことがなかった。
彼女も彼女で、俺の名前を呼ばない。俺の名前を覚えていないのだろうか。
俺は彼女の名前をもちろん知っている。だが、こんな状態で、いきなり呼ぶのはどうなんだろうかと気が引いているのだ。
彼女を迎えにいった朝、自己紹介をして彼女の同意を得てから引き取ろうとしていたのだが、ドアをノックするといきなり彼女がでてくるもんだから驚いて色々なものを飛ばしてしまったのだ。
そう、情けがないことに完全にタイミングを失ってしまったのだ。
「お名前、アネルさん…ですよね?」
タイミングがいいのか悪いのか、いきなり呼ばれた名前に、コーヒーを飲む手が止まってしまった。
そんな俺の動揺を見破ったのか、彼女はごめんなさいとおどおど頭を下げた。
「よくお店を利用してくださったので……覚えていたんです」
「そうだったのか」
「いきなり名前を呼んでしまって失礼でしたよね……すみません」
「いいや、構わない」
残されたコーヒーを一気に飲み干すと、溶けきれなかった砂糖がどろりと作り物の舌を這いずる。
この残された甘みが、俺はなんとなく好きだった。
「俺は」
「はい」
「俺は、お前をなんと呼べばいい?」
彼女は目をぱちくりと、狐につままれたような顔をした。
呼び方一つで自分は何をここまで気恥ずかしく思っているのか。
一旦、自分を落ち着かせようとカップを口元に運ぶが、何も流れ込んでこない。
ああ、そうだ。さっき飲み干したんだった……。
「あ、今入れますね」
彼女は手際よくコーヒーを注いでくれた。しかしそれがまた、俺を気恥ずかしくさせた。
彼女は改まって背筋を伸ばし俺と向き合う。
「ええっと……申し遅れました。私の名前はシーナです。……よ、呼び方はお任せします」
「じゃあ、シーナさん」
「え!?そ、それはだめです!」
「何故だ」
「何故だって、さん付けされるような立場じゃありませんし……」
「そうか」
「やっぱり、普通にシーナって呼んでください」
「わかった」
さん付けのルールはいまいちよく分からないが、そういうことだろう。
俺は探求することを止め、彼女の指示に従うことにした。
「シーナ」
「はい?」
彼女を呼ぼうとしたわけではないが、つい彼女の名を呟いてしまった。
俺は誤魔化すように、コーヒーを口に含む。
「うまい」
「ありがとうございます」
シーナは少し照れくさそうに、首元をかいて笑った。
彼女がここに来て一ヶ月、笑ったのは今日が初めてだった。