愚行
腕輪が熱を帯びる。じわじわと痛みが広がり、ゆっくりと手首の感覚が鈍くなっていく。痺れるような感覚に困惑したまま公爵を見詰めると、男はにこやかに笑っていた。
リーデハルトは神の器である宝神器だ。本来ならば状態異常には掛からず、痛覚も常人のそれとは異なる。一流の冒険者が昏倒するような毒すら涼しい顔で喰らってみせる青年は、常とは違う現状に混乱した。
どこか遠くで、きちきちと声がこだましている。さざめくように、さんざめくように。どこか近くで、きいきいと鳴く声が聞こえている。
膝が震えて立っていられない。体から力が抜ける。青年はふらつくと、その場にしゃがみこんだ。浅く息を吐くリーデハルトを見て、公爵は一層笑みを深めた。
「どうやらグラジオラス殿は体調が悪いようだ。すぐ休める部屋へご案内して差し上げろ」
男の言葉に、控えていた侍女の内二人が動く。
蹲る青年を支えると立ち上がらせた。青年の体重をお互いに分散させ、速やかに誘導する。あまりにも素早い動きに、この行動に手慣れていることがわかった。
青年は顔を俯かせたまま、視線だけを男に向ける。公爵は実に楽しそうだった。まるでこうなることを望んでいたように。
ああ、そうかと。青年は納得した。
公爵は己を捕らえようとしている。逃げられないように、逃げ出さないように。動きを止めることを、願っているのだと。
宝神器は人の為に作られている。人の願いを叶える道具、人に使われる便利な道具。特に神の意思が宿る特別なそれは、無意識に願いを叶える性質を持つ。人の願いを受け入れ、人の願いを叶える。願望器にも似た性質を。
他者の不利益になるのであれば叶えることは出来ないが、その被害が自分だけで済むのなら。その害悪が自分だけに向くならば。
神の器がその願いを拒絶することはない。真実希うならば、彼は己を賭けてそれを叶えるだろう。
公爵が望んでいるが故に、青年は微かに笑って大人しく痺れに身を任せた。
連れていかれた先は地下室だった。部屋の中へ押し込まれて、その場にくずおれる。侍女が退室すると重い鉄の音が響いた。出入口を見れば格子状の鉄柵で塞がれている。立ち上がろうと床に手を付けば、固い物体に触れた。訝しげに確認して気付く。
それは女の遺体だった。一人や二人ではない。何十人もの遺体がそこかしこに転がっていた。
四肢が欠損していた。顔が破損していた。胸がはだけられ、空洞の胸骨が見えていた。そのどれもが干からびている。まるで枯れ枝のように。血が抜かれたようなそれを見て、かつての噂を思い出す。
一万の民が干からびた、吸血鬼の支配する地
響いた足音に青年は億劫そうに振り返る。
出入口に立つ男は笑っていた。格子の鉄柵を挟んで向かい合えば、静かな、それでいて耐えかねた声が零れ落ちる。
「……やはり、美しい」
公爵が譫言を呟く。赤い瞳が劣情を孕み、熱が点る。
共鳴するように腕輪が熱を発した。瞬間、痺れを越えた激痛が手首に走る。青年が目を見開く。呼吸が止まる。ふっと意識が遠退き、頭を床に打ち付けた。
ごとりと何かが落ちる音。ぎちぎちと何かが蠢く音。無理矢理息を吸い込めば、ひゅぐっと空気が喉に詰まる。
眉間に皺を寄せ歯を食い縛る。片手で床をかき顔をもたげれば、より鮮明にぎいぎいと声が聞こえた。
視線を向ければ腕輪をはめた手首が見える。焼け爛れたかのように肉が崩れていた。手首がちぎれかけ、覗いた腕輪と隙間の影が動く。
蠕虫だった。青年の小指ほどの大きさと太さのそれは、身の丈に合わない大口を開閉している。口の中は鋭い歯がびっしりと生えていた。一本一本が赤く染まり、肉片が付着している。ちぎれかけた手首を見れば、いくつもの穴が空いていた。
冷や汗で前髪が張り付く。顎を伝ってぼたぼたと汗が床に落ちていく。
一度目を閉じれば深く呼吸を繰り返した。再び開いた月白の瞳は凪いでおり、公爵をひたと見据えている。
公爵は向けられた視線に歓喜で打ち震えると、大仰に青年を持て囃す。
「素晴らしい! 実に素晴らしい! 肉を食いちぎられても、地下に押し入れられても、数多の死体に囲まれようとも、涼やかで乱れぬその瞳! 苦痛に満ちたその表情! 美しい! 実に美しい! 女神に似た職員など随分誇張の過ぎた賛辞だと思ったが、噂を信じて良かった」
高揚したまま言い募る姿は酷く浅ましい。這いつくばる青年を凝視すれば、赤い瞳が爛々と輝く。男の瞳と連動しているのだろうか、腕輪が細かく震えた。蠕虫がぎいぎいと鳴いている。落ちた手首に食らい付いている。
熱に浮かされたまま、男は吐息混じりの声を吐き出した。
「素直に腕輪をつけてくれて助かったよ。やはり案内した者が同じ道具をつけていれば、誰も疑いはしないのだな」
公爵は自慢気に言葉を重ねる。目の前の青年をじっとりと見詰めながら、解説するように不要な情報まで開示していく。陶酔した様は非常に滑稽だった。
「それは特別製でね。元は所有者の位置情報を管理するものだったが、ずっと昔に管理機を紛失してしまってね。腕輪ばかりあっても勿体無いだろう。少し細工したんだ。気に入ってくれたかな?」
すぐ傍で、きちきちと声がこだましている。さざめくように、さんざめくように。胸の内から、きいきいと鳴く声が聞こえている。
「ああ、そう平伏していてはよく見えないな。立つと良い。君のすべてを見せてくれ」
男の言葉に青年は顔を伏せた。
願われている。望まれている。希望している。希われている。それならば、叶えない訳にはいかないだろう。
震える足を叱咤する。片腕だけで上体を起こす。手首にかじりつく蠕虫を踏み潰し、青年は時間をかけて立ち上がる。
顔をあげて公爵と目を合わせれば、彼は穏やかに笑って見せた。
「いいよ。全部、奥の奥まで見せてあげる」