逃亡
帝都と隣国ラントを繋ぐ荒れ地に轟音と地響きがこだまする。地面が抉れ砂埃が舞い、砕かれた巨岩が欠片となって降り注ぐ。
降り頻る礫を掻い潜りながら、男は必死に逃げていた。羽織ったマントの防御魔法陣がかろうじて男を守る盾となり、薄汚れ破けてもなおその効果を発揮する。
逃げる男を追い掛けるのは二つの人影。笑い嘆く修道女と笑い怒る獣の男。
女の拳が地面を割り砕き、男の牙が巨岩を噛み砕く。いたぶるように追い詰めて、なぶるように攻め苛む。その瞳に宿るはただひとつ、狂おしいほどの盲信だった。
逃げる男は走る。走る、走る、走る。駆け回り駆けずり回る。息が切れても足が擦り切れても止まらない。ひたすら逃走し遁走する。荒れた地面に平坦な箇所などなく、岩に、窪地に、枝に、起伏に足を取られる。それでもがむしゃらに、無我夢中に、一心不乱に逃げていた
逃げ続けながら男は思う。誰だ、あれは。なんだ、あれは。
笑う女。嘆く女。修道女のような衣服を身に纏い、両手にグローブをはめた美しい女。笑って嘆きながら、いたぶるように後を追いかけてくる女。
笑う男。怒る男。薄い衣服に豪奢な飾りを身に付けて、鋭い爪と牙を剥き出しにした恐ろしい男。笑って怒りながら、銀の狼耳を動かし執拗に後を追いかけ続ける男。
逃げる男は窪みに足を取られ転倒する。疲れきった体は思うように動いてはくれなかった。砂を握り、這いずるように前へ前へと進むが、すぐ後ろから土を踏みにじる足音が聞こえた。呼吸が浅くなり、頭の中まで脈打つように熱い。痛みが全身を覆い尽くす。
笑う女が嘆きながら言葉を紡ぐ。金の瞳が爛々と獲物を見据えていた。
「懺悔はお済みになられて? 告解は必要ありませんことよ。我らが神になしたこと、既にわたくしは存じておりますもの」
笑う男が怒りながら言葉を吐き捨てる。金の瞳が煌々と獲物を捉えていた。
「狩りは楽しめたか? 俺らのボスを捕まえようとしたんだろうが、余計な手出しだったなァ」
女の足が伏せる男のふくらはぎを踏み砕く。男の爪が伏せる男の背を切り裂く。くぐもった呻き声を漏らし、男は、イルは歯を食い縛る。
痛みに耐えるよう地面を掻けば、その強さに爪が剥がれた。震えを抑え絞り出した声はかすれていたが、聞き取るには充分だった。
「……何故、災厄が、私を狙うのです」
イルの言葉に女が嘆く。
「あらあらまあまあ、何も知らずに声をかけてらしたの? それはますます許せませんわ。わたくしの神様はお優しいから、きっと何も言わなかったのでしょうけれど……だからこそ、わたくしがしっかりお守りしませんと」
イルの言葉に男が怒る。
「テメェふざけんなよ! 俺のボスを奪おうとしておいて、何も知らねえたァいい度胸じゃねえか! ぶっ殺してやらァ!」
猛る獣を修道女が窘めた。組んだ腕が豊満な胸を押し上げ、交えた脚が深くスリットの入った修道服から白い太股を覗かせる。
「まあ怖い。いくら【獣王】と呼ばれていても、そう理性をなくすものではありませんわ」
「あァ? 災厄なんかぶっ飛んでる奴しかいねえだろうが。テメェが一番狂ってんぜ、セイント」
「【悽女】とお呼びください。わたくしの神様から賜った呼び名ですのよ、ルプスと違って」
うふふと艶やかに笑うセイントにルプスはぐわりと牙を剥く。筋肉質で鍛え上げられた肉体には無数の傷が走り、幾重にも巻かれた首輪や腕輪がしゃらりと音を立てる。
「自慢してんじゃねえ! くそっ、俺だって二つ名を付けられる前にボスに会っていれば……!」
「嫉妬は見苦しいですわぁ」
「黙れ! あァ腹が立つ! この前はBランク風情の勘違い野郎だったか。どこもかしこも鬱陶しい蛆虫が湧きやがって。駆除が追い付かねえじゃねえか」
「それには同意しますわ。うっかり殺意が漏れ出てしまって周りの動きを止めてしまったのに、肝心の三人組はハルト様の魔力に傍近かったおかげで脅しが効かなかったのですもの。あれは失敗でしたわ」
首を左右に振って頬に手を当てるセイント。ベールの陰に隠された眉は下がり、心底から当時の状況を悔いているように見えた。
「神様を少しでも否定する存在があるなんて、どうかしています。【帝王】はハルト様のお気に入りですから良いとしても、他はこうして信徒たるわたくしがしっかり露払いしませんと。ハルト様に顔見せ出来ませんわ」
セイントは憂いを帯びた溜め息を吐く。嘆き悲しむ様は聖母と呼ぶにふさわしく、傍目には熱心な信仰者と言えるだろうか。苛烈な信仰は激情となり、伏せるイルへの憎悪へ変わる。
ルプスは舌舐めずりしながらイルを見遣る。狼の獣人である彼は骨をも砕く強靭な顎を持っており、どんな肉でも餌となる。例え人間でも。
イルは命の危機に晒されてようやく理解した。
災厄の呼ぶハルトとはすなわちSランク唯一の【良心】リーデハルト。己が勧誘し連れ出さんとした職員は【救命】のリーデハルト。
リーデの名を冠する者は多いため特別気にしてはいなかったが、まさか彼がSランクだったとは。
勧誘するため経歴を詳細に調べたが、この時代に誕生の申請などというものはない。貴族でもない限り確かな素性は不明であり、わかったのは職員になってからのギルドに管理された来歴だけだった。
獣の口が開かれる。唾液が滴る白い牙と血のように赤い舌が見えた。生温い息が首筋にかかり、喉の鳴る音が耳元で聞こえた。イルが覚えていられたのはそこまでだった。