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最期の最後

「もう、待ち切れなくなっちゃった」


 きゃらきゃらと笑う声は、低くもなく、高くもない。聞き取りやすい筈なのに、酷く耳障りな声だった。


「人は脆いね。こんなのを愛したなんて、しょうがないなあ。こういう時なんて言うんだっけ。カワイソー? あは、司ってないからわかんないや」


 津波のような言葉が流れていく。無邪気で無垢で、悪意など欠片もない言葉が、笑みを多分に含んで紡がれる。

 神の器(リーデハルト)は血に染まった手を口元に持っていくと、滴る鮮血を舐め上げた。途端に顔が苦く歪む。赤い筋が口端からこぼれた。


「うえっ、まずっ。これが好きとか、あの娘凄くない? むしろリーデアナト(わたし)が凄くない? 力を分けたのはリーデフォルセティ(わたし)だっけ。それともリーデオス(わたし)? 忘れちゃった」


 ころころと笑う姿は子どものようで、目まぐるしく変わる表情は忙しない。ぱたぱたと手を振って血しぶきを飛ばすが、ただ辺りを汚しただけだった。


「ほんとはね、287番の毒で衰弱死とか考えてたんだけど、長すぎて待てなくなっちゃって。287番ってわかる? ほら、君たちが『常磐の忘却』って呼んでるとこ」


 ヘレンテは朦朧とした意識で、青年の言葉を聞いていた。『常磐の忘却』と言えば、以前リーデハルトがダンジョンボスであるカーバンクルを預かってきたところだ。

 結局飼わずに翌日には返していたが、そういえばあの頃から体調が悪くなったように思える。まさかその頃からこうなることが決まっていたのか。


 喉元にせりあがる吐き気に抵抗できず、成すがまま身を任せる。げほげほと咳き込めば、鮮血が広がった。

 紺色だった制服は血にまみれ、既に元の色が判別できないほど濡れている。ヘレンテの顔は紙のように白かった。


「人って大事なものを自分で壊したくなるんでしょ? 凄いよね、面白いね。だから直接やってみようって、やってみたんだけど……あれ」


 目線だけしか動かない男に、リーデハルトの形をした何かが不思議そうに首を傾げた。


「もしかして、もう死んじゃう? 脆いなあ。ちょっと待って、もう返すから。人って大切なものを失って初めて気付くんでしょ? すでに死んでいたー、よりも、目の前で失った方が面白いよね。うんそうそう。リーデクラ(わたし)だってそう言ってた。だから、わかるよね?」


 自らの言葉に頷いて、人形がにこりとヘレンテに笑いかける。そのまま目を閉じれば、ぐらりと体が傾いだ。

 後ろに倒れかけた青年がたたらを踏む。びくりと一瞬固まって、ゆっくりと体を起こしていく。眉間には皺が寄っていた。

 霧がかった思考を振り払うように頭を振るう。何度も繰り返し瞬けば、月光を煮詰めた瞳が露になった。


「……ま、すたー……?」


 呆然と呟かれた言葉は、意味などなかったのだろう。青年は自分の声を、そうと認識できなかった。


 目の前に広がる血溜まりに、神の器が立ち竦む。


 もはやヘレンテは、目すら開けていなかった。

 咳をする度に吐き出される血。空気を吸う度に喘鳴を繰り返す。血の気を失った顔色は蒼白で、窶れた頬は肉がそげ落ち痩けていた。


「ますたー!? なんで、こん、え、あああ! ますたぁあ!」


 悲鳴を上げたリーデハルトはヘレンテに駆け寄った。止血のために差し出した両手を見て初めて、自分も血で汚れていると知る。

 まだ温かいそれに愕然とした。

 かたかたと震えながら、青年が叫んだ。


「何で、何で、何で!? 私、じゃ、ない……エア様、何で、こんな……!」


 仰向けになったヘレンテの腹には孔が開いていた。激しく出血し、脈打つたびに噴き出している。貫通はしていないが深い傷だった。内臓にも達しているのだろう。夥しいほど出血していた。


「血、血が、止まらない……、なんで、なんでぇ……」


 リーデハルトが傷口に両手を当てて、ヘレンテの体内から溢れていく血を止めようとした。失われた血液を戻そうとした。

 だが、治らない。直せない。

 魔力が弾かれて、力を行使できない。


 この感覚は知っている。神の器は、宝神器。人の願いを叶える魔道具。

 だから、人が望まぬことは出来ない。例え宝神器である青年自身が願っても、対象の人間が拒否すれば、彼の力は意味をなさない。


「ますたー、ねえ、わたしなら、なおせるから」


 青年が震える声で訴える。口角はいつも通り上がっていたが、酷くひくつき今にも下がりそうだった。瞳は潤み輝いているが、生気は感じられない。

 すがり付いた手が握りしめたヘレンテの腕は、筋肉が衰え枯れ枝のように細かった。男の腕はこんなに細かっただろうか。記憶にあるものと比べて、遥かに脆く、弱い。


「治せるんだ、直せるんだよ、私なら。だからお願い、ますたー」


 願って、命じて。頼って、祈って。

 生きたいって言ってくれ。治してくれって言ってくれ。助かりたいって言ってくれ。死にたくないって言ってくれ。

 そうすれば治せるから。そうするば直せるんだ。

 一言でもいい、願ってくれれば。私なら叶えられる。

 願ってくれなければ、叶えられないんだ。


 ギルド長が何かを呟いた。かすれたそれは言葉にならず、空気と混じり溶けていく。


「何、ますたー。聞こえない、聞こえないよぉ……」


 こんなの知らない。こんなの知らない。こんなの知らない。

 胸がいたい。喉があつい。心臓なんてないのに。脳なんてないのに。

 いたい、くるしい、かなしい、くやしい。

 目の奥か焼けるように熱いのに、胸の奥が凍えるように冷たい。

 こんな矛盾は知らない。こんな矛盾はいらない。


 なんで、どうして。守りたいものが出来たのに。助けたい人が出来たのに。人の役に立つための宝神器なのに。死んでほしくない人が目の前で苦しんでいるのに。

 何のための力だ。何のための権能だ。契約者一人救えずに何が神の器だ。


 男が咳をする度に命が削られていく。血を吐く度に生命力が失われていく。その様を目の前で見ているのに、何も出来ない自分が歯痒くて、腹立たしい。


 ヘレンテが力の入らなくなった腕を動かそうとしたのだろう。指先が僅かに動いたのを見て、リーデハルトは壊れ物のように大事に持ち上げた。

 涙がとめどなく溢れて、男の顔に落ちていく。目尻にかかって、ヘレンテも泣いているようだった。

 その顔は満足そうで、どこか安心して見えた。もう大丈夫だと。これでいいのだと。これで、完成したのだと。そう伝える姿に、青年の体が震える。


 ため息のように吐かれた言葉に、リーデハルトが目を見開く。あれほど願っていた主としての命令を、やっと、聞けた。

 それは、今、望んでいる願いではなかったけれど。


 ヘレンテの腕から力が抜ける。手足は動かない。目は開かない。命が失われていく様を見詰めながら、青年は、泣き叫んだ。


「あなたとともに、逝きたかった……ッ!」


 主人だった男の手に額を押し付けて、リーデハルトはただ、泣いていた。

 

 失うのは痛くて、辛くて、悲しくて、耐えられない。

 熱を持って霞む思考が導いた答えに、神の器は泣きながら、薄く笑った。




***




 どれくらいそうしていたのか。

 ふわりと、魔力が満ちて風が起こる。煌めく魔方陣が現れて、部屋に転移してきたのはアフトクラトルだった。

 戦いの後始末が済んで、報告に来たのだろう。

 何かを言う前に、リーデハルトが身を起こす。ゆらりと揺れる陽炎のように、覚束ない足取りで近付いていく。


「おい」

「……クラトルも、いつか、死んでしまうから」


 血にまみれた両手を伸ばして、男の頬に触れる。赤く汚れていくのも目に入らず、リーデハルトは淡く微笑んだ。


「私と一緒に、生きて」


 ――死なせない。


 そう呟いて、リーデハルトはアフトクラトルの額に、自分のそれを触れ合わせた。人形型の宝神器が、泣き声で言葉を紡ぐ。


「汝の咎は我が罪に。我が咎は汝の罪に。

 酩酊せし落陽、晃望せし斜陽。月は転じて廻り、星は転じて留まる。射干玉の久木、錦海の千鳥。いざ廔鳴かん。

 汝の罪を受容せよ、我が罪を許容せよ。

 落雷は昇り、祥雲を穿つ。彩は能わず、香に誘う。誓いを胸に、願いを此処に。其は赦されざる王冠。希うは安寧と破滅。いざ果たされん」


 リーデハルトの顔に光の線が走る。額に、瞼に、頬に、首にと瞬く間に駆け抜けた。頬に触れていた両手に熱が籠り、ゆるやかに魔力が注がれていく。


 アフトクラトルが瞠目し、身を引こうとする。しかし頬を挟まれて動けなかった。額を通して全身に何かが流れ込んでくる。それはリーデハルトの魔力。契約によって同調した、神の力の一部。


「其の命を持って、契約は結ばれた」


 泣き叫ぶような声で伝えられる。すべての感情が乗せられたその声に、アフトクラトルは呆然と青年を見つめた。

 契約を結べたことに安堵したのか、リーデハルトは甘やかな空気を身にまとう。所持者となった男へ、意思宿る宝神器は心底嬉しそうに笑うと言ったのだ。


「もう、私を置いて逝かないで、我がますたー」


 焦点の定まらない瞳で(こいねが)う青年に、アフトクラトルがゆっくりと現状を理解していく。

 血溜まりに沈むギルド長。血にまみれた青年の両腕。結ばれた契約。呪いに似た願い。光の宿らない目。姿を映しているのに、こちらを見ていない瞳。


 代わりにされたのだと、気付くのは容易くて。二度と死ねない体にされたのだと、気付くのは早かった。


 身代わりとして求められて、人としての生を踏みにじられて。人生をめちゃくちゃにされた男は、唇がゆっくりと、笑みの形に歪んでいくのを抑えられなかった。


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