帰還
混乱する尚輝にリーデハルトが近付く。
穏やかに、にこやかに。美しく清廉な微笑みを浮かべて、ゆっくりと歩み寄る。
とまどいながら大剣の切っ先を向ける少年を、月光の満ちた瞳が捉える。
「ああ、そのままでいいよ」
高くもなく低くもない、耳に心地よい声が落ちる。
パニックで何も考えられない頭が、冷めるように覚めていく。
対話が通じる。話ができる。それならば、とりあえず戦わなくて済む。
それなのに意に反して、腕が切っ先を向け続ける。
尚輝は反対の手で無理やり剣を離そうとしたが、握り締めた片手はびくともしない。
自分の体なのに自分の思い通りにはならないそれが、冷めた混乱を再加熱する。
再びとまどい狼狽えた少年。リーデハルトがそれに気付かない筈がない。
しかし自分には関係ないとばかりに、笑みを浮かべたまま少年の顔を覗き込む。
「帰りたいんだろう?」
乾いた大地に雨が染み込むように、その声は何にも妨げられず降り注ぐ。
尚輝の目の前で青年が立ち止まる。
剣先が届く場所で。剣先が届く高さで。
首を差し出す位置で立ち止まる。
「私を倒して、あるべき場所へ。戻りたいのだろう」
柔らかな瞳に射抜かれる。
月の光に似た眼差しが、静かに、優しく、心に沈み込む。
まるで親が産声を上げる幼子を愛でるように、その瞳が己を縛り付ける。
震えは止まっていた。
切っ先は青年の首に添えられたまま、微動だにしない。
剣を離すために持ち上げた片手は、いつの間にか身に余る大剣を支えていた。
「君の願いを、叶えてあげる」
何も考えられない頭に、穏やかな声が染み込んだ。
「この首を切り落とすといい」
手が、動いた。
何の躊躇いもなく、何の抵抗もなく。
切っ先が華奢で青白い首に食い込まれていく。
肉を断つ奇妙な弾力と、骨を断つ硬い衝撃。
力を入れずとも大剣は細い首を断ち切っていく。
薄皮が破れて。筋肉が裂けて。血管が千切れて。骨が砕けて。
脈動しながら吹き出す血飛沫が、青年のブラウスを瞬く間に染め上げた。
飛び散り顔まで濡らした血液が、花のように舞い散っていく。
切り落とされた首が剣を滑るように転がり落ちる。
重石よりも軽く、石榴よりも重い頭顱が床を跳ねた。
目の前の光景を呆然と見つめる。
理解できない、処理が追い付かない。
自分が仕出かした行動を、事実として認識できない。
放心したままの尚輝の目の前で、次々と光景は変化していく。
溢れ出した血液がふわりと浮き上がる。
円を描き回転し、尚輝の足元を覆い尽くす。
首をなくしたまま立つ体から、鮮血が吹き出していく。
溢れるそれらが尚輝を隠すように、速度を増して渦を巻く。
悲鳴は意味をなさず、口から金切り声を発し続けた。
見開かれた目が、開ききった瞳孔が、周囲を取り囲む赤に捕らわれる。
「異世界の、片道召喚かあ。難しいね。可哀想に」
自分の悲鳴で失われかけた聴覚に、その声は変わらず届いた。
ぎくりと固まった体がきしむ。
信じられない心が動きを阻む。
それらを無視した理性が、床に転がる頭部を視界に捉えた。
「使い捨ての異物。国に戻っても居場所はなく、帰る術も見つからない。気付いているんだろう。それでも帰りたいんだろう」
くすくすと笑う穏やかな声。
闇夜を照らす仄かな月光が、切り落とされる前と同じように此方を見つめていた。
手が、足が、唇が震える。
視界の端の影が動く。
辺りを血の渦に囲まれながら、しかしその姿は克明だった。
「きっと召喚した彼等も予想外だろうけど、実は私、結構凄いんだ」
真っ赤に染まった両腕が、落ちた首を拾い上げる。
ぐちゃりと粘つく水音がして、血溜まりが青年の靴を汚した。
体から零れていた血は止まっている。
その代わりに奇妙に黒い断面が覗いていた。
月のない夜空のようだった。
「彼等の代わりに、君の願いを叶えてあげる」
白い頬は血で汚れ、月光の髪は毛先が濡れそぼる。
血色の良かった唇はそのままに、青年は微笑んでいる。
その姿は、彼岸花で飾られた純粋無垢な娘を思わせた。
「魔王を倒したご褒美だ。元いた世界に帰るといい」
頭顱が笑う。
穏やかに、にこやかに。美しく清廉な笑みを深めて。
高くもなく低くもない、耳に心地よい声が落ちる。
その言葉を最後に、尚輝の意識は赤に包まれた。
***
「うわあああ!」
自分の叫びで目が覚める。
飛び起きた場所は青で纏まった部屋で、カーテンから日光が差し込んでいた。
柔らかいベッドの対角にある机には、参考書が無造作に置かれている。
膝下くらいの高さの棚に、高校名が書かれた鞄がずり落ちそうに引っ掛かっていた。
ばくばくと跳ねる心臓に胸が圧迫される。
思わず咳き込んだ尚輝は、機敏に辺りを見回した。
見覚えのある天井と、慣れ親しんだ匂い。
身に纏う服装は革製の防具ではなく、麻のパジャマ。
膝にかかった布団は高級な羽毛布団ではなく、薄手の綿のブランケット。
しゃわしゃわと遠くから蝉の声が聞こえる。
きゃあきゃあと笑う子どもの声が聞こえる。
帰ってきたのだ。自分は、異世界から。元の世界に。
慌てて両手を見つめてみるが、そこには傷一つない柔らかな掌があるだけだった。
大剣を振り続けて固くなった皮膚も、馴染む前に出来た剣だこも、跡形もなく消えている。
ごつごつとした大人びた手ではなく、高校生らしい健康的な手だった。
「戻って、来たんだ……」
体の節々に感じていた痛みも、無理やり戦ったせいで慣れきった筋肉痛もない。
思わず両手で顔を覆えば、大きく長く息を吐き出した。
ばたばたと階段を登ってくる足音にも聞き覚えがあった。
「尚輝、大丈夫!? 叫び声が聞こえたけど」
「あ、うん。夢見が悪くて。大丈夫だよ、母さん」
「そう? ならいいけど……」
心配そうな母の顔に苦く笑う。
優しく慈しんでくれるようなその顔に、誰かの顔が重なった。
それが誰かを認識した瞬間、尚輝の精神は焼き切れた。
人を殺した。無抵抗の人を。穏やかな人を。
身勝手な理由で殺した。訳も聞かずに殺した。
帰りたかった。それだけの理由で、戦わずに済んだ相手を殺した。
いいや、殺していない。
だって喋っていたのだ。首が落ちてからも。
だって動いていたのだ。首がない体でも。
けれど覚えている。
人の首に剣を突き付けた感触を。
首の薄皮を破いた抵抗も反発もない感触を。
薄い筋肉を裂く料理にも似た奇妙な弾力のある感触を。
血管を断つとろみのついた水を貫くような感触を。
骨を砕く腕に響いて脳を揺さぶる感触を。
溢れ出る鉄屑の匂いを。
流れ落ちる粘って散らばる血飛沫を。
手を濡らす命の温かさを。
白く可憐な顔が、化粧のように染め上げられていく様を。
覚えている。忘れられない。
それほどまでに強烈だった。
叫ぶ息子に母が困惑する。思わず呼んだ父が息子を抑える。
無意識に倫理を尊ぶ高校生が、異世界の、命の価値などない生活に耐えられる筈もなく。
錯乱した尚輝が次に目覚めた場所は、真っ白な病室だった。
***
少年のいなくなった部屋で、リーデハルトが首を嵌める。
ごきん、ぱちんと機械のような音がした。
無造作に首を回して、異変がないかを確認する。
青みがかったブラウスは首もとから赤黒く染まっている。
細身の黒いパンツは所々色が濃い。跳ねた血がかかったのだろう。
ジョッキブーツは血が奥まで染み込んで、中敷きが湿っていた。
「……リーデハルト=グラジオラス」
アフトクラトルの呼び掛けに振り返る。
部屋の隅に黒い塊が転がっていたが、それを気にする者はここにいない。
遠い喧騒ももはや聞こえない。階下の衝撃もとうに感じない。
勝敗が付いて、今は魔方陣でも使って敵地に乗り込んでいるのだろう。
明日になればまた一国が滅亡したニュースが駆け回るだろうが、リーデハルトにたいした関心はない。
血で汚れたリーデハルトを、アフトクラトルが睨み付ける。
「貴様、何故、態と斬らせた」
「? 願われたからだけど」
「いくら望まれようと、他に方法はいくらでもあっただろうが!」
眉間に皺を寄せ、いつもより厳しい顔をしていた。
リーデハルトはこてりと首を傾げ、一度まばたきする。
「あれが一番楽だろう? 魔王と勇者らしくて。あ、羨ましかった? クラトルも斬ってみるかい、首」
「誰がその様な真似をするか!」
「そうだね。君はそういう男だ」
リーデハルトの手が伸びる。アフトクラトルの首へ。
体格に見合った無駄な肉のない首筋へ、細い指先が巻き付く。
「君だけは他の子と違って、叶えるのが難しい」
例えば、災厄の彼らなら。
ミスティは誰でもいいから愛してほしかった。
シアンは誰でもいいから守ってほしかった。
レオンは誰でもいいから見てほしかった。
エフィメラは誰でもいいから認めてほしかった。
セイントは誰でもいいから助けてほしかった。
ルプスは誰でもいいから満たしてほしかった。
そしてアフトクラトルは。
「ほら、私って受け身だから。自分から何かするのって、困るんだよね」
首に巻き付いた指先が、ゆっくりと食い込んでいく。
気道が塞がって、息が吸えなくなる。
酸素が少なくなって、息苦しさを覚える。
霞む視界の中で、アフトクラトルは――笑っていた。
「私に滅茶苦茶されたい、なんて。相変わらず困った子だね、君は」
己より強く、己より優れた、己が認めた相手に、人生をめちゃくちゃにしてほしい。
アフトクラトルは妾腹の子ではあったが、かつて国の王子だった。
金の瞳を持つが故に戦争があれば軍の指揮を取った。
他人を従えることはあっても、誰かに従うことはなかった。
それがリーデハルトに出会って、初めて敗北を味わって。
己の願いを自覚した。
リーデハルトの手が離される。
途端に入り込む空気にアフトクラトルが噎せる。
涙さえ浮かべ苦しむ男を、青年はにこやかに見捨てる。
「そろそろますたーの所に行くから、後始末は宜しくね」
軽やかに部屋から出ていく青年。
無邪気で純粋で残酷な彼に振り回されて、男は唇を歪めて笑う。
こんな歪んだ願いを、ただ一人だけは認めてくれた。初めは知らないままに受け入れて。過ごしていく内にすべてを知っても、離れてはいかなかった。都合の良いまま慈しんで、求めるだけ与えてくれた。
歪んでいる自覚はあった。それを直す気は微塵もなかった。欲しいものを与えてくれる人が、変わることを求めなかったから。
国を失っても。居場所を失っても。
この人が愛してくれるから、その為だけに生きている。