ますたー
りぃんと虫の音色が響く深夜。かちこちと時計の針が進む。自分の呼吸とシーツの擦れる音だけが聞こえるギルド長室で、部屋の主はベッドに寝転び目を閉じていた。
しぃんと静まり返る暗闇で、突然かんかんと音が割り入り響く。こんこんと扉を叩く音。続く声は密やかで、甘やかだった。
「……起きているかい、ますたー」
縋り付くような、絡み付くような声音。扉の向こうに佇む気配は酷く朧気で、風に吹かれれば消えてしまいそうなほどに薄い。
「何の用だ」
低い声に僅かな諦念を混じらせて、部屋の主は答える。上半身を起こせば木で出来たベッドがぎしりと鳴った。
くしゃくしゃになったシーツをのばしながら、ギルド長は向こう側にいる青年を待つ。
「……メンテナンス、してほしくて」
ぽつりと落ちた声は弱々しげで、迷子になった子供のよう。どことなく震えているような空気がいたたまれない。
男は大きく息を吐き出して髪をかきむしる。普段の自信に満ちたかの青年とは打って変わって、小さな声は頼りない。
入れと一声掛ければ、閉じられていた扉がぎいいと開いた。
開いた隙間から目映い光が差し込む。闇に慣れた目には強いそれに、ギルド長は眉をしかめた。
すっと滑り込むように部屋へ入った青年は音をたてないよう静かに扉を閉める。途端に訪れる静寂。
主の呼吸音しかしないその場所で、青年はゆっくりとベッドに向けて歩き出す。一歩、二歩、三歩、四歩。すぐにたどり着くほど余り広くはない部屋で向き直る。
しゅるりと身を屈め隣へ座り込めば、そっと乗せるように青年は男の腿へ手を置いた。ふわりと暖かい光が沸き上がり、すぐに吸収されていく。
「叩いてごめんね、ますたー」
独り言のような呟きは闇に溶けて消える。ふわりと香る花の匂い。爽やかで甘い香り。
ぼんやりと為されるがまま眺めていたギルド長に、青年はこてりと凭れかかる。髪から馥郁たる香りが立ち上る。潤んだように光を反射した瞳が、男の治療の終わりを見届けた。
すっと掬い上げた男の両手を自らの首に添え、青年はうっそりと口を開く。
「私もなおして、ますたー」
どこか焦点の定まらない目で男は一度頷いた。
「痛くねえのか」
呈した疑問は意味を持たず、口寂しいが故に漏れたのだろう。対して青年はくすくすと邪気なく笑っている。
「痛くないよ。ますたーだって慣れたものだろう?」
「俺ぁいまだに慣れねえよ。なんたってなあ」
月明かりが差し込み出した室内で、青年の顔が浮かび上がっている。青白く、精巧な人形のように美しい顔。
夜空に浮かぶ三日月を落とし込んだかのようなさらさらの髪に、月光を閉じ込めた煌めく瞳。値段がつけられないほど芸術的なそれに、ギルド長は深々と溜め息を吐く。
「いくら回路調整のためとはいえ、宝神器の首を外すなんざ恐れ多いだろうよ」
新品の絹のシーツが敷かれた上に置かれた、麗しい青年の頭部。緩く口角を上げているそれはリーデハルトのものだった。