第伍の門
リーデハルトは椅子に座って扉を眺めていた。ふと口許を手で隠せば、大口を開けてあくびを溢す。じわりと浮かんだ涙が頬を伝い、煌めきながら落ちていく。
その隣にはアフトクラトルが立っている。まるでリーデハルトを守護する騎士のように、すらりと伸びた背筋が何とも凛々しい。
塔の最上階であるこの部屋は人が出入り出来るほどの大きな窓がある。最上階だけあって空気が薄く、気温が低いせいか霜が降りていた。まるでひび割れたかのように張り巡らされたそれが退廃的な空気を醸している。
自然光を取り入れた部屋は石造りの床や天井も相まって、随分と寒々しい。一目見た印象は打ち捨てられた廃墟のよう。
その奥に置かれた寂れた椅子に腰掛けるリーデハルト。月の光を溢した髪が自然光に照らされて、伏せられた瞳が穏やかに細まる。無意識に緩められた唇が柔らかく弧を描いた。さらりと流れた髪を耳にかければ、すっと持ち上げられた瞳がアフトクラトルを見つめる。
「何かもう帰っていいかな」
「黙れ喋るなここが帰るべき場だろうがそのままでいれば静謐で神秘を閉じ込めた我等が神成る尊き存在が欠伸等という下賎な人の真似をするなそこで大人しく座っていろ」
「凄く喋る」
アフトクラトルはリーデハルトが一喋るとノンブレスで百くらい返してくる。崇拝を拗らせていた。
「だって、皆が相手をしているから。ここまで来る人もそういないだろうし」
「喋るなと言った聞こえなかったのか同じ災厄と言えどもあれらは所詮人間風情だ貴様とは格が違うそう易々と我等に信を置くな貴様はそこで総てが終わるまでただ見ていれば良いそもそもここに近付く足音が聞こえていないのか人間の足音程度気にかける程でもないということかそれでこそ神成る貴き至高なる存在だ貴様はただ在るがまま在れば良い総ての些事は放っておけ」
「今日は調子が良いんだね」
リーデハルトは聞き流し始めたのを誤魔化すようにアフトクラトルの頭を撫でた。一瞬で叩き落とされた。じんじんする。
今日はお喋り絶好調のアフトクラトルをひたすら構い倒していると、ぎしりと金具が軋む音が聞こえた。ふっと振り返ればゆっくりと開いていく扉。現れた二人の人間に、リーデハルトが口角を持ち上げる。
口を開きかけて一瞬固まると、一旦口をつぐむ。目を瞬かせるリーデハルトは、鼻にかかるような甘い笑みを溢した。
「よくぞ参った、勇者よ。世界の半分を君にあげよう」
「リーデハルト=グラジオラス!!」
アフトクラトルが叫んだ。
***
「ふふ、ごめんね。シリアスな雰囲気はどうにも苦手なんだ」
にこにこと笑う魔王らしい青年は、酷く穏やかだ。どこかで聞いたような、いや微妙に意味が違う台詞を口にした彼はリーデハルトと言うらしい。
月光を編んで作られたといわれても信じてしまいそうな姿は美しく清廉で、性別がまったくわからない。その見た目は邪教と称された六柱の女神像に酷似している。
尚輝は部屋に一歩だけ進んだ場所で固まっていた。
待ち構えていたのは美しく穏やかな青年と、それを守護する男。男はどこか獰猛な黒豹にも似て恐ろしく、一部の隙もない。金に輝く瞳は怒りを孕み、自分を射抜いていた。
たくさんの仲間を連れてきたのに、今この場にいるのは尚輝自身と寡黙な執事だけ。そして敵である魔王と、その配下。果たして勝ち目はあるのだろうか。魔王の言葉をそのまま飲むらば、自分だけは生き延びられるのではないか。
言葉も出ずぐるぐる回る思考を放棄させたのは、共に来ていた仲間だった。
「お会いしとうございました、我が王よ」
震える声に視線を向ける。思わず瞠目し愕然とする。執事の顔は歓喜に満たされ歪んでいた。
限界まで見開かれた瞳と極端に狭まった瞳孔。三日月のように引き上げられた笑みは恍惚を宿し、普段の無表情を掻き消している。熱に浮かされた姿は夢遊病を思わせ、ふらふらと覚束ない足取りで男の元へと歩み寄る。浮わついた声は高揚しているせいで幾分か裏返っていた。
「ああ、我が王、我が主。戦の神、暴虐の主君。どうか国へとお戻りください。今は亡き我らが祖国を、あなた様が王となりて再びの繁栄を!」
真っ直ぐに向けられた瞳を受ける相手は、【帝王】アフトクラトルだった。
執事らしき青年の言葉に、アフトクラトルの金の瞳が色濃く煌めいた。眉間に深い皺が刻まれ、僅かに唇がひくつく。不愉快だ、と。心底から鬱陶しそうな表情を浮かべる男に、しかし執事は気付かない。
「え、え? 王って、なんで……国を裏切るんですか、アダンさん!」
尚輝が悲鳴に近い声を上げる。アダンと呼ばれた執事は首だけを尚輝に向けると、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「裏切ってなどいませんよ。我が主はただ一人。我が国はただ一つ。正当なる我が王が愚かな血統主義によって追放され、当然のごとく滅んだ我が祖国……その再興こそが我が宿願。追放され姿を消したあなたを、ずっと、探しておりました」
アダンが再びアフトクラトルに向き直る。今にでも跪かんばかりの姿はまさしく、主人に仕える従者そのものだ。
主人の立場であるアフトクラトルはそれを見て、しかし何も言葉を発することはない。視線だけを動かして隣を見れば、リーデハルトが懐かしそうに目を細めていた。
「王子時代のクラトルか……懐かしいね。あの頃の君も可愛かった」
「黙れ」
「血塗れで死にかけてる所を拾って育てたら、こんなに大きくなっちゃって」
「煩い」
「覚えているかい? 仲間を拾う度に『そんなに世話を焼くな』『俺だけでは不満足か』って泣いて嫌がって」
「それ以上喋るな」
「レオンが来た時なんか『貴様には失望したこんな場所俺から願い下げだ』て出ていっちゃって。暫く放置したら、一週間後くらいかな。帰ってきたと思ったら『強者は孤高でなければならない』って言い出して、家出を繰り返すようになって」
「止めろと言っている」
アフトクラトルの手がリーデハルトの口を塞いだ。喋り足りなかった青年は非難するような目でアフトクラトルを見たが、射殺す相貌にやり過ぎたかと反省する。
緊張感がない相手に尚輝は驚きと気味悪さを覚えた。これから殺し合うだろう空間とは思えず、それが強者の余裕の現れか、それとも死すら恐れぬ化け物なのかと不気味さを感じる。
アダンがリーデハルトへ忌々しそうな目を向けた。
「……それが、あなたが帰らぬ原因ですか」
アダンの赤い瞳が光る。
咄嗟にリーデハルトの襟首を掴んだアフトクラトルが、青年を抱えて跳びすさる。瞬間座っていた椅子が燃え上がった。火花を散らして燃えていく椅子に、リーデハルトの悲しげな瞳が向けられる。だが誰もそれに気付かない。
舌打ちをしたアダンが言葉を吐き出した。
「邪魔をしないでいただきたい。あなたのために、国を動かして、ここまで来たのです。私と共に行きましょう、アフトクラトル様」
「黙れ」
十分に距離を取ったアフトクラトルが手を離す。リーデハルトが無造作に床に転がったが、大して気に止めない。凄い雑、と呟きながら立ち上がる青年を無視して、アフトクラトルとアダンが対峙した。
緊迫感が漂う空間に尚輝は狼狽える。目まぐるしい空気の変わりように付いていけない。思い出したように大剣を構えるが、果たして誰と戦えば良いのだろう。
帰りたい、死にたくない、帰りたい。そのためには魔王を倒さなくては。
それだけを願う少年の元へ、願いを叶える宝神器は近付いた。