第四の門 2
ガラス瓶が砕け散り、青や紫の光が瞬く間に赤く濁った。中身の液体が蒸発し白い煙が上がる。
その瞬間、セイントの顔が苦痛に歪んだ。
地を蹴り男と距離を取るが、がくんと膝が折れてその場に崩れ落ちる。見開かれた瞳から大粒の涙が溢れ、ぼたぼたと頬を流れていく。
耳障りな男の高笑いが響いた。
「ふ、ふはは、ふはははは! やった、やったぞ。これで貴様はもはや戦えまい!」
懸命に顔を持ち上げて、セイントは男を睨み付けた。腕は痙攣し、高熱を出したかのように思考が定まらない。膝ががくがくと笑っている。
男がゆっくりと近付いていく。にやにやと下卑た笑みを浮かべながら、言葉を連ねていく。
「それは対応する宝神器の効果を打ち消す薬だ。貴様にそのグローブを渡す前は研究段階だったのだがな。やっと完成したんだよ。どうだ、力を失った気分は。災厄の中で貴様だけは他と違って、その宝神器がなければ何も出来まい」
目の前に立つ男が笑う。セイントが震える手を握り締める。
「言っただろう、神のご意志は我が身にあると。だが、人は誰しも間違うもの。貴様に過ちを正す機会をやろう。災厄から救ってやる。俺と共に来い、セイント」
男の言葉が途切れる。次の瞬間壁に叩き付けられた。遅れて轟音が響く。
ばらばらと崩れた壁の欠片が落ちていく。壁に埋まった男が血反吐を吐いた。
ゆらりとセイントが立ち上がる。長い睫毛に縁取られた瞳が、爛々と金に輝いていた。
「この程度で消える呪いなら、わたくしはあそこまで堕ちはしなかった。その程度で救われる罪過なら、わたくしはあそこまで苦しみはしなかった」
一歩前に進み出る。男がごくりと息を飲む。
「魔女ではないかと水に沈められた。魔女であると火炙りにされた。磔られ石打たれ、白杭に胸を貫かれても、それでもわたくしは死ねなかった」
再び前に進み出る。男が逃げようと体を動かすが、身動ぎしただけで抜け出せない。
「滅びはわたくしを見放して、殺されても安らぎは得られなかった。誰も彼もにわたくしは見捨てられた。あの御方が来てくださらなかったら、わたくしはきっと人の形すら失った災厄に成り果てたでしょう」
三度前に進み出る。男の顔が恐怖に歪んだ。確実な死を前にして、言葉にならない声をあげる。
「身を貶めた過ちよ、殺されて死ねる幸福者よ。この羨望を、この憎悪を……この怒りを、死と共に知るがいい!」
その叫び声は慟哭に似ていた。
***
ルプスと少女が睨み合っている。
ルプスは頬や腕、背に傷を負っていたがすべてかすり傷であり、息はまったく乱れていない。
しかし少女は息も絶え絶えで満身創痍だった。片目は潰れて、右腕が折れている。指は何本か欠けており、鋭い牙も失われていた。太股は抉れて大量の血で汚れている。
それでも殺意は欠片も薄れておらず、立つのも困難な状態でまだ戦おうとしている姿は酷く痛々しい。
「殺す……ッ! お前だけは、絶対に殺してやる!」
血を吐きながら呻く少女。それを見るルプスの目は冷めていた。
獣人は強さを尊ぶ傾向にある。自らよりも強い相手に無駄に戦いを挑むことは少なく、挑む場合には群れを守るためだったり、ボスの命令だったりと絶対的な理由がある。
しかしこの少女からはそういった理由は感じ取れず、ただ私怨のためだけに動いていた。
獣人の中でも特に狼人族は、行動を伴わない口先だけの存在を軽蔑する。殺すと言うなら必ず殺す。手段は選ばない。選んでいたら殺せない。
仕留めるためには周到な罠を張るし、一対一で殺せないなら仲間と挟み撃ちにする。狩りは常にペアで行い、孤立して単独で行動することは有り得ない。
獣人は戦士ではない。口にした言葉は必ず成し遂げる。そのために準備し、用意し、実行する。
それすらせずただ喚き散らす少女はそれこそ口先で語る戦士とは程遠かった。
「我が父の仇……ッ! お前だけは、許さない!」
「そうかよ。なら殺せよ。口先だけでなくてよォ」
ルプスの手が少女の首にかかる。指先に力を込めれば薄い肉に爪が食い込んだ。皮が裂けて血が流れ出す。少女の喚きは止まらない。
「群れの最下層だったくせに! 群れのボスに、我が父に拾われて生かされておきながら、恩を仇で返した恥知らずめ! お前に誇りはないのか!」
「あァ? 何言ってんだ、恩もねェし生かされてもねェよ」
「ふざけるな! 獲物を分け与えられておきながら、どの口が」
「分け与えられたことなんざ一度もねェ。ありゃ俺が狩ってきた餌だ」
少女の瞳が怒りに燃えた。首に食い込む手に爪を立てるが、ルプスが痛がる気配はない。平然と腕を持ち上げれば、少女の両足が宙に浮いた。
少女が両足を振り回すようにばたばたと暴れるが、たいした抵抗にはならなかった。
「一人で転々と暮らすより群れにいる方が楽だった。だから協力して、餌も渡してやった。それを調子付きやがったのはあいつらだ。誰が自分より弱い奴に服従するんだよ? 俺が狩ってきた獲物を全部横取りしやがって。空腹で餓えて仕方がなかった。そこに群れから抜けるなら強さを示せ、殺してみろ、なんざ言われたらよォ……喰い殺すだろ、普通」
「普通、だと」
「一度吐いた唾なら飲むな。常識だろ。殺せと言われたから殺した。餓えて仕方がなかったから喰った。他の奴等は襲ってきたから返り討ちにした。どこがおかしいよ。少なくとも、逃げ隠れてたテメェが言えた義理かよ」
「逃げてなどいない! 私は、私は機会をうかがって!」
「弱い奴が頭張ってるから死ぬんだよ。俺のボスを見習えよ。餓えて血迷って襲った俺を叩きのめして、空腹だとわかったら腕を喰わせてよォ。人を従えるなら、それくらい出来て当然だろ」
首を締め上げた手に力を込める。気道が塞がる。血流が止まる。もはや言葉も話せない相手に、ルプスはどこか恍惚としたまま呟いた。
「あの時のハルトさんの腕は旨かったなァ……もう一度喰わせてくれねェかな」
ごきりと鈍い音が響く。暫くびくびくと痙攣していたが、やがて力を無くした手がだらりと落ちた。
重さを増した少女をルプスは投げ捨てる。放物線を描いて床に叩き付けられた。ぐしゃりと、赤が弾けた。
同族は喰っても腹の足しにもならない。同族同士で喰い合いや殺し合いを避けるために、敬遠し嫌う味覚になっているとルプスが知ったのは喰らった時だった。
それでも飢えて餓えて死にかけて仕方なく腹につめて、それでも足りなくて餌を探して彷徨った。
兎や野鳥だけでなく、家畜や作物も喰らった。同族でなければ餓えは凌げると他種族の獣人も喰らった。手間がかからず数も多い人間は楽に狩れるので好んで狙った。
どれだけ喰らっても餓えて仕方なかった。どうしようもなかった。それらから解放されたのは、ボスと崇める青年に出会ってからだ。
腹だけでないどこかが満たされて、どこが満たされたのか考えようとも思わないくらいに餓えを忘れられた。
欠けた部分が満たされる幸福に、初めて出会えた。
部屋には破損した二つの死体が転がっていた。黒髪の少年と執事服の男の姿は見えない。戦っている間に先に進んだのだろう。
リーデハルトの期待通りとは程遠いかもしれないが、ルプスはわざわざ追い掛けるような真似はしなかった。この先には主人と定めた、自分よりも強者が待ち構えているからだ。
それならば後処理のために準備しておいた方が役に立てると考えたルプスは、血塗れの両手を無感動に見つめていたセイントへ駆け寄った。
***
Sランク冒険者は、災厄・災害と同一視されている。
地道な努力を否定するかのような強大な力の顕現たる存在で、話し合いすらろくに通じない危険な冒険者。産まれつき膨大な魔力を宿して、力の中で生きてきたが故に倫理が欠落している。
しかし、血の繋がる家族に捨てられ、そこに暮らす人々に憎まれ、出会ったすべてに疎まれてきた存在が、まともな価値観をどうやって育めばいいというのだろうか。
傷付き膿んだ感情に、どうして折り合いをつけなければならない。
清算出来るほど癒えることがない記憶に、どうして区切りをつけなければならない。
殺さなければ殺された。奪われたから奪い返した。そのどこに非難される理由がある。
それ以上に。貶めた奴等が笑って生きているのを、何故許さなければならないのだ。
過去のせいで狂ったのか、狂っているから相応の過去があるのか。
どちらであろうも過ぎた日々の記録は消えない。切っ掛けがあればいとも容易く振り返す。
そんな狂った世界の中で、ただ一人だけは認めてくれたから。知らないままに受け入れて、すべてを知っても離れてはいかなかった。都合の良いまま慈しんで、求めるだけ与えてくれた。
だからセイントは、ルプスは。災厄と疎まれた彼等は。
あの人が愛してくれるから、その為だけに生きている。