クリスマスの婚約破棄
アグノラは哀しそうに顔を歪めた。
目の前に立っているのは、婚約者の、いや、婚約者だったレイモンド。彼の腕には、彼が愛するノエルという美しいご令嬢がいる。
アグノラは紺色のドレスを掴み、下を向く。レイモンドの髪色に合わせたそのドレスも、今や更なる哀しさをアグノラに感じさせるだけだった。
暫く、ホールは静寂に包まれた。
誰もが、アグノラ、レイモンド、ノエルの動向に注目しているが、アグノラは下を向いたままだし、レイモンドは先程に言葉を放ってから、動く様子はない。ノエルは必死にレイモンドの腕にしがみつき、アグノラを不安そうに見つめていた。
誰かが息を吸った。ヒュッという小さな音でさえこの静まり返ったホールには響いてしまう。皆が誰だと尋ね合う前に、口を開いたのはアグノラだった。
「殿下。いえ、レイ様。」
レイモンドが驚いたように目を見開いた。アグノラは、レイモンドの瞳を真っ直ぐに見つめ、微笑む。それは、誰もが見惚れるほど美しい微笑だった。
「お慕いして、おりましたわ。」
アグノラは完璧な淑女の礼をする。周囲が息を呑む。彼女は哀しみのうちにいて尚、染み付いた気品が溢れていた。
「失礼、致します。」
彼女が顔を上げたとき、瞳に涙が浮かぶのを誰もが見ていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈Side Agnola
話は数時間前に遡る。
アグノラは自室で婚約者のレイモンドから届いた手紙を読み直していた。しかし、何度読み返しても、手紙の内容が変わる訳では無い。その、手紙の内容とは、
『申し訳ないが、今日のクリスマスパーティー、私がエスコートすることは出来ない。』
その簡素な一文だけだった。要点のみを伝えた、素っ気ない手紙。それが届いたのは、たったの30分前。
レイモンドはこの国の第一王子だ。周囲からは、「未来の賢王」と言われている。彼はどこまでも完璧で、アグノラは彼を誇りに思うと同時に、彼の隣にいるのが自分でいいのか、いつも不安に思っていた。
しかし、レイモンドはいつも優しく、アグノラを愛してくれていた。だから、アグノラはせめて彼の足でまといにならないように必死で頑張ってきたのだ。
今日は、レイモンドとアグノラの親しい友人を誘い、王宮でささやかなクリスマスパーティーを開こうと計画していた。もちろんホスト側としては簡単な挨拶をしなければならないが、それが済んだら楽しい身内のパーティーがはじまる。そう思っていた。
しかし、この手紙だ。レイモンドがエスコートをしないとはどういうこと?今更届いてしまえば、これから誰かに頼むなんてことは出来ないし、第一、ホスト役が揃って登場しないとはどういうこと?今迄、アグノラのエスコート役をレイモンドが他に譲ったことは無かったのだ。しかも、理由すら告げずに。
アグノラはひとつの可能性について考えていた。
最近、殿下が素っ気ない。いつも忙しそうにしているし、話す時は何かを隠そうとしているように見える。そして、極めつけには、仲のいいご令嬢たちから「レイモンド殿下が綺麗な金髪の女性と腕を組んで歩いていた」なんて目撃情報もある。信じていたかったけれど、もしかしたら今日、私は振られてしまうのかもしれない。
アグノラはレイモンドのことを愛していたが、レイモンドは自分から心が離れてしまったのかもしれない。
そう思うと涙が出そうだった。
アグノラは机の抽斗に手紙を仕舞うと、侍女のエフィを呼ぶ。
「殿下に頂いた夜空色のドレスを出して。」
今うじうじ悩んでいても仕方が無いのだ。今迄どうしても恥ずかしくて着られなかったドレスを着よう。殿下に頂いたのはあれが最初で最後だったが、とても美しいドレスだ。布地は殿下の髪の色で、凝らされた細工は銀糸で縫われている。アグノラの髪色は銀色で、あれはどうしてもレイモンドどアグノラをイメージさせる。レイモンドに貰ったものであるし、着られるのは今日が最後かもしれない。そう思うと一度だけでも着たいという気持ちになってしまった。
「最後にするので許してください」
アグノラは手を組んで祈りを捧げると、ドレスに腕を通す。ドレスはアグノラの体に丁度フィットした。
アグノラは引きつった笑みを浮かべる。
「私のスリーサイズが殿下に知られている?」
あの時から全くサイズは変わっていないはずだ。そう努力しているのだから。すると、殿下はアグノラのサイズを知って注文したことになるだろう。
恥ずかしさと少しの恐怖を覚えながらも、アグノラは準備を進めていく。
「お嬢様。髪はどう致しますか?」
エフィに聞かれて、アグノラは少し考える。
いつもは下ろしたままにしていたが、今日は少し気合を入れてもいいかもしれない。
「アップにしてもらえるかしら?」
「畏まりました。」
エフィは微笑む。
「お嬢様は中々髪を結わせていただけないので嬉しいです。お嬢様の美しい銀髪をいつか結わせていただきたいと、ずっと思っていましたから。」
「まぁ!そんなことを思っていたの?」
「はい。今日はお嬢様はいつもより気合を入れていらっしゃいますね。殿下とのはじめてのホスト役だからでしょうか?」
「ええ。」
本心は違うのだが、彼女に心配を掛けるわけにはいかなかった。
「では、腕によりをかけさせていただきますね。」
「有難う。」
エフィが結ったのは、ローポニーテールだった。緩く巻かれた髪が編み込みと共にあり、とても綺麗だ。
「凄いわね。」
アグノラは鏡を見つめながら、感嘆の声を上げる。エフィはいえいえ、と謙遜したが、すぐに思いついたように言った。
「あの、お嬢様。いつもよりメイクも趣向を凝らしてよろしいでしょうか?」
アグノラのメイクはいつもほとんどすっぴんのようなものであるが、エフィはそれも気になっていたらしい。アグノラは今日はエフィに任せようと、了承の意を伝えた。
王宮に着くと、レイモンドの迎えはなく、従者からの伝言だけが伝わった。
「今日はホスト役は私でやるから、アグノラはゆっくりしていて。」
だそうだ。つまり、アグノラはホスト役を解雇された。つい、自分への嘲笑が漏れる。
「殿下にここまで言わせるなんて、私も鈍いわね。」
きっと今日、アグノラは金髪の令嬢のために振られるのだろう。
そんな予感が、確信に近くなっているのを感じた。
時間になり、控え室からホールへ向かう。王宮のダンスホールで、ダンスパーティーを開く予定だったのだ。ずっと前から楽しみにしていた。しかし、もう、憂鬱以外の何物でもない。でも、最後に殿下を見たかった。
様々な気持ちが入り混ざってたが、ダンスホールの扉の前に着いてしまった。
アグノラは息をゆっくり吐き出し、大きく吸い込んだ。
「よし。行こう。」
扉を開く。
注目がこちらに集まったのを感じた。いつもなら、殿下が注目されているのね、で終わっていたが今はひとりだ。不思議に思う。
でも、すぐに納得がいった。
アグノラの前方に、レイモンドと金髪の令嬢が腕を組んでこちらを見ていたのだ。
「御機嫌よう。レイモンド殿下。」
アグノラは礼をする。
心の中は異様に冷めていた。背が高く、スタイルも良い、美しい令嬢を見た瞬間に、殿下は私にトドメを刺すつもりなのだと思ったのだ。
「ああ。」
レイモンドは驚いたように目を丸くしたまま、返事なのかよく分からない声を上げた。
金髪の令嬢は暫くアグノラを見ていたが、ふと、レイモンドをつつく。
その親しそうな様子に、アグノラは目眩がした。
レイモンドは金髪の令嬢に目を向け、直ぐにこちらを向き直した。
そして、言う。
「アグノラ。私はノエルに恋をしてしまった。婚約破棄をしてくれないか?」
嗚呼、矢張り。
アグノラは下を向く。ドレスの裾をぎゅっと掴んだ。そうしないと、今にも叫びそうだった。
その方は、ノエル様と仰るのね。貴方は、ノエル様に恋をしてしまったのね。私はもう、要らないのね。
意を決して、アグノラはレイモンドを見つめる。
「殿下。いえ、レイ様。」
レイと呼んで、と言われても、恥ずかしくて言えなかった。家で何回も練習したけれど、彼の目の前ではレイモンド殿下と言ってしまう。いつか言えたらいいなと思っていたけれど、その最初がこんな日になるとは。
ふっと微笑む。彼への愛を込めて。
「お慕いして、おりましたわ。」
堪えていた涙が視界を歪める。涙が頬に零れ落ちる前に、この場を去りたかった。
「失礼、致します。」
アグノラは淑女の礼をして、ホールを去った。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈Side Raymond
アグノラがホールをあとにして、ホールには沈黙が訪れた。邪魔者がいなくなって喜ぶ声でもなく、突然の婚約破棄に驚く声でもなく、沈黙である。
今度の沈黙を破ったのは、ノエル、と紹介された人物であった。
「おい。何してんだ?レイ。」
その声は令嬢に相応しくない野太い声であった。よくよく見てみれば、ノエルは骨ばった手で、筋肉質な体つきだ。細マッチョとでも言うのだろうか?
実は彼は男である。もし、冷静なアグノラがみたら、彼が男であり、誰であるか気がついたであろうが、彼女は様々な理由から冷静ではなかった。脳内でイメージしていた金髪の令嬢を彼に重ね合わせて、自分で納得してしまっただけなのである。
ノエル改めノーランは反応のない幼なじみに焦れたのか、その履きなれないピンヒールでレイモンドの足を踏み抜いた。
「っ痛っ!!!なんだよ、ノーラン!」
レイモンドはかがみ込んで足を抑えた。そのままノーランを睨みつける。
「なんだよ、はお前だよ。何してんだ。俺が女装までしてやったのに、アグノラ嬢を追いかけることすら出来ねぇのか?」
実はこれはアグノラとレイモンドをお互いの気持ちに気づかせるために行われたイベントであった。
事の次第はこうだ。
「ノーラン!アグノラが可愛すぎる。どうすればいい?」
学園の中庭でいつもの様に、レイモンドは婚約者可愛い自慢を始める。それに、いつもの様に、ノーランが返す。
「幸せに暮らしたらいいんじゃないか?」
ノーランは本から目を離さず、言う。どうでもいいという気持ちが滲み出ているのだ。
いつもなら、そこで終わる。
しかし、その日はそうでは無かった。
レイモンドは日頃の悩みを親友へ相談することに決めたのだ。
「だが、アグノラは俺を好きじゃないのだと思う。」
その言葉に驚いたノーランは思わず本から顔を上げた。
レイモンドはそのまま続ける。
「アグノラは俺が愛を囁くとそっぽを向くし、レイと呼んで欲しいと言ってもいつまでもレイモンド殿下のままだ。それに、贈ったドレスも着てくれない。」
真剣に言うレイモンドに、ノーランは訝しげに尋ねた。
「お前、気付いてないのか?」
「何が?」
思わずため息をつくノーランに、首を傾げる。何に気がついてないと言うのだろう?
「お前、アグノラ嬢の気持ちに気づいてないのか?」
「だから、アグノラは俺のことを好きじゃなくて...」
「ああっ!もう!」
ノーランは苛ついたように頭を抱えた。
「どうしたんだ?」
「よし、レイモンド。今度のクリスマスパーティーにアグノラ嬢の気持ちを分からせてやる。お前は俺の言う通りにしろ。いいな?」
ノーランが言うなら、間違いがない。それほどには、レイモンドはノーランを信頼していた。しかし、アグノラの気持ちを知らされるのは少し怖い。
「このままだとお前アグノラ嬢に捨てられるぞ?」
「わかったやるよ。」
即答した。
ノーランがレイモンドに言いつけたのは、
アグノラと会う回数を減らすこと。
今迄は毎日会っていたが、それを減らせと言うのだ。アグノラが足りない!
クリスマスパーティーで婚約破棄を告げること
クリスマスパーティーは身内のものなので、周囲に事前に伝えておき、婚約破棄を告げろと言われたのだ。嘘でもアグノラにそんなこと告げたくないのに、ノーランの「アグノラに捨てられる」攻撃によって陥落した。
クリスマスパーティーでアグノラをエスコートせず、ほかの令嬢をエスコートすること
これだけは猛抗議した。アグノラをエスコートしないとなれば、アグノラはほかの男にエスコートされてしまうではないか。今迄彼女の父親にさえ譲ったことがないエスコート役を?それに、ほかの女性をエスコートするなんて嫌だ。アグノラ以外と腕を組むなんて吐き気がする。
そう言ったら、ノーランは勢いに負けたのか、折衷案を出してきた。
「分かった。俺が女装する。」
噴き出した。ノーランの女装が見たくて了承した。アグノラには当日にその旨を伝えた手紙を送ることでほかの男にエスコートさせないようにした。
そして迎えた当日。
アグノラが、贈ってから着てくれなかった自分とアグノラをイメージしたドレスを着てくれていた。似合いすぎて倒れそうだった。
髪はアップにしていて、可愛かったし、メイクもいつもより彼女のイメージにあった儚げで優しいイメージになっている。
超可愛い。
ぼーっとして見惚れていると、ノーランにつつかれる。
そこで手順を思い出し、婚約破棄を告げる。胸が張り裂けそうだった。
アグノラは俯く。何を言われるか、とても怖かった。しかし、意を決した様にこちらを向いて言い放った言葉は予想だにしなかった。
「殿下。いえ、レイ様。」
アグノラが、レイ、様だと?今迄1度も呼んでくれなかった愛称で。胸の高鳴りが抑えられない。可愛い。
すると、アグノラはふっと微笑む。可愛すぎか。
「お慕いして、おりましたわ。」
ん?アグノラがお慕い?誰を?レイ様?あれ?おかしいな。
フリーズした。
そして現在に戻る。
「おい。わかっただろ?どこまでも鈍いお前だって、流石に。」
「え、?アグノラは俺を慕う?」
「そうだって言ってんだろ?はよ行け。」
ノーランはうんざりしたように言う。
すると、周りの人たちも口を開き始める。
「あんな、わかりやすい子居ないのにねぇ。」
「レイモンド殿下がノエル様と一緒にいるって話した時の驚愕の顔が忘れられないもの」
「殿下も大概鈍いよな」
酷い言われようである。
「ほら。行けよ。」
「有難うノーラン。みんな。」
そう言うと、レイモンドはアグノラの後を追った。
「っアグノラ!」
アグノラは立ち止まる。
「何か、御用ですか?」
声が震えている。嗚呼、こんなにも愛おしいのに。
「ごめん。アグノラを騙したんだ。」
アグノラは振り返る。睫毛が濡れて月光に照らされている。
美しい婚約者を泣かせるまで気が付かなかった自分の鈍さに反吐が出る。
「だま、した?」
「アグノラが、俺のことを好きじゃないのかもしれない。と、ずっと思っていた。それをノーランに相談したら、ノーランにこの企画を提示されたんだ。」
「何を仰っているのですか?レイモンド殿下。」
冷えた声が胸に突き刺さる。でも、その瞳は未だ潤んだままだ。
「ノエルという架空のご令嬢に恋をした振りをしたら、アグノラの気持ちがわかる、と。」
「架空?でも、ノエル様はあそこにいらっしゃったでしょう?」
その時、後ろから野太い声が聞こえる。
「まだ、気が付きませんか?アグノラ様。いえ、アグノラ嬢。」
ノーランが近づく。アグノラは不思議そうに首を傾げた。
「これで、分かるでしょう?」
ノーランはカツラを外す。アグノラは驚愕して口を開いた。
「ノーラン、様?」
「ご名答。」
ノーランはニッコリと微笑む。
「あとは2人で仲良くやってくださいよ。もう、気づいたでしょう?バカップルのすれ違いは見ててモヤモヤするんです。」
そう言うとくるりと踵を返して、王宮へ戻って行った。
「どういうことですか?」
アグノラは、ノーランから視線をうつし、レイモンドを見た。
「アグノラが好きすぎて、困ってるんだ。」
レイモンドは自嘲するように、笑った。
そっぽを向きながらアグノラは言う。
「私も、レイモンド殿下が好きすぎて困っています。」
レイモンドはふっと微笑み、アグノラに近づいた。そして、耳元で、囁く。
「先のように、レイと呼んで?」
アグノラが顔を真っ赤にさせたのは言うまでもない。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈Side Nolan
「やっと終わった。」
ノーランは控え室に戻ってため息をついた。やっとこの動きにくいドレスを脱げる。
腕をまっすぐ上に伸ばして伸びをする。
今日まで長かった。
幼なじみとその婚約者の仲の良さは学園でも、貴族でも有名だ。レイモンドがアグノラに愛を囁き、アグノラは顔を背けながら耳まで真っ赤になっている。そんな風景は日常茶飯事で、もう、驚きもしない。
でも、そんなレイモンドに、アグノラがレイモンドを好きじゃないかもしれない、なんてことを言われるから、頭にきた。
あんなイチャラブしといて、何が好きじゃないだ。気が付けこの鈍感。まぁ、アグノラもツンデレなので、行動や言動はレイモンドが好きじゃないように思えるかもしれない。でも、見ていればわかる。あれはレイモンドのことが大好きだ。
二人とも友人に対して惚気けるから、友人達も事情を話したら『あれだけお花畑な雰囲気出していたのに、気が付かないでいたっていうの?』と、憤慨して、このイベントを手伝ってくれた。
アグノラに金髪の令嬢の噂をしたり、俺の女装に磨きをかけたり、パーティー会場で、俺を笑うのを必死に堪えてくれたりな。
でも、もう、流石にあの鈍感共も気がつくだろう。
そう思ったノーランが後日、さらに悪化した惚気を延々と聞かされる羽目になるのは、また別のお話。