表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/71

帰還

 混乱する尚輝にリーデハルトが近付く。

 穏やかに、にこやかに。美しく清廉な微笑みを浮かべて、ゆっくりと歩み寄る。

 とまどいながら大剣の切っ先を向ける少年を、月光の満ちた瞳が捉える。


「ああ、そのままでいいよ」


 高くもなく低くもない、耳に心地よい声が落ちる。

 パニックで何も考えられない頭が、冷めるように覚めていく。

 対話が通じる。話ができる。それならば、とりあえず戦わなくて済む。

 それなのに意に反して、腕が切っ先を向け続ける。

 尚輝は反対の手で無理やり剣を離そうとしたが、握り締めた片手はびくともしない。

 自分の体なのに自分の思い通りにはならないそれが、冷めた混乱を再加熱する。


 再びとまどい狼狽えた少年。リーデハルトがそれに気付かない筈がない。

 しかし自分には関係ないとばかりに、笑みを浮かべたまま少年の顔を覗き込む。


「帰りたいんだろう?」


 乾いた大地に雨が染み込むように、その声は何にも妨げられず降り注ぐ。

 尚輝の目の前で青年が立ち止まる。

 剣先が届く場所で。剣先が届く高さで。

 首を差し出す位置で立ち止まる。


「私を倒して、あるべき場所へ。戻りたいのだろう」


 柔らかな瞳に射抜かれる。

 月の光に似た眼差しが、静かに、優しく、心に沈み込む。

 まるで親が産声を上げる幼子を愛でるように、その瞳が己を縛り付ける。

 震えは止まっていた。

 切っ先は青年の首に添えられたまま、微動だにしない。

 剣を離すために持ち上げた片手は、いつの間にか身に余る大剣を支えていた。


「君の願いを、叶えてあげる」


 何も考えられない頭に、穏やかな声が染み込んだ。


「この首を切り落とすといい」


 手が、動いた。

 何の躊躇いもなく、何の抵抗もなく。

 切っ先が華奢で青白い首に食い込まれていく。

 肉を断つ奇妙な弾力と、骨を断つ硬い衝撃。

 力を入れずとも大剣は細い首を断ち切っていく。

 薄皮が破れて。筋肉が裂けて。血管が千切れて。骨が砕けて。

 脈動しながら吹き出す血飛沫が、青年のブラウスを瞬く間に染め上げた。

 飛び散り顔まで濡らした血液が、花のように舞い散っていく。

 

 切り落とされた首が剣を滑るように転がり落ちる。

 重石よりも軽く、石榴よりも重い頭顱(とうろ)が床を跳ねた。


 目の前の光景を呆然と見つめる。

 理解できない、処理が追い付かない。

 自分が仕出かした行動を、事実として認識できない。

 放心したままの尚輝の目の前で、次々と光景は変化していく。


 溢れ出した血液がふわりと浮き上がる。

 円を描き回転し、尚輝の足元を覆い尽くす。

 首をなくしたまま立つ体から、鮮血が吹き出していく。

 溢れるそれらが尚輝を隠すように、速度を増して渦を巻く。


 悲鳴は意味をなさず、口から金切り声を発し続けた。

 見開かれた目が、開ききった瞳孔が、周囲を取り囲む赤に捕らわれる。


「異世界の、片道召喚かあ。難しいね。可哀想に」


 自分の悲鳴で失われかけた聴覚に、その声は変わらず届いた。

 ぎくりと固まった体がきしむ。

 信じられない心が動きを阻む。

 それらを無視した理性が、床に転がる頭部を視界に捉えた。


「使い捨ての異物。国に戻っても居場所はなく、帰る術も見つからない。気付いているんだろう。それでも帰りたいんだろう」


 くすくすと笑う穏やかな声。

 闇夜を照らす仄かな月光が、切り落とされる前と同じように此方を見つめていた。

 手が、足が、唇が震える。

 視界の端の影が動く。

 辺りを血の渦に囲まれながら、しかしその姿は克明だった。


「きっと召喚した彼等も予想外だろうけど、実は私、結構凄いんだ」


 真っ赤に染まった両腕が、落ちた首を拾い上げる。

 ぐちゃりと粘つく水音がして、血溜まりが青年の靴を汚した。

 体から零れていた血は止まっている。

 その代わりに奇妙に黒い断面が覗いていた。

 月のない夜空のようだった。


「彼等の代わりに、君の願いを叶えてあげる」


 白い頬は血で汚れ、月光の髪は毛先が濡れそぼる。

 血色の良かった唇はそのままに、青年は微笑んでいる。

 その姿は、彼岸花で飾られた純粋無垢な娘を思わせた。


「魔王を倒したご褒美だ。元いた世界に帰るといい」


 頭顱が笑う。

 穏やかに、にこやかに。美しく清廉な笑みを深めて。

 高くもなく低くもない、耳に心地よい声が落ちる。


 その言葉を最後に、尚輝の意識は赤に包まれた。




***




「うわあああ!」


 自分の叫びで目が覚める。

 飛び起きた場所は青で纏まった部屋で、カーテンから日光が差し込んでいた。

 柔らかいベッドの対角にある机には、参考書が無造作に置かれている。

 膝下くらいの高さの棚に、高校名が書かれた鞄がずり落ちそうに引っ掛かっていた。


 ばくばくと跳ねる心臓に胸が圧迫される。

 思わず咳き込んだ尚輝は、機敏に辺りを見回した。

 見覚えのある天井と、慣れ親しんだ匂い。

 身に纏う服装は革製の防具ではなく、麻のパジャマ。

 膝にかかった布団は高級な羽毛布団ではなく、薄手の綿のブランケット。

 しゃわしゃわと遠くから蝉の声が聞こえる。

 きゃあきゃあと笑う子どもの声が聞こえる。


 帰ってきたのだ。自分は、異世界から。元の世界に。


 慌てて両手を見つめてみるが、そこには傷一つない柔らかな掌があるだけだった。

 大剣を振り続けて固くなった皮膚も、馴染む前に出来た剣だこも、跡形もなく消えている。

 ごつごつとした大人びた手ではなく、高校生らしい健康的な手だった。


「戻って、来たんだ……」


 体の節々に感じていた痛みも、無理やり戦ったせいで慣れきった筋肉痛もない。

 思わず両手で顔を覆えば、大きく長く息を吐き出した。

 ばたばたと階段を登ってくる足音にも聞き覚えがあった。


「尚輝、大丈夫!? 叫び声が聞こえたけど」

「あ、うん。夢見が悪くて。大丈夫だよ、母さん」

「そう? ならいいけど……」


 心配そうな母の顔に苦く笑う。

 優しく慈しんでくれるようなその顔に、誰かの顔が重なった。

 それが誰かを認識した瞬間、尚輝の精神は焼き切れた。


 人を殺した。無抵抗の人を。穏やかな人を。

 身勝手な理由で殺した。訳も聞かずに殺した。

 帰りたかった。それだけの理由で、戦わずに済んだ相手を殺した。

 いいや、殺していない。

 だって喋っていたのだ。首が落ちてからも。

 だって動いていたのだ。首がない体でも。


 けれど覚えている。

 人の首に剣を突き付けた感触を。

 首の薄皮を破いた抵抗も反発もない感触を。

 薄い筋肉を裂く料理にも似た奇妙な弾力のある感触を。

 血管を断つとろみのついた水を貫くような感触を。

 骨を砕く腕に響いて脳を揺さぶる感触を。

 溢れ出る鉄屑の匂いを。

 流れ落ちる粘って散らばる血飛沫を。

 手を濡らす命の温かさを。

 白く可憐な顔が、化粧のように染め上げられていく様を。


 覚えている。忘れられない。

 それほどまでに強烈だった。


 叫ぶ息子に母が困惑する。思わず呼んだ父が息子を抑える。


 無意識に倫理を尊ぶ高校生が、異世界の、命の価値などない生活に耐えられる筈もなく。

 錯乱した尚輝が次に目覚めた場所は、真っ白な病室だった。




***




 少年のいなくなった部屋で、リーデハルトが首を嵌める。

 ごきん、ぱちんと機械のような音がした。

 無造作に首を回して、異変がないかを確認する。


 青みがかったブラウスは首もとから赤黒く染まっている。

 細身の黒いパンツは所々色が濃い。跳ねた血がかかったのだろう。

 ジョッキブーツは血が奥まで染み込んで、中敷きが湿っていた。


「……リーデハルト=グラジオラス」


 アフトクラトルの呼び掛けに振り返る。

 部屋の隅に黒い塊が転がっていたが、それを気にする者はここにいない。

 遠い喧騒ももはや聞こえない。階下の衝撃もとうに感じない。

 勝敗が付いて、今は魔方陣でも使って敵地に乗り込んでいるのだろう。

 明日になればまた一国が滅亡したニュースが駆け回るだろうが、リーデハルトにたいした関心はない。


 血で汚れたリーデハルトを、アフトクラトルが睨み付ける。


「貴様、何故、態と斬らせた」

「? 願われたからだけど」

「いくら望まれようと、他に方法はいくらでもあっただろうが!」


 眉間に皺を寄せ、いつもより厳しい顔をしていた。

 リーデハルトはこてりと首を傾げ、一度まばたきする。


「あれが一番楽だろう? 魔王と勇者らしくて。あ、羨ましかった? クラトルも斬ってみるかい、首」

「誰がその様な真似をするか!」

「そうだね。君はそういう男だ」


 リーデハルトの手が伸びる。アフトクラトルの首へ。

 体格に見合った無駄な肉のない首筋へ、細い指先が巻き付く。


「君だけは他の子と違って、叶えるのが難しい」


 例えば、災厄の彼らなら。

 ミスティは誰でもいいから愛してほしかった。

 シアンは誰でもいいから守ってほしかった。

 レオンは誰でもいいから見てほしかった。

 エフィメラは誰でもいいから認めてほしかった。

 セイントは誰でもいいから助けてほしかった。

 ルプスは誰でもいいから満たしてほしかった。


 そしてアフトクラトルは。


「ほら、私って受け身だから。自分から何かするのって、困るんだよね」


 首に巻き付いた指先が、ゆっくりと食い込んでいく。

 気道が塞がって、息が吸えなくなる。

 酸素が少なくなって、息苦しさを覚える。

 霞む視界の中で、アフトクラトルは――笑っていた。


「私に滅茶苦茶されたい、なんて。相変わらず困った子だね、君は」


 己より強く、己より優れた、己が認めた相手に、人生をめちゃくちゃにしてほしい。


 アフトクラトルは妾腹の子ではあったが、かつて国の王子だった。

 金の瞳を持つが故に戦争があれば軍の指揮を取った。

 他人を従えることはあっても、誰かに従うことはなかった。

 それがリーデハルトに出会って、初めて敗北を味わって。

 己の願いを自覚した。



 リーデハルトの手が離される。

 途端に入り込む空気にアフトクラトルが噎せる。

 涙さえ浮かべ苦しむ男を、青年はにこやかに見捨てる。


「そろそろますたーの所に行くから、後始末は宜しくね」


 軽やかに部屋から出ていく青年。

 無邪気で純粋で残酷な彼に振り回されて、男は唇を歪めて笑う。



 こんな歪んだ願いを、ただ一人だけは認めてくれた。初めは知らないままに受け入れて。過ごしていく内にすべてを知っても、離れてはいかなかった。都合の良いまま慈しんで、求めるだけ与えてくれた。


 歪んでいる自覚はあった。それを直す気は微塵もなかった。欲しいものを与えてくれる人が、変わることを求めなかったから。

 国を失っても。居場所を失っても。

 この人が愛してくれるから、その為だけに生きている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ