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Gerbera  作者:
6/8

Gerbera (6)

 ミサワさんと私は歩いて大阪城の方向へ歩いていった。

「この先に行きつけのメキシコ料理屋があるんだよ」

「メキシコ料理……なんか珍しいですねぇ」

「うん、美味しいよ」

 私はミサワさんの左を歩く。空はだんだんと日が暮れ出して茜色に染まっていた。

 歩いて数分、たどり着いたメキシコ料理屋は薄暗く、壁には見たこともない外国のレコードがたくさん飾ってあった。

「いらっしゃいませ」

 店に入ると口髭を生やした長身の店員さんが出迎えてくれた。いかにもメキシコ料理屋という感じの店員さんだった。

 私達は木の椅子に腰掛けビールを頼む。

「打ち合わせはあんな感じで良かった?」

「ええ、聞きたいことは全部聞けたので問題ありませんでしたよ」と言ってグラスを合わせる。

 仕事後のビールはやはり美味しかった。ミサワさんがナチョスとケバブを注文した。

「担当者にいたらないところがあったら僕に言ってね。言いにくかったらこっちから要望は伝えるから」

「あらあら、心配性ですね。大丈夫ですよ。こう見えて私も長くやってますから」

「いや、キクちゃんのことはそんなに心配してないんだけど、うちの担当者がなぁ……」

「えっ、何か問題があるんですか? しっかりしてそうな方でしたけど」

 紹介された担当者は経験も豊富そうなしっかりとした中堅社員に見えた。

「いや問題がある男ではないんだけど、まぁ、まだ若いからね。多分こういうライターさんとのやり取りは経験がないと思うから」

「えっ、あの人幾つなんですか?」

「たしか25歳だったかな」

 驚いた。どう見ても30は越えていると思っていたのだ。

「見えないですねぇ。あっ、失礼か」

「見えないでしょ。ああ見えて思いっきりゆとり世代だからね」

「あっ、そういう言い方は良くないですよ。ゆとり世代だなんて世代で括ったら駄目です。ゆとり世代でも優秀な人は優秀ですからね」

「まぁ、それはそうだ」

 私の顔が妙に真剣だったのか、ミサワさんは少しキョトンとしていた。

「そうですよ。そういうのって一種の差別ですからね」

「そうだね。でも不思議だな。キクちゃんは自分がそういう世代な訳でもないでしょ? 何でそんなに引っかかるの?」

「うーん、簡単に言うと私ってやっぱり自分に自信が無いんですよね。学生の時も勉強嫌いであんまりしてなかったし。

 ゆとり世代だ、ゆとり世代だって若い子のこと言えないなって思うんですよ。『じゃお前は何ができるんだ?』なんて問い返されると何も言えないですし」

 ミサワさんは黙って頷いて私の話を聞いてくれていた。

「だから私、人の悪口を言うのも凄く苦手なんですよ。それも多分、自分に自信が無いからで、悪口言う権利なんて私にあるの? って考えてしまうんです」

「ずいぶん謙虚だなぁ」

「うーん、何でしょうね。若い時にもっと頑張って自信を付けておけばよかったって未だに後悔しますよ」

「今だって頑張ってるじゃない」

「でももう大人ですからね。大人の頑張りは努力というより義務ですよ。それでご飯食べて生きてる訳ですから」

「ふーん、自分に厳しいなぁ。もっと自分を認めてあげてもいい気がするけどね」

「それがなかなか難しいんですよね。仕事もそうですけど、追い求めるとどこまで行ってもゴールなんてない気がして。だからどこまで行っても自分に合格点が出せないんです」

「恋愛については? 恋愛にも自信ない?」

「恋愛は……」

 私はちょっと言葉に詰まった。恋愛と言う言葉を聞くと不思議とヒールの顔が浮かんだ。

「恋愛については自信とかそんなんじゃない気がするんです」

「と言うと?」

 そこで口髭の店員さんがナチョスとケバブを持ってきた。

「ミサワ君、元気してた?」

「元気です。相変わらずやってます」

「そう、良かった。ゆっくりしていってね」そう言って口髭の店員さんはニッと私にも笑いかけた。

「あ、ありがとうございます」

 それで私達はそれぞれお代わりのビールを頼んだ。

 店員さんが行った後も何となく私は言葉に詰まっていた。そうこうしているうちに店員さんは直ぐにビールのお代わりを持ってきてくれた。

「それで?」

 ミサワさんがお代わりのビールを渡してくれた。私はそれを受け取り言う。

「恋愛についてはもっとシンプルなんですよ。自信がある、ないとかじゃなくて、私にとっての恋愛は誰かの1番になりたくて必死なだけなんです。ただそれだけなんです」

「自信とかそんな1歩引いた理論じゃないんだ?」

「うん、あまり考えないですね」

「意外と恋愛には積極的なんだね」

「いや、積極的とはまた違うんですよ。それはあくまで気持ちの問題で……自信がある、ないで立ち止まったりはしないけど、結局本当に大事なことは言えなかったりして……上手く言えないんですけど」

「相手の気持ちを考え過ぎてしまうんじゃないの? これ以上は踏み込んではいけないとか」

「どう……なんでしょうね?」

 図星だった。ミサワさんは手探りながらも私という女を理解しつつある気がした。

「ミサワさんは? 恋愛に対してはどう思います?」

「僕もいたってシンプルだよ。好きになるととにかくその人の事を知りたいって思うんだ。そんで大事にしたいって思う。だからキクちゃんの言ってた『誰かの1番になりたい』って物凄く分かるよ」

「でもたまに重たい性格って言われません?」

「あ、言われるかも」

 ミサワさんが苦笑いを浮かべる。

「やっぱり。私達はよく似てますね」

 私は笑ってそう言った。

「うん」

「それにしてもこのナチョス美味しいですね」

「急に話が変わったな! だろ? このお店、おすすめなんだ」

「私のレパートリーに加えてもいいですか?」

「もちろん」

 結局なんだかんだと今日も深酒をしてしまった。お会計をする時に時計を見たら、もう23時半を越えていた。

 茜色だった空は当然のようにもう真っ暗だった。だんだん暖かくなってきた夜の風が気持ち良かった。

「あー、飲みましたね」

「今日も飲んだね。時間が経つのは早い。メキシコ料理って辛いからお酒が進むでしょ?」

「そうですね。ちょっと飲み過ぎちゃいました」

 今日は私の方が酔ってしまったようだ。ミサワさんの顔はいつもみたいに赤くなっていなかった。

「今日はまだ電車があるね。地下鉄で帰ろうか」

「ええ。そうしましょ」

 私達は裏通りを抜け大通りへ出た。思えばミサワさんとお酒を飲んだ後はいつもこうして風にあたって2人で歩いていた。

 地下鉄の駅までは歩いて数分だ。私はゆっくりと春の夜を楽しんだ。

 ミサワさんも同様にこの麗らかな季節を感じているようであった。行き交う人達の顔も何だかキラキラしていた。春は平等に人々に降り注ぎ、同じ様に皆を幸せにしている気がした。

 私はこんな季節に誰かと肩を並べて歩ける事をとても嬉しく思った。

「キクちゃん」

 地下鉄の駅へ降りる階段の手前でミサワさんが急に立ち止まった。つられて私も足が止まる。

「はい?」

「キクちゃんの言ってた、誰かの1番になりたいって話だけどね」

「ええ。はい」

「僕は……その、キクちゃんの1番になりたいって思ってるよ。強くそう思ってる」

「私の……ですか?」

「うん、それにもちろんキクちゃんのことをもっと知りたいとも思ってる」

「ミサワさん、それって……」

「はい。僕、キクちゃんのことが好きです」

「……はい」

「あの……でも……なんとなくね。キクちゃんには他に誰か好きな人がいるのかなとも思ってたんだ」

 地下への街灯が照らしたミサワさんの表情は穏やかだった。私は言葉が見つからない。

「いや、いいんだ。別に今直ぐ返事をもらおうなんて思ってない。でも一度俺とのことも本気で考えてみてくれないか?」

「……はい」

 私は驚いていた。

「約束するよ、きっと大事にする」

 私が黙ってしまったのでミサワさんが少し気まずそうに言った。やわらかい言葉だった。

「……ミサワさん」

「ん?」

「ありがとう」

 その後、私達はどちらともなく手を繋いで地下への階段を降りた。

 私は右手でミサワさんの大きくて骨張った手の温もりを感じていた。それはぎゅっと押し潰したら消えてしまいそうな、季節外れの蛍のような淡い温もりだった。

 知り合った始めの頃、ミサワさんは私に気があるのではないかと思っていた。でもそれから何となく会って話したり、お酒を飲んだり、歩いたりしているうちに「これは恋愛ではないのだろうな」と自分の中で勝手に決断を出してしまっていた。

 それくらい私達の付き合いはプラトニックで自然だった。友達というか理解者というか、恋愛とか異性ではない私の中の特別なポジションに彼はいた。

 しかし今、私の手を握るミサワさんははっきりとした異性だった。

 それはもう誤魔化しようのない事実だった。いくらミサワさんとの数ヶ月の付き合いを思い出しても、交わしてきたくだらない会話を思い出しても、今の彼の存在は紛れも無い異性だった。恋愛だった。

 地下鉄のホームまで来ても私達は繋いだ手を離さなかった。行き交う人の中、途切れないように何かの繋がりを求めてその心に触れ合っていた。

 私は正直、どうしていいか分からなかった。

 その時、ふと向かいのホームの雑踏の中に知った顔を見つけた。全てを見透かすような鋭い目、私のよく知っている目だ。私の中で一瞬時間が止まった。

 雑踏の中でも直ぐ分かる。何の偶然か分からないが、向かいのホームにヒールが立っていた。

 ヒールは呆然としている私の視線に気づいてこっちを見た。まったく、勘のいい奴だ。

 ぎゅっと手を繋いだ私とミサワさんを見てヒールの奴は少しだけ寂しそうな顔をした。私の思い違いかもしれないが、確かにそんな気がしたのだ。

 次の瞬間、私達のホームにもヒールのホームにも電車が来てそれぞれをそれぞれの場所へ連れ去っていった。

 何かが少しずつ動き出していく。間違いなくそんな夜だった。



 私の実家は山口県山口市にある湯田温泉という小さな温泉街にある。最寄り駅は湯田温泉駅。駅前に大きな白い狐の像があり、気持ち程度の足湯がある(足湯は街中にも点々とある)

 ここは一応、山口市1の繁華街でもある。昔は大型連休の時など観光客の多さに驚いたが、大阪に出て都会を知ると意外とそうでもないことが分かった。

 著名人でいうと中原中也や井上馨がここの出身で、俳人の種田山頭火もここの温泉が気に入りしばらく暮らしたと聞くが詳しくは知らない。

 私の両親はこの温泉街でコンビニを営んでいた。

 単線の列車に揺られて湯田温泉駅に着くと、お父さんが車で迎えに来てくれていた。

「ありがとう、わざわざ迎えに来てくれたんや」

「おう。丁度暇な時間帯やったからな」

 お父さんはコンビニの制服を羽織ったままだった。太い煙草を吸いながら白髪の短髪をくしゃくしゃと掻いていた。

「久しぶりやな。去年の盆振りか? お前、今年は正月も帰らんかったな」

「違う。去年のゴールデンウイークぶり。だから丁度1年ぶり」

「1年も帰らんかったんか。まったく。ノブオとキヨの奴はもっと頻繁に帰るぞ」

 ノブオとキヨというのは私の兄と姉である。2人とも今も山口市内に住んでいるのだ。

「仕方ないやん。2人は家が近いんやから。私なんて大阪よ。それに仕事だって忙しいし」

 そう言って私も煙草に火をつける。

「おい! 女のくせに煙草なんて吸うな!」

 そう言ってお父さんは運転しながら私から煙草を取り上げようとした。

「もうっ! いちいちうるさいな!」

「まったく、相変わらずやなお前は」

「余計なお世話ですよ」

 私はそう言って当てつけのように窓の外に煙を吐きだした。

「女らしさが足りひん」

「あ、そんなこと言うんや?」

「ふん、口だけどんどん達者になりやがって」

 そう言ってお父さんは煙草を灰皿に押し潰した。

「私にだっていろいろありますよ」

 私もお父さんの吸い殻の上に煙草を押し潰した。

 私の実家はお父さんの営むコンビニの裏にある。見慣れた実家が通りの向こうに見えた。その前に知らない白色のワンボックスカーが1台停まっていた。

「俺、店戻るから先に家帰っといてくれ」

「うん。ねぇ、あの車は何?」

「あぁ、キヨのとこの車や」

「えっ、キヨ姉ちゃん来てるの?」

「うん、今朝からおる」

 キヨ姉ちゃんが来てるのか……少しだけ気が重くなった。

「だだいま」

 久しぶりの実家にあがるとエプロン姿の母親が出てきた。

「あら、おかえり。久しぶりやね。あがり。キヨも来てるで」

「うん」

 荷物を玄関に置いてリビングに入るとキヨ姉ちゃんがアイスキャンデーを食べながらテレビを見ていた。

「久しぶり」

「あら、キクじゃない! 何年ぶりかしら、珍しい」

「うん。キヨ姉ちゃん、旦那さんと子供は?」

「3人でお出かけ中。公園でサッカーしてるよ。私は暑いからパスした」

「そう」

「長旅ご苦労やったね」

 お母さんが麦茶を持ってきてくれた。

「ありがとう」私はキヨ姉ちゃんの向かいに腰掛ける。

「それで? 今回の帰省はいよいよご結婚の報告かしら?」

 キヨ姉ちゃんが早速目を輝かせて言った。

「違います。仕事がちょっと落ち着いたから帰省しただけ。だいたいそういう話なら私1人で来ないやろ」

 私は麦茶を飲みながらムスッと答えた。

「あーあ、残念。キクちゃんはまた今年も変わらず独り身を貫くのね」とキヨ姉ちゃんはウンザリしたような言い方をする。

「キヨ、そんな言い方しないの。キクにはキクのペースがあるんやから」

「でもお母さん、キクももう34やで。いい加減にせんとあかん歳やろ。会うたびに私が口をすっぱくして注意してるのに。この人全然動じないんやから。私は34の頃にはもう2人目を産んでたで」

「キヨ姉ちゃんが早いんや」

 私は不満そうに言う。

「そんなことないわ。私なんて地元では遅い方やで。周りの友達はもっと早かった。あんたは特に遅すぎるの」

「ヘン。私だって別に何にもない訳じゃないん

やから」

「あら、誰かいい人がいるの?」

 今度はお母さんが目を輝かせて言った。

「いや、別に紹介できるような人はいないけど……」

「ほーらやっぱり。キク、あんたね。もうこっち帰ってきて落ち着きなさいよ。ライターさんなんて手に職があるんやから何処でだってできるやろ?」

 キヨ姉ちゃんが食べきったアイスキャンデーの棒で私を指してきた。

「まぁ、確かにお父さんもお母さんも歳だしキクが帰ってきてくれたら助かるわねぇ」

「ちょっとちょっと、簡単に言わないでよ! お母さんまで何言ってるの!」

「だってあんた大阪にいたらずっと忙しい忙しいって仕事ばかりしてるやん。もうそろそろ経験も積んだんやしこっちでゆっくりと仕事してもいいんやないの?」

 確かにキヨ姉ちゃんの言うことも一理ある。でも私だって簡単に譲れない。

「もう、帰ってきていきなり勘弁して! 部屋に荷物を置きに行く!」

 私はそう言ってリビングを出た。階段下まで来たところでちょっと態度が悪かったかな? と思い引き返してリビングのドアの隙間から中を覗いてみたが、「キクが帰ってきたなら今日はお寿司でも取りましょうか」「いいわね。じゃノブ兄のとこにも連絡してみるわ」

 なんて2人とも全く動じた様子がない。くそう、なんて奴らだ。

 実家の私の部屋は前に来た時と何も変わっていなかった。

 机の上に無造作に置かれた小説やアルバムの角度まで、何1つ変わっていないような気がした(それでも一応たまには掃除をしてくれていたようだが)

 乱雑に置かれたアルバムの一つを手に取り開いてみるとそれは中学の時のアルバムだった。

 久しぶりに見た20年前の光景は相変わらず優しかった。澄み切った川に足を付けるような、そんな感じだった。

 ただ、そのピントの中心にいる私はと言うと全然イケていなかった。20年前の私は何故か分からないがちびまる子ちゃんのような髪型をしていた。当時の私はバレーボール一色で、髪型になんて全然気にしていなかったのだ。

 ダサい。明らかにダサいのだがそんなことは気にもせず屈託のない笑顔でこちらに微笑みかけている。私はなんだかいたたまれない気持ちになってきた。

 壁の本棚には中高生の時に読んでいた少女漫画や大阪に持って行かなかった1部の小説が並べられていた。

 私は試しに少女漫画を1冊取って開いてみた。長いこと日の目を見なかった本特有のカビ臭さが鼻腔を刺激した。この漫画、昔好きだったなぁ。


 私達、綾倉家はお父さん、お母さん、長男のノブオ、長女のキヨ、そして次女の私キクの5人家族だ。

 私が幼稚園に入るまで綾倉家は大阪に住んでいた。なんせお父さんもお母さんもコテコテの大阪生まれ、大阪育ちなのだ。

 それが何故今は本州の最南端、ここ山口県に住んでいるかというと、きっかけは1つの旅行だった。

 その年の冬休み、下関のフグを食べるために珍しく家族旅行に出掛けた。うちはお父さんが旅行嫌いであったため家族旅行なんてイベントはほとんどなく、大型連休でもだいたいは近所の動物園や遠くても京都くらいまでしか出掛けなかった。

 それがどういう訳かあの年は下関旅行に出掛けることになった。おそらくお父さんの気紛れだったのだろうが、子供達は喜んだ。ノブオ兄さんはもう小学校に入っていたと思う。まさかこの旅行が綾倉家のこの先を大きく左右するなんてその時は誰も考えつかなかったはずだ。

 下関でたらふくフグを食べた私達は帰りにどこか温泉にでも寄って行こうという話になった。よく覚えていないがこれもおそらくお父さんの気紛れだろう。

 そこで名前があがったのがこの湯田温泉だった。

 私達はわざわざ新幹線を途中下車して将来嫌になるほどに乗ることになるあの単線に乗ってこの温泉街まで来た。

 温泉街に入ったあたりからお父さんの様子がおかしかったのを覚えている。お父さんはやたらと街並みを褒め、たくさん写真を取り何回も温泉につかっていた。

 いくらお母さんが「そろそろ帰りましょう」なんて言っても聞く耳を持たず、結局私達はこの温泉街にもう1泊することになった(確かノブオ兄さんはそのせいで学校を1日休んでいた)

 大阪に帰ってからもお父さんは事あるごとにあの温泉街の話をした。それは幼かった私の目から見ても異常なくらいだった。

 旅行嫌いだったお父さんがそれから月1、2のペースで湯田温泉まで行くようになった。家族と一緒に行った時もあったし1人の時もあった。そして旅行から1年経つ頃、お父さんは家族で湯田温泉へ移住しようと言い出した。

 これには流石にいつもは何も言わないお母さんも反対した。この移住問題でこの頃、両親はよく喧嘩をした。私達兄妹も幼いながらに家族の先行きを不安に思っていた。仲の良い両親が喧嘩をするなんて後にも先にもこの時期だけだった。

 結果的にお母さんが根負けして私達は家族でここ湯田温泉へ移ることになった。お父さんは仕事を辞め、向こうでコンビニを経営することになった。

 コンビニ経営を選んだことには特に理由はない。それしか伝手がなく、要は向こうに住めれば職なんて何だって良かったのだ。

 ただ、言葉だけは馴染めなかったらしく、お父さんは家族に関西弁をやめないことを強要した。だから山口に移り住んでもう何十年も経つのに私達はみんな未だに関西弁のままなのだ。

 まったく、本当に勝手な父である。

 この家に引っ越した日のことを私はぼんやりとだが覚えている。

 まだ6月なのに暑い日だった。お父さんとお母さんがバタバタと荷ほどきをしている中、幼かった私とキヨ姉ちゃんはリビングの床に積み木を並べて遊んでいた。

 たまに涼しい風が開け放した縁側から入ってきた。その風は縁側に置かれた花を揺らし、汗をかいた私達の肌をかすめて消えた。

 縁側に置かれたあの花、私はぼんやりだが覚えている。想像の中であの花にフォーカスを当てる。

 どこかで見た事のあるあの花びらの形。

 そうだ、あれはガーベラだ。オレンジ色のガーベラだ。色は違うが私の部屋にあったのと同じ花だった。

 揺れていた。風に吹かれてそっと揺れていた。


 遠くから私を呼ぶ声で目が覚めた。

 ベッドに横たわって漫画を読んでいたらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。眠気まなこを擦り起き上がると胸の上から漫画が床に落ちた。

 もう一度私を呼ぶ声が聞こえた。お母さんの声だった。御飯の時間らしい。

 私は読みかけの漫画を本棚に片付けて部屋を出た。ぼんやりした頭の中でガーベラはまだ風に揺れていた。

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