燃えました
リーデハルトはレベル6のダンジョンに足を踏み入れた。薄暗く奇妙な洋館は見た目相応にゴースト系の魔物ばかりが現れる。実体のないそれらは負の思念体に近く、精神感応が高い。
傍にあるだけで気力が奪われ、性質によっては仲間割れや争いを引き起こす。物理攻撃は効かず魔法での対処法しかないゴースト系は、他の魔物と比べ討伐難易度が高かった。
リーデハルトもまた、ゴースト系の魔物が好きではなかった。
揺蕩う影法師のように彷徨うゴーストが行く手を塞ぐ。骨を模した大きく透けた手が、青年の体を通り抜けた。心臓部に触れた瞬間、血の気が引くように体温が下がる。
ゴースト系の基本攻撃だが、芯から凍えるような感覚に動きを止める冒険者は多い。状態の異常を生じさせ体力だけでなく精神力まで磨耗させるゴースト系は、単純に力が強いミノタウロスや戦術を組むゴブリンとは別種の厄介さがあった。
しかし、それは通常の冒険者の話である。リーデハルトは神の器、権能宿りし宝神器。人の形を模した人でなし。どれだけ心核に触れられようと、状態の異常など起こるはずがない。気力や活力が奪われることもない。
だから嫌いなのだ。まるで心がないのだと突き付けられているように思えるから。人でない事実ならともかく、心がないのだと断じられることは耐え難かった。
同胞と兄弟と、それ以上に、契約者と過ごした日々を否定されているようで、思念体の感情に心を動かされない自分を認めたくはなかった。
青年は無表情のまま右手に炎を灯す。無造作に払えば、はぜる音と共に目の前のゴーストが蒸発した。床に敷かれたぼろぼろの絨毯に燃え移れば、指向性のない炎が辺りに拡がっていく。
一本道の長い廊下から続く広間、扉の外れた各客室や、申し訳程度に置かれたランプが炎に飲み込まれていく。
飾られていた騎士の鎧が熱で溶け落ちた。壁にかけられていた額縁がひび割れ、中の絵画が焦げて変色し、やがて燃え尽きる。
一度手から離れた炎は、魔力ではなく酸素を材料に燃えていく。燃えるための材料がなくなれば火は自然に消えるものだ。
しかしダンジョン内は魔力溜まりの変質による一種の亜空間になっているため、酸素が燃え尽きることはない。つまり青年の放った炎は、自ら消火しない限り延々と燃え続けることになる。
気付いたときには手遅れだった。周りが炎で囲まれている。完全に重度の火災現場だ。
リーデハルトは思った。こいつぁやべえな。
うっかり何も考えずに射出した炎がまさかこんな惨状を作り出すとは、夢にも思っていなかった。軽い気持ちで始めたことが身を滅ぼす原因になるのはよくあることである。
はぜて燃える炎を前に、青年は表情ひとつ変えなかった。何も言えないから。
とりあえず消火しなければという一心で、今度は水流を発生させる。渦を巻き龍のごとく形成されたそれを炎に向けて振り下ろす。勢い付いた水は炎を覆い尽くし前方へと流れ出す。
ウォータースライダーの完成だった。燃え尽き焦げ付いた鎧や絵画、ランプや家具がすべて流されていく。
リーデハルトは思った。これもうどうしようもないな。
しばらくすると、いったいどこに隠れていたのか。存在を忘れていた執事長が現れて青年に声をかける。
「……さすか、二つ名持ちですね。炎で敵を殲滅し、水ですべてを押し流す。圧巻の戦術です」
誤解だった。完全にやっちまっただけである。
リーデハルトは黙したまま微笑む。それだけでどこかただならぬ雰囲気を感じてもらえるのだから便利なものだ。彼はこの表情を頻繁に利用していた。青年は見た目で得するひとである。
「これなら、貴方なら、可能かもしれない」
一人呟く執事長は何かを決意したのか、一度頷くと青年を見据えた。
「貴方に見せたいものがあります」
ついてきてくださいと言ってどこかへ案内する男の後を追い、リーデハルトは焼け焦げ原型を留めていない絨毯を踏み締めた。