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Gerbera  作者:
4/8

Gerbera (4)

 あっと言う間に冬になり、街はヒールの嫌いなクリスマス1色に染まっていた。

 私はと言えば、相変わらず忙しかった。うかうかしていると気付かぬうちに年を越してしまいそうだったので、日付の感覚だけは失くさないようにカレンダーを気にして日々を送っていた。

 カレンダーが双六のように1コマずつ進んでいく毎日、私は何十本という煙草に火をつけて、順番にそれを消していく。仕事も私生活もそのように単調だった。


 玉緒の店長さんから手紙が来たのはそんな冬のある朝だった。

 天気の良い朝。この時期は寒さが堪えるが、私は毎朝、夏から片付けていないビーチサンダルに素足を引っ掛けて階段を下まで降りる。7時半頃に起きて、マンションの下のポストまで新聞を取りに行くのが私の日課なのだ。本当は玄関のポストまで届けてほしいのだが、入り口がオートロックなので住民以外は中まで入れないのだ。

 ポストにはだいたい毎日、新聞と何通かの郵便物が入っている。朝のポストは凍りつきそうなくらい冷たい。寒いので早く部屋に戻ろうと思い強引に新聞を引き抜くと、1通の手紙が下に落ちた。綺麗な封書だった。

 私に届く郵便物のほとんどはダイレクトメールだったり何かの請求書だったりといった無機質な通知物なので、一瞬、入れ間違いやないか? と思ったが、拾い上げて送り主を見てみると、1年前くらい前によく通っていた立ち飲み居酒屋の店長さんからだった。部屋に戻って封を開けてみる。


「北風が冷たい季節が訪れました。

 今年も残り少なく、日に慌ただしくなって参りました。

 しばらくお会いできておりませんが、その後お変わりはありませんでしょうか?

今年最後のお楽しみ会を是非当店にくつろぎにお越しくださいませ。

 お待ちして居ります。

 寒さきびしき季節、くれぐれもご自愛くださいませ。


玉緒 オオサワ」


 達筆な縦書き文字。店長さん、オオサワって名前だったんだ。

 玉緒は大阪の北浜と淀屋橋の間にある立ち飲み居酒屋だ。私は去年の今頃に取材で初めてその店を訪れた。店長さんとその奥さんの2人で店を切り盛りしており、値段もお手頃で、料理も美味しかった。

 2人とももうかなりご高齢で、優しい和食を作った。お酒のつまみには自信のある私もついつい「ほほう」と唸ってしまうほどのクオリティだった。

「おかみさん、このきんぴら美味しい! オリーブオイルを使ってるの?」

「そうそう、オリーブオイルとニンニクで炒めてるのよ」

 おかみさんがおっとりとした笑顔で応えてくれる。そしてそんなやり取りを向こうから店長さんが優しい目で見ている。暖かな居酒屋だった。

 取材をしてからの数ヶ月、私は週1くらいのペースで通い2人といろいろな話をしてお酒を飲んだ。2人には子供がおらず、そんなこともあり私はよく可愛がられた。

 しかしその後、仕事が一気に忙しくなった時期があり、そのまま自然と足が遠のいてしまっていた。たまには顔を出そうと思い今年になってから一度行ったのだが、タイミングが悪くその日は臨時休業日だった。

 なんだか懐かしいな。2人と過ごしたのはほんの1年程前のことなのにだいぶ昔のことのように感じる。私はパソコンを立ち上げて今日の仕事量を確認した。

 よし、この量なら今から頑張れば夕方には終わらせることができる。丁寧に手紙までいただいたのだ、久しぶりに今夜は玉緒に顔を出そう。



 マンションを出た時はまだ遠くの空に夕暮れが見えたが、淀屋橋の駅から地上に上がると辺りはもうすっかり夜だった。

 人々は私と逆の方向に地下鉄の駅へ歩みを進めていく。みんな今から家路につくのであろう。また通勤ラッシュが始まるのだ。私の嫌いな満員電車だ。

 淀屋橋に来るのは久しぶりだった。まず目についたのは御堂筋を難波方面に伸びるそのイルミネーションだ。そうか。もうそんな季節なんやな。

 毎年この時期に御堂筋は多くのイルミネーションで彩られる。大阪市役所の前から難波まで、約4Kmに渡って道沿いに植えられた街路樹に色とりどりのイルミネーションが施されてるのだ。これはちょっとした光景である。

 堺筋の方へ歩みを進めると遠くに赤く光る玉緒の提灯が見えた。良かった今日は営業しているみたいだ。

 1年前に毎週通った道、その様子は全然変わっていなかった。イルミネーションの華やかさも此処までは入って来ない。変わらない薄暗な道に私はちょっと安心した。


「いらっしゃい!」

 暖簾をくぐるとこれまた1年前と変わらない店長さんがいた。

「店長さん、お久しぶりです」

「おー! キクちゃんやないの! 久しぶりやなぁ!」

「丁寧にお手紙までいただいて、中々顔を出せなくてすいません」

 そう言って私は着ていたコートを脱ぐ。

「いやいや、よう来てくれた。とりあえずどうする? ビールか?」と言って店長さんはカウンター越しにおしぼりを渡してくれた。

「うん、ビールで」

 コートを掛けて店内を見渡すと私の他にもう1人お客さんがいた。私と同じくらいの年齢だと思われる男の人だ。不意に目が合ったので軽く会釈する。そしておかみさんはいなかった。

「はい、ビール。キクちゃん、元気してた? 相変わらず忙しいの?」

「ありがとう。うーん、相変わらずバタバタしてますね」

 ビールを受け取って最初の1杯に口を付ける。

「そうかそうか。ええことやん。バタバタしなかったらそれもそれで不安やろ?」

「うん、それはありますね。でもこのまま続けても永遠に満たされないんじゃないかってたまに思いますよ」

「僕やって同じやで。だから僕らみたいな客商売はバタバタしてるくらいが丁度ええねんて。立ち止まって考えたりしたらあかん」

 この人はいつもこんなふうに私の角張った心を柔らかくしてくれる。話し方なのか、声なのか、店長さんと話すと気持ちが解れるのだ。

「そう言えば、今日はおかみさんはいらっしゃらないんですか?」

「あー、あいつはなぁ……」

 店長さんは少しバツが悪そうな顔をする。何か気まずいことを聞いてしまったみたいだ。この前のユウと言い、最近私はよく人の心の地雷を踏んでしまう。

「どうしたんですか?」

「亡くなってん。今年の夏に」

「えっ……?」

 ビールを持つ手が固まる。

「そんな……どうしてそんな急に。」

「心臓麻痺でな。ほんまに急にやってん」

 私の中で優しいおかみさんの笑顔が蘇る。オリーブオイルとニンニクのきんぴらの味が蘇る。

「俺がちょっと近所の酒屋まで買い物に行ってた隙でな」

 店長さんがゆっくりと話し出す。

「帰ったらあいつ、ソファで横になっとってん。それで珍しいな思ってタオルケットだけかけててんけど、夕飯時になっても起きてけえへんから声かけたら死んどった」

「そうなんですか……」

「不思議なもんや、何十年も連れ添った最後がそれやで。ほんまに間抜けな話やなぁ。酒屋なんて全然急ぎの用事ちゃうかったのに」

 そう言って店長さんは笑いながらお通しのポテトサラダを出してくれた。

 本当に不思議なことだ。良いとか悪いとかは別にして、そんな別れをいったい誰が想像しただろう?

 いつだって別れは唐突だ。呆気なくもあり、自分勝手でもある。

 そして当たり前だが、別れた人はもうここにはいないのだ。おかみさんの行ってしまった場所に今の私達は行くことができない。それは表と裏のように全くの別世界なのだ。

「寂しいですね」

 私は分かりきった当たり前のことを言ってしまう。

「うん、そりゃ寂しいよ。でも商売もあるしいつまでもクヨクヨしてられんからな」

 強い人だ。長年連れ添った伴侶がいなくなるということがどれほどのことなのか、私には分からなかった。でも例えばヒールの奴が急にいなくなったりしたら、やっぱり少し寂しいな、なんて思った。

 目の前の店長さんが笑うので私も笑うことにした。何となくその方がいいと思ったのだ。

「ま、キクちゃん、久しぶりなんやしあんまり暗くならないで。あっ、そうだ。うちの新しい常連さんを紹介するよ。おーい、ミサワ君」と言って店長さんはカウンターの端にいるもう1人のお客さんに声をかけた。

 ミサワ君と呼ばれた男の人は急に話を振られたので油断していたのか少しびっくりした様子だった。

「あっ、はい」

「こっち来なよ。紹介するよ。こちらキクちゃん」

 急に振られて今度は私がオドオドしてしまう。

「どうも、初めまして」

「初めまして。ミサワです」

 私の挨拶はぎこちない。ミサワさんは感じの良い人だった。ピシッとしたスラリと背の高いノーネクタイのスーツの上に童顔と短い黒髮がちょこんと乗っていた。派手さはないが、清潔感のある仕事のできそうな男の人だ。

「ミサワ君は春頃からの常連さんやねん。葬式の時もいろいろと手伝ってくれてね。ほら、うちには子供がいないから。力仕事だったりとかはほとんどミサワ君が引き受けてくれたんだよ」

 そう話す店長さんの顔を見ていると如何に店長さんがミサワさんのことを気に入っているかが分かった。たぶん本当の息子ができたみたいで嬉しいのだろう。

「いえいえ、簡単なことをお手伝いしただけですよ。それにお2人にはお世話になってましたからね」

「葬式の日、ミサワ君もの凄い泣いちゃってね」

「あっ、止めてくださいよー。初対面なんですから」

 ミサワさんは少し照れ臭そうだった。私はビールを飲みながらニコニコしていた。

「いや、俺は嬉しかったんやで。自分の妻の葬式で誰かが泣いてくれるって。あいつは幸せやなぁて思ったわ」

「素敵ですねぇ」

「もう止してくださいよ。恥ずかしい」

 ミサワさんは苦笑いを浮かべる。私は葬式で号泣するミサワさんを思い浮かべた。

 何となく吉本ばななのキッチンを思い出した。家に帰ったら本棚を探してみよう。たぶんあるはずだ。


 店長が料理を作りにカウンターの奥へ行ってしまったので、私とミサワさんは2人になった。

「キクさんは何のお仕事をされてるんですか?」

「私はフリーのライターをしてます」

「ライターさんなんだ。俺、広報の仕事をしてて、ライターさんとよくやり取りするよ。ライターさんって大変そうだね」

「いつも締め切りに追われてる感じですね。もう10年以上やってるんで慣れましたけど……」

 私は冗談っぽく笑う。

「でもキクさんって何か綺麗な文章書きそうですよね。うん、何かそんな感じがする」

「えー、そんなこと初めて言われましたよ。でも嬉しいなぁ」

 本当に嬉しかったのだ。最近は仕事の量やスピードを褒められることはあっても質を褒められることがあまりなかった。それだけ流れ作業になってしまっていたということなのだろうか。

「絶対そうだ。俺も広報の仕事長いからそういう勘は働くんだ。今度書いた記事見せてよ」

「いいですよ。けど期待外れでも何も言わないでくださいね」と言って悪戯っぽく笑ってみた。こんな笑い方をするのはいつぶりだろう? なんだかお酒が美味しい。

「あの、ミサワさんは小説とか読みますか?」

「けっこう読みますよ。何でですか?」

 ミサワさんは梅の沈んだお湯割りを飲んでいた。

「いや、さっきのお葬式の時にミサワさんが泣いてたって話を聞いて吉本ばななの小説の登場人物を思い出して。だから知ってるかなって思って」

「吉本ばなな……もしかしてキッチン? 参ったなぁ」

「知ってたんですね。だから私、今すごくキッチンが読みたいんですよ」

 ミサワさんがこの小説のことを知っててくれて私は素直に嬉しかった。

「俺、けっこうあの小説好きだよ。何回も読んだ」

「わぁ、もしかしたら趣味が合うかも。哀しい予感、読みました?」

「読んだ読んだ。TUGUMIは?」

「読みました。映画も観ましたよ」

「あっ、俺も見た。主題歌は確か……」

「小川美潮のおかしな午後」

「そうだそうだ。よく知ってるなぁ。吉本ばななが特に好きなの?」

「うーん、特にって訳じゃないんですけど。偏りはありますけど本はいろいろ読んでますね。吉本ばななは一時期凝った時期があって」

「へぇ、こんな話あまりしないから面白い」

 ミサワさんの童顔が少しピンクになっていた。その後もお互いの好きな小説について、いろいろと話した。

 話していて分かったことだが、ミサワさんは私より5つも歳上だった。商工会議所で広報の仕事をしており、まだ独身、市内で1人暮らしをしているらしい。

 なんだか随分と話し込んでしまい、時計を見たらもう0時を回っていた。だからそろそろ帰ることにした。

「すっかり意気投合してくれて嬉しいよ。また来てね。気をつけて帰って」

 店長に見送られて私とミサワさんは店を出る。

「ありがとうございます。また近いうちにきっと来ます」

 大通りに出るともうイルミネーションは消えていた。明かりの消えたイルミネーションは氷柱のようだ。さっきまでの華々しさが嘘のようにそれらは生命を黙していた。

 昨晩と比べてまた少し寒さが増した気がする。たくさんの氷柱を目にしているからだろうか? だけど不思議と心は暖かかった。久しぶりに楽しい夜だった。

「飲み過ぎちゃいましたね」

 右に歩くミサワさんに話しかける。

「うん、すっかり深酒しちゃったなぁ。キクさん、電車は?」

 ミサワさんの頬はまだ桜色に染まっていた。私よりお酒に弱いのかもしれない。

「もうないです。だからタクシーで帰ります」

「そっか。じゃちょっとこのまま歩かない?」

「ええ、いいですよ」

 私達は大阪市役所の前を通り過ぎ北新地の方向へ歩いて行った。火照った頬を風が優しく冷ます。ヒールの奴はなんて言うか分からないが、私は意外とこの季節が好きだ。

 北へ向かうにつれてだんだん人通りが多くなってくる。現在深夜0時半、北新地の夜は今から始まるのだ。

 もしかしたらミサワさんは今夜このまま私と寝たいのかもしれないと思った。お互いにもういい大人なのだ。そういう可能性も十分にある。

 でも私はそれについて明確な答えを出せなかった。このままミサワさんと寝てもいいかなとも思ったが、一方でそんなことは駄目だとも思った。天使と悪魔じゃないが、そんな関係の2人が私の中でボソボソ喧嘩を始めた。少しすると風が吹いてその声はかき消されていった。

 とにかく風が気持ち良い夜だった。私とミサワさんはちょっとずつ何かを話したり、街に浮かぶネオンを見ながら冗談を言って笑い合ったりしながら歩いた。

 途中でミサワさんが自動販売機で缶コーヒーをご馳走してくれた。暖かいコーヒーからは白い湯気が立ち、弱々しく冷気に晒されていた。私の息も白く、「はーっ」と吐き出して見ると煙草の煙みたいに夜に広がっていった。

 そう言えば私は今夜一度も煙草を吸っていない。普段はお酒を飲んだら無性に吸いたくなるのに今日は不思議とそんな気持ちにならなかった。

「気持ち良いね」

「そうですね」

 ミサワさんの顔は赤みが引いて地肌の肌色に戻っていた。まるで季節外れの桜が散るみたいに風が赤みを散らしていった。

 少し向こうに桜橋のボウリング場が見える。気づけばけっこうな距離を歩いていた。交差点にたどり着いたところで何となく今日はさよならすることになった。

 ミサワさんの部屋の話も聞いてみたかったが、今日は初めてだったので止めておいた。それはまた次の時にでも聞こう。

 ミサワさんが立ち止まって言う。

「キクさん、今日はありがとうね」

「いえ、こちらこそ」

「なんだか長い時間引き止めちゃって」

「そんな、全然気にしないでください。楽しかったです。それにキクさんなんて、キクでいいですよ」

「うーん、じゃとりあえずキクちゃんからで」

「いいですよ」

 とりあえずなんて、ミサワさんは大真面目な顔だった。だから私は笑ってしまった。

「また飲みに行きましょう」

「はい、是非」

 その後、ミサワさんが捕まえてくれたタクシーで家まで帰った。

 今時珍しいくらい誠実な人だ。ちょっとエッチなことを考えてしまっていた自分が恥ずかしい。この歳になるとこういった出会いは貴重だ。それは恋愛だとかそんなものを抜きにしても。

 タクシーに揺られて窓の外を眺める。コートの中は暖かく、幸せだった。

 当たり前だが、夜が明けたらまた仕事が始まる。でも今は不思議と何も怖くない気分だった。

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