恐怖
廊下を曲がる。通路を走る。扉を開ける。階段を駆け上がる。息が吸えない。胸が痛い。喉が熱い。壁にぶつかる。段差に躓く。人がいない。誰もいない。鼓動が早い。耳鳴りがする。目の前がぼやけて白く染まっていく。
早く呼ばないと殺される。根拠もなくそう思う。いいや、根拠ならある。
あの目がそう語っていた。あの金の瞳が、裂けた瞳が。己を捕らえたあの恐怖が。手足の先から侵してくる前に。心の臓にたどり着く前に。
早く見付けないと。早く呼び出さないと。あの恐怖が、目の前に現れる前に。
足が縺れる。上手く走れない。早く、速く、走らないと。
転びそうになったテオドシオは何とか踏みとどまって、もう一歩踏み出そうとした。しかし前へ前へと重心を傾けすぎたせいで、体が傾ぐ。腕が動かない。息が止まる。倒れていく。床がどんどん近付いて、ぶつかる寸前。
「おっと、大丈夫かい?」
温かな手に抱き止められて、一瞬で全身の血の気が引いた。
「……あ、ッ……」
目の前で穏やかに笑う人。綺麗な月の光のような瞳に見つめられ、体が硬直した。
優しい人だと思っていた。素敵な人だと思っていた。綺麗で、柔らかくて、和やかで、安心できる人。けれどこの人は。あれらと同じで、災害と同じで、災厄と同じで、決して相容れない人なのだと知った。
憧れていたのに。尊敬していたのに。この人のように、強くて、清くて、正しくなりたいと、思っていたのに。
喉の奥で言葉が消える。目の前が闇で閉ざされていく。彼と一緒に仕事をして、休憩時間には皆と語り合って。この人といた日々の全てが、優しい嘘だと知ってしまった。
噂で聞く彼は、おぞましくて、恐ろしくて、怖くて、冷たい人なのだと――
「テオ?」
心配そうな目で見つめられ、テオドシオは呼吸が止まった。落ち着いた声がその場に落ちて、煩いほどに荒ぶる心がゆっくりと和らいでいく。浅い呼吸に気付いたのか、リーデハルトが後輩の背を擦った。静かな声で語り掛けられて、恐怖に支配されていた思考が少しずつ元に戻っていく。
「息を吐いて、ゆっくりと、長く、細く。吐き終わったら止めて。いち、に、さん。息を吸って、ゆっくりと、深く、大きく。大丈夫、大丈夫だよ。怖いものは何もない。怖いことは何もない。大丈夫だよ、テオ。もう、大丈夫」
優しくて、穏やかな声が繰り返す。大丈夫、大丈夫だよ、と。
息を吸って、息を吐いて。荒れ狂う鼓動が落ち着くまで、リーデハルトはテオドシオの背を擦って語り続けてくれていた。
呼吸が平常に戻る。喉の熱が引いていく。体に血の気が巡り、硬直から解放されていく。自分の足で立てるようになったテオドシオは、しかし触れる熱から離れるのが惜しくて、その場から動けずにいた。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「……はい、ありがとうございます。ハルト先輩」
緩やかに頭を撫でられる。髪をすく指先が心地良い。
胸に押し付けられた頭をそのままに、リーデハルトは腕を回して竦んだ後輩を抱き締めていた。
起伏のない胸に意外と硬いのだなと埒も無いことを考えつつ、テオドシオはほっとため息を吐く。
恐怖に混乱していたが、やはり先輩は優しい人のままだった。Sランクだからといって話が通じない訳でもなく、突然暴力に訴えることもなく。穏やかで、静かで、落ち着いた人。強くて、正しくて、頼もしい人。怯えて戸惑う己を嫌な顔一つせずに抱き締めて、呼吸が整うまで待っていてくれた情け深い人。
顔をあげれば、先輩は目の前で穏やかに笑っている。綺麗な月の光のような瞳に見つめられ、強ばりが解けていった。
優しい人だった。素敵な人だった。綺麗で、柔らかくて、和やかで、安心できる人。Sランク冒険者に認定されていたけれど、この人は。あれらと違って、災害と違って、災厄と違って、相互理解が可能な人なのだとわかっていたのに。どうして己はあれほどまでに取り乱してしまったのだろう。
憧れている。尊敬している。この人のように、強くて、清くて、正しくなりたい。
喉の奥で言葉が消える。目の前が涙でぼやけていく。彼と一緒に仕事をして、休憩時間には皆と語り合って。この人といた日々の全てが、優しいまま胸に灯される。
嗚咽を耐えながら紡いだ声は震えていたが、リーデハルトは話終えるまで辛抱強く聞いてくれた。
「冒険者、の……ロコ、という方が、ハルト先輩に用があると……」
「うん、わかった。すぐに向かうよ。対応してくれてありがとう。よく頑張ったね」
柔らかく頭を撫でられて、幼子に戻った気分になる。気恥ずかしくて照れたように笑えば、先輩の青年も笑ってくれた。
手を振って去っていく彼の背を見送る。さらさらとなびく髪が月の光を思わせて、紺色の職員用ローブも相まり、夜空に浮かぶ月のようだった。
やがて青年が廊下の角を曲がり、姿が見えなくなった廊下を眺めながら、テオドシオはふと呟いた。
「そういえば、あんなに近くにいて抱き締めてもらったのに、心音は一度も聞こえなかったな……」