女の話
ツィオ=ヴリコスは公爵家の娘として産まれた。赤い髪は父譲り、華奢な見目は母譲り。可愛らしく愛らしい娘は、本当なら産まれてきたことを祝福されるはずだった。けれど一つだけ、たった一つだけ。唯一とも呼べる欠点によって、幸福に満ちるはずだった人生は打ち壊された。その瞳が金で産まれてしまったことだけが、すべての災厄の始まりだった。
この世界で太陽は神の化身とされている。太陽の光を受けて輝く月は神の力を分け与えられた御使いであり、光を受けつつも自ら煌めく星は人間を表している。
神話の時代を終え神が人の世から離れても、分け与えられた力は人の世に取り残された。置いていかれたそれは時代を経るにつれ、わざと置き去りにされたのだと、不要であるとして廃棄てられたのだとささやかれていく。
金は太陽、神の色。すでに人の世から離れた遠きもの。捨てられた力であり見離された加護であり、神の認知しない神の力である。
それ故に金の瞳を持って産まれてきた子は、神の物ではない神の力を持って産まれ落ちてしまった子は。神に見離された祝福されぬ存在だと呼ばれるようになってしまった。
彼女の母は気味悪がった。金の瞳などおぞましいと、自分の娘ではないと言い張った。
彼女の父は噂を迷信だと切り捨てた。俯く彼女を嘆いても、疎まれる彼女の痛みは理解しなかった。
彼女を見た者達は恐れを抱いた。金の瞳は災厄だと噂して、姿を見るだけで嫌悪した。
そのせいかツィオは、引っ込み思案で大人しく、常に俯いているような、貴族の娘らしくない娘になった。父である当主はかこつし、娘を見る度に小言を告げた。
顔をあげろ。背筋を伸ばせ。俯くな。背を丸めるな。胸を張れ。自信を持て。お前は公爵家の娘なのだから。
父の言葉にツィオはどんどん自信を無くしていく。
どうして父の言う通りに出来ないのか。どうして自分は自信を持てないのか。どうして他の子達は出来ているのに、自分だけこんなに簡単なことさえ出来ないのか。どうして自分は、誰にも愛されない金の瞳で産まれてきてしまったのか。
自責の念と人への恐怖で、ツィオは余計に外出を嫌がり社交場には出なくなった。
当時プロムラリスは執事長ではあったが、まだ幼い彼女の世話係も任されており、控えめで常に顔を下げているツィオをいつも心配していた。
ある日、彼女は伯父を呼びに屋敷の地下室に来ていた。
貴族というのは本来長子相続だ。しかし当時のヴリコスは、兄であるツィオの伯父よりも弟である彼女の父が能力面でも精神面でも優れていたために、弟が当主を相続していた。
そのせいで何くれと口さがない周囲の対応に疲れた伯父も外出を嫌って、誰も訪れない地下室に引きこもるようになっていた。何か重要な案件がある時は伯父も話し合いに参加するのだが、弟である当主が呼びに行くと角が立つ。しかし使用人の呼び掛けには応じないこともあって、呼びに行く役目は姪にあたるツィオに任されていた。
地下室は冷たくて暗くて、とても怖い場所だった。伯父が何をしていたのか詳しいことは分からない。けれどいつだって、誰かが泣く声が聞こえていた。
助けて。帰して。痛い。苦しい。どうして。なんで私がこんな目に。
若い女性の声が常に聞こえていた。毎回違う声だった。
伯父様と呼び掛ければ、嘆く声はびたりと止まるのだ。そして大きな鈍い音が響いて、少ししたら伯父が顔を出す。伯父の両手は綺麗なままだったが、服の所々が赤く染まっていた。
「迎えに来てくれたんだね、ツィオ。着替えたらすぐに行くよ。ああ、分かっていると思うが、ここでの事は誰にも言ってはいけないよ。これ以上皆に迷惑をかけたくないだろう?」
伯父は無機質な笑顔を浮かべると姪の頭を撫でて出ていった。いつもならそこでツィオも父の元へと戻るのだが、その時は違った。
少女は何かに惹かれた。彼女は何かを求めた。
しかし何かが何であるのか分からない。蟠りのような不思議な感覚に導かれ、ツィオは地下室に踏み入った。
そこは赤い世界が広がっていた。壁も、床も、器具も、家具も。おおよそ人が生活できる場所ではなく、酷い鉄の匂いが染み付いていた。
床には一人の女性が転がっていた。ツィオは恐る恐る近付くと、そっと覗き込んだ顔に驚いた。
女性はとても美しかった。纏う衣服や両手を見れば貴族の娘ではないと分かったが、その美貌はさながら深窓の令嬢と呼んでも差し支えないほどだった。
羨ましかった。妬ましかった。これだけ美しければ、自分だって俯かずに済んだのだろうと、自信を持って前を向けるのにと。名も知らぬ女性に嫉妬した。
女性の顔に触れる。両手が赤く染まる。女性の顔を撫でる。両手の血が蠢く。
ぞわり。
一瞬の寒気と、心臓が跳ねる熱。女性から流れていた血液が蠢いて、ツィオの両手に吸収された。
驚きとパニックで悲鳴をあげかけて、慌てて飲み込む。伯父にばれてしまう。ばれたら叱られてしまう。どくどく跳ねる鼓動を落ち着かせて、ふっと息を吐いて両手を見れば、その違いに驚愕した。
自傷で爪の痕が残っていたはずの両手が、傷一つない綺麗な肌に変わっていたのだ。さながら床に倒れる女性と同じような美しい肌に、ツィオは困惑と同時に昂りを覚える。
鼓動が強く跳ねてはどきどきと大きな音を立てている。
ごくりと唾を飲み込んで、ツィオは血溜まりに手を伸ばす。
吸い込まれていく赤色に、酷く気分が高揚した。
顔をあげて廊下を歩く。鼻歌でも歌い出しそうな気持ちで、軽やかに部屋へと向かっていく。艶やかな長髪をたなびかせ、大きな金の瞳を煌めかせ。
俯かずに歩むツィオを見かけたプロムラリスは、思わずといった様子で声をかけた。
「おや、お嬢様。今日はご機嫌でいらっしゃいますね。何か良いことでもありましたか」
「……! えっと、あの、わたしね、その……」
話が拙く言葉に詰まるツィオを優しく見守りながら、そういえばと執事はぽろりと言葉をこぼす。
――随分と綺麗になられましたね、と。
「……ほんとう!? えへへ、そう、見えるかしら?」
「ええ、自信に満ちていらっしゃいます。今のお嬢様は大変お美しいですよ。社交場の誰にも引けをとらないほどに」
「そう、そう! ねえ、プロム。わたし、きれいよね?」
「はい、お嬢様。神話の女神のようにお綺麗です」
「うふ、うふふ! そうよね、誰かに、ほめられるくらい、綺麗になったのよね!」
それはプロムラリスにとって、安堵の感想以外の何物でもなかった。普段は俯いて、顔を隠している少女。金の瞳を疎んで、時には自傷すら仕出かす彼女が満ち足りた笑顔でいる現実に、ただ安心しただけなのだ。
しかしツィオにとってそれは、初めてにも等しい、事実初めての褒め言葉だった。地下室で赤色に浸ってから、気分が高揚している。未知の体験に心臓が熱くなり、鼓動が強く弾んでいる。そこに加えられた肯定の言葉は、金の瞳で産まれてしまっただけで否定されてきた少女が、盲目的にすがり付くには充分だった。
言うなればタイミングが悪かった。偶然が重なった。そこに齟齬が発生していることに、少女も執事も気付いてはいなかった。
綺麗になれば褒めてもらえる。美しくなれば肯定される。
美しい人の血を浴びれば、もっと綺麗になって、皆にもっと褒めてもらえる。否定されてきた存在を、やっと認めてもらえる。
ならば美しい人を集めるためには、どうすればいい。もっと血を集めるにはどうすれば。母は駄目だ。私のことを否定する。父は駄目だ。私の願いを拒絶する。ならば誰が。ああ、そうだ。
伯父が当主になりさえすれば、もっと人を集めてくれる。人を集めさえすれば、もっと私は美しくなれる。もっと美しくなれば私は、皆に、プロムに褒めてもらえる。
――最悪の偶然が折り重なって生まれた奇跡が、血を奪い命を奪う災厄の始まりで、すべての終わりに繋がった。
少女はただ、もう一度、褒められたかっただけなのに。