救命
ルプスの口が開かれ、唾液が滴る白い牙と血のように赤い舌が覗く。意識のない男の首を噛み千切ろうと、剥き出した牙を突き立てた。
瞬間血潮が飛び散った。溢れ出した血液が唾液と混ざり舌に絡み付く。鼻から抜けた鉄の匂いに気分が高揚する。
どこかで味わったことのある感覚に、瞬時に意識を覚醒させたルプスは目を見開いた。急いで牙を引き抜き顔を上げる。
突き立てた牙は首ではなく華奢な腕を貫いていた。噛みちぎられた肉が男の口に残り、流れ出した鮮血が地面を濡らし濃く染めていく。
「何をしているんだい」
優しい声に体が震える。唇から顎まで染めた唾液と血液が妙に生温かった。視線が定まらず、腹の奥か冷えていく。
視界に入った青年の左腕に、一気に吐き気が込み上げた。
「もっ、申し訳ありませんボス!」
悲鳴じみた絶叫をあげ、獣の男が噛み付いた腕に縋る。対する青年は表情を変えず、いつも通りの笑顔だった。
「謝ることはないよ。私はただ、何をしていたのか聞いただけだから」
忙しなく動く狼耳を右手で撫でながら、リーデハルトは穏やかに微笑んでいた。食いちぎられた左腕は肉が削げ落ち、白い骨すら赤く汚れている。
損傷し崩れかけた腕を持ち上げて眺めた青年は、目の前の男を見遣り問い掛ける。
「もしかしてお腹空いてる?」
突然の質問に付いていけずルプスは呆ける。力が抜け開いていた口に、青年は血塗れの左腕を突っ込んだ。
喉の奥まで押し込まれた腕に獣はえずく。舌に青年の血がまとわりつき、思わず吐き出しそうになる。
ルプスはこれ以上青年の腕を傷付けないために、即座に自身の顎を外した。閉じられなくなった口から赤く色付いたよだれがぼとぼとと溢れていく。見開かれた瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちていた。
青年の無遠慮な指先が男の舌を弄ぶ。口蓋をなぞり頬を擽り、静脈をたどり舌小帯を撫でる。濡れた口の中は生温く、溢れる唾液と血液は指に粘着した。
吐き気に耐え、呻き、涙を垂れ流しにしたルプスを眺め、リーデハルトは笑顔のまま首を傾げる。穏やかな声音はその場の惨状に相応しくなかった。負傷し苦痛に耐えるべき存在は果たしてどちらなのか分からなくなる。
「どうしたの、食べていいんだよ。あ、もしかして食べにくい?」
そのまま表情一つ変えず、青年は肘の先から左腕を引きちぎる。獣の口から伸びる腕が力なく地面に垂れた。
より強くなった血臭に獣が肩を震わせる。血の気が引き蒼白になった顔は恐怖していたが、その瞳の奥に宿る熱は隠せていなかった。
喰らい尽くし貪り尽くす獰猛な飢餓感に支配されながらも、自らのボスとして認め崇拝する青年を食むことを拒絶する。
男のそんな葛藤に気付かず、リーデハルトは後ろに控えたセイントに声をかけた。
「ギルド長からラントの職員を無事に送り届けるよう指示があったんだけど、何かあったの」
どうして倒れているのか訊ねる青年に、獣の男を睨み付けていた修道女は即時に表情を変えた。恍惚としながら悦ばしげに語り出す。
曰く主たる青年のその高貴ささえ知らず勧誘し、自分達から奪い取ろうとしたのだと。神たる青年の優しさを享受したにも関わらず、その価値に理解を示さなかったのだと。それ故に二度と勘違いなど起こさぬように身の程を知らしめたのだと。
身勝手で独善的な主張にリーデハルトはとりあえず頷き、何かを考えるように空を見上げながら自己修復を開始する。
引きちぎった肘から滴り落ちる血液が蠢き、筋繊維を形成し回転する。肘先に凝縮すると腕の形を固定するように停止し、赤い肉を覆う皮膚が組成された。
寸時に元通りに直った腕を動かし、青年は不備がないか点検する。動作に異常がないことを確認すると、やおら女に向き直り疑問を呈した。
「なんで君ってそんなに私を崇拝してるんだっけ」
セイントは元々、南方民族の宗教である唯一神を信仰していた熱心な修道女であった。
他のSランクならいざ知らず、彼女は既に規範と規律を持ち合わせていたはずなのだ。こうしてリーデハルトを慕うほど愛に餓えていた訳ではあるまいに。
青年の言葉に彼女は一瞬だけ不思議そうな顔をすると、ぱっと花開くような満面の笑みを浮かべた。胸元で組んだ両手を握りしめ、リーデハルトに近付き顔を見上げる。
途中で気絶していたラントの職員を踏んだが、お構い無しに嬉々として喋り出した。
「それはもちろん、あなた様がわたくしを救ってくださったからですわ」
蕩けて熱に浮かされた瞳で見詰めながら、セイントは弾む声を上げている。その姿は良く言えば恋する乙女のようであり、直接的に表すならば狂信者そのものであった。
語りが長くなりそうな気配を察知した青年は「やっぱりいいや」と彼女の言葉を遮る。青年の態度に気分を害した様子もなく、セイントは「かしこまりました」と了承し黙した。
傷付き埃と血にまみれ地に伏せるイルをリーデハルトは持ち上げる。ぐったりした男に治癒魔法をかけ損傷箇所を修復すると、後には無傷で血色の良くなった男が眠っていた。
擦り切れてぼろぼろになったはずのマントは新品かのように綻び一つない。追い掛けられ無くしたはずの眼鏡を拾っていた青年は砕けたレンズを直し、眠る男にかけてやった。
出来るならば記憶を改竄しSランクから受けた惨状を忘れさせたかったが、神の器であるリーデハルトにそこまでの権能は付与されていない。
諦めてラントへ向かおうとした青年に、修道女が瞳を潤ませながら提案する。
「ハルト様がお手を煩わせる必要はありませんわ。わたくしがラントのギルドへ捨てて参ります」