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Gerbera  作者:
2/8

Gerbera (2)

 次にヒールが来た時、私は翌日に迫った締め切りに追われて必死で記事を書いているところだった。

「悪いけど、ソファにでも座ってて。冷蔵庫にビールがあるから勝手に飲んでてくれてええで」

「おう、了解。適当にしてるわ」と言って部屋に入れてから早2時間が過ぎた、妙に静かだ。まさかまたソファで眠っているのか?

 しかし記事はまだ書き終わらず、私はデスクから離れられない。書き上げなければならないという意識が強すぎてデスクから離れることができないのだ。昨日の昼からずっとこんな状態で、食事も仮眠もデスクで取った。灰皿には大量の吸い殻が沈み、お風呂にも入っていなかった。締め切り間際はいつもこんな感じなのだ。これでは結婚なんてとてもできないなぁ……と改めて思う。

 それからまた数時間かけて私はようやく記事を書き終えた。長い作業だった。終わった途端、どっと疲れが身体にのしかかった。

 いつの間にか日も暮れており、パソコンの明かりだけが部屋を照らしていた。箱から取り出した煙草を咥えて火をつける。ラークの渋い煙が肺まで届く。換気のために窓を開けると冬の風が部屋の中に舞い込んできた。寒い。

 ほれ見たことか、やはりこの時間、気候は顔つきを変える。と思った時にドアの向こうのヒールの存在を思い出した。私は仕事に集中するとほとんどのことを忘れてしまうのだ。本当に悪い癖だと思う。

 奴はもう何時間も1人で私のことを待っているはずだ。しまった、と思ったが部屋の外は妙に静かだった。ソファで熟睡しているのかそれとも待ちくたびれてもう帰ってしまったのか(黙って帰ってしまっていても文句は言えない)

 吸っていた煙草を灰皿に押しつぶし、仕事部屋のドアに聞き耳をたててみたが何も聞こえなかった。

 もしソファで寝ていたらまたスーパードライの刑に処してやろう。なんて考え、そっとドアを開くと意外なことに奴は起きていた。

 奴は何かに熱中していて私が仕事部屋から出てきたことにすら気づかなかった。何をしているのかと覗き込むと、やっと私に気づいた。集中して文庫本を読んでいたようだ。

「おー、お疲れ様」

 少し疲れた目でヒールは言う。

「ありがとう。というかここでずっと本読んでたん?」

「そうやなー。おもろくて、もうほとんど読んでもうたわ」と言って伸びをする。

「なんの本?」

「小説。村上龍のコインロッカーベイビーズ」

「聞いたことある。どんな話なん?」

「ふふふ、気になるなら読んでみ。読み終わったら貸したるわ」

「へー、ほな楽しみにしてるわ」

 ヒールも私と同じで本を読むのが好きだった。

 時々おすすめの本を貸してくれるのだが、私とヒールはあまり本の趣味が合わず、私はそのほとんどを最後まで読めずに諦めて放り出してしまっていた。だから今回もあまり期待はしていなかった。

「今日はご飯食べるやろ?」

「うん、ありがとう」

「せやけど先にお風呂に入ってきていい? とりあえずさっぱりしたいわ」

 なんせ最後にお風呂に入ったのは一昨日なのだ。

「ええよ、待ってるわ」

 ヒールは再び文庫本を開いて身体をソファに沈めた。

 浴槽にお湯が溜まるのを待つ短い時間で、私は簡単なおつまみを作った。アボカドを小さく切ってそこに納豆を入れ、ラー油と納豆のタレを加えて混ぜる。最後に刻み海苔と白胡麻をまぶした。アボカド納豆と私は呼んでいる。お酒のつまみには丁度いい。

 私は特に料理が得意なわけではないのだが、こういった簡単なお酒のつまみのバリエーションだけは豊富だ(理由は簡単、お酒が好きだからだ)そうこうしているうちに浴室でアラーム音が鳴った。お湯が溜まったようだ。

「これでも食べてて」

「おー、ありがとう」

 ヒールは相変わらず文庫本に熱中していた。

 脱衣所へ行ってドアを閉める。お湯の湧いたばかりのお風呂の甘い空気が溢れていた。

 お風呂場のドアを開け、お湯の張った浴槽を見て満足する。入浴剤を入れ、順番に服を脱いでいく。丸2日間身に付けていたユニクロのズボンと長袖のシャツ、そしてピンクの下着も全部洗濯物のカゴに入れた。汗ばんだ身体を軽くシャワーで流して浴槽に浸かるとやっと肩の荷が下りたような気持ちになれた。

 フリーになってから、私の仕事はずっとこんな感じだ。いつも締め切りに追われ、その一方で新しい仕事を渇望していた。デザイン事務所にいた時のように誰かから与えられた仕事をこなすのではなく、紹介や提案で新しい仕事を自分で探しながら従来業務を行うのだ。

 目が回りそうなくらい毎日は忙しいが、自分の力で生きている、自立しているという意識は強く持てた。それは私の誇りでもあったし、仕事をすることに対するモチベーションにもなっていた。

 最近、たまに会う同世代の友人たちはほとんどが結婚しており、みんな旦那さん頼りの生活を送っている。

 そんな中、私のような生き方は珍しく、友達はみんな「キクはすごいね」なんて言ってくれる。そんなふうに言われることは嬉しかったが、反面、安全な場所から話をする友人たちを羨ましくも思った。

 結婚もしないで自立した生活を送って、自分でも思う、疲れる生き方だ。男だとか女だとか関係なく、楽な生き方というものもこの世には確かにある。だがそんな生き方を選ばず今の生き方を選んだ。それは誰に言われた訳でもない私自身の選択だった。

 耳もとまでしかない短い髪が浸るくらい浴槽に沈む。遠くに見えるシャンプーのラベルがぼやけている。また少し視力が落ちたのかもしれない。

 そんなふうにぼぉっと浴槽に浸かっていると、不意にお風呂場のドアが開いた。私は驚いて反射的に胸元を隠した。ドアの隙間からヒールが顔を出した。

「どうしたの?」

「俺も入ってええ? 本読み終わったら急に風呂入りたくなった」

 私は笑ってしまった。なんだその理由。かわいい奴だ。

「どうぞ」

 ヒールは服を脱いですぐにお風呂場に入ってきた。シャワーを浴びるヒールのしなやかな身体。私はついつい見入ってしまう。その身体つきは12年前に京都の体育館で初めて見た時からほとんど変わっていなかった。

「よいしょ」

 と言って奴は浴槽に入り、私の身体の後ろに自分の身体を滑り込ませた。入浴剤の溶け込んだお湯がざばっと浴槽から溢れる。私は後ろからヒールに抱きしめられるような形になった。

「今日は締め切り前やったん?」

「うん、そう。昨日からほとんど寝てないよー」

「いつも大変やな」

「ヒールは? 最近は仕事落ち着いてるん?」

「うーん、最近は比較的マシやな。明日は朝、ちょっと早いけどな」

「そう、それなら泊まってく?」

 私の家の方が奴の家より職場に近いのだ。ヒールは少し迷ったような顔をした。

「そうしよかな。締め切り後で疲れてるのにごめんな」

「私はいいよ。でも家は? 大丈夫?」

 すぐにまた余計なことを言ってしまったと思った。いつも私はよく考えずに話して余計なことを言ってしまう。

「うん、別に大丈夫や」

 ヒールは少しだけ答えにくそうに言う。私もそれ以上は何も言わない。なんとなく気まずい空気。入浴剤のいい匂いがお風呂場を包んでいた。

「ねぇ」

 私は顔だけ後ろに向けてヒールを見る。

「うん?」

「キスしてよ」

「うん」

 後ろを向いたまま、ヒールに抱きしめられ唇を重ねた。求め合ってすぐにヒールの舌が私の中に入ってくる。いつの間にか奴の右手は私の乳房を優しく握っていた。

 私はとろけそうな気分だった。温かいお風呂に浸かってヒールのしなやかな身体に包まれる。今の私にとっては何よりの至福だった。眠気や疲れも飛んでしまうような甘美。何だか宙に浮いてるみたいだ。愛おしくなって私は後ろに手を回しヒールの頭に手をやる。離れたくないな、なんて本気で思ってしまう。

「ねぇ、ヒール?」

「どうした?」

「ううん、いい湯加減やな」

「うん」


 結局私たちはそのままの勢いでお風呂場で交わってしまった。

 それはまるで付き合い始めの大学生カップルのような感情に任せたセックスだった。後になり思い出して頬が熱くなる。

 その晩はお風呂から上がって簡単なつまみとお酒で夕飯を済まし、ヒールの腕の中でぐっすりと眠った。朝になって私が起きた時、会社に行ったのか奴の姿はもうなかった。

 一人になった部屋で私はグレープフルーツジュースを飲み、ガーベラに水をあげた。



 それから数日後の水曜日。朝から降り出した雨が一向にやまない水曜日だった。

 そんな日に限って私は取材で外出しなければならず、雨の中、電車を乗り継ぎ京都の烏丸まで出てきていた。取材自体はすんなり進み、予定していた時間の半分くらいで終わった。外に出たらまだ15時半で、雨は変わらず降り続いていた。

 雨の烏丸はどこか寂しかった。銀行の看板も喫茶店のメニューもみな雨に濡れて沈んだ色をしていた。こうなると私の気持ちも沈んでくる。

 天気が良かったなら大垣書店で雑誌でも買って喫茶店のテラス席でそれを読んで過ごすことだってできたのだが、冷たい雨は私の目論見をすべて台無しにした。

 仕方がないので銀行でお金だけ下ろして少し早いが大阪へ帰ろうかと思った時、人混みの中に見知った顔を見つけた。

「ユウ!」

 私は反射的に声をかけていた。人混みの中でユウが私の声に気づき周りをキョロキョロしている。

「こっち、こっち!」

「キク! あらー、偶然」

 ユウに会うのは久しぶりだった。近頃はバレー部の大会に顔を出すこともなくなり、誰かの結婚式で顔を合わせるくらいだった。

 ユウは私と同じ数少ない同世代独身組の1人だ。

「ほんま偶然やね。元気してた?」

 街中で不意に知人に会う事は何だか嬉しい。めったに会わない人ならば尚更だ。久しぶりに会ったユウは相変わらず長い髪を後ろで括っていた。

「元気やで。キクは仕事?」

「うん、取材でね。でももう終わった。ユウは?」

「私はちょっと買い物に。平日なのに京都は人が多いのねぇ」

 ユウは大学を卒業してから銀行の事務員の仕事をしていた。たまに平日休みを取得してゴルフなり買い物なりに時間を費やしたりしている、いわゆる独身貴族だった。

 2人とも用事が終わった後だったので喫茶店に入りお茶をすることにした。

 大学生の頃はよく練習終わりに2人でお茶をした。あれがもう12年以上も前のことだなんて本当に信じられない。

 2人でしたたくさんの話。お互いの恋人の話や誰それの噂話、将来の夢。私はそれらの何でもない話達を1つ1つ信じられないくらい鮮明に覚えていた。

 必死になって忘れないでいようと思っていたことよりも、特別意識していない日常の1コマの方が強く記憶に残ることもある。それはまるで予期せずポケットから落とし続けていたきらきら光るビー玉のようだ。木の幹に記したナイフで付けた傷よりも自分の歩んだ道を正しく示す。

「懐かしいね。2人でお茶するなんていつぶりやろう?」

 ユウはホットコーヒーにミルクだけを入れながら言う。

「ほんまにね。私がまだ会社を辞める前やと思うから7、8年ぶりかな? 働きだしても最初の方はちょこちょこ会ってご飯行ったりしてたやんな」

「うん、でもだんだん予定が合わなくなってきて。キクはいつも忙しそうやったしね」

「確かに独立してからは土曜も日曜もなかったからね。ユウは仕事は? 相変わらずなん?」

「うーん、まぁね……」

 ユウの返事は妙に歯切れが悪かったが私はあまり気にせず砂糖を追加したコーヒーをスプーンでかき混ぜていた。

「最近誰かバレー部関係の人に会ってる?」

 とユウが聞く。

「いやー、誰にも会ってないなぁ」

 本当は定期的にヒールとは会っているのだが、私は嘘をついた。

 ヒールとの関係を私は誰にも話さなかった。もちろん話せなかったということもある。関係が始まってもうだいぶ経つが、おそらく私たちのことを誰も知らないはずだ。

「そうか」

 最近では結婚ラッシュのピークを過ぎ、結婚式もなかなかない。また、地方へ出ている人も多く、集まるタイミングがないのだ。

「ユウは? 誰か会ってるの?」

「うーん……それがなぁ」

「えっ、何よ?」

「2つ下にマツっておったの覚えてる?」

「うん、覚えてる、覚えてる」

 2つ下の男子の後輩だ。童顔で背がひょろっと高い男の子で、バレーも上手かった。

「マツがどうしたん?」

「いやー……言おう言おうと思って先延ばしになってしまってたんやけど、私、マツと結婚することになったんよ」

 私は一瞬ユウが何の話をしているのか分からなくなった。聞き間違いにしてはやけにはっきりと聞こえた。

「……はい?」

「いや、ごめん。報告が遅れました」

 ユウがちょっと照れくさそうな表情を浮かべる。

「え? なんで? いつ? いや、いつから?」

 驚き過ぎて言葉が言葉になっていない。まるで高架下の壁の落書きのように衝動的で意味不明であった。

「結婚するのは半年後。付き合いだしたのはもう4年くらい前からかな? 会ったら言おう言おうと思ってたんやけど、なかなかキクと会う機会がなくて」

「えー! ほんまにびっくりした! なんやそうやったんや。マツとユウ、ちょっと意外やけど、いやー、ほんまかー」

「うん、それで一応結婚式もやろうと思ってるんよ。やからキクもきっと来てな」

「うん、絶対行くよ」

「ありがとう」

 私は心臓の音が早くなるのを感じ、水を飲んで気持ちを落ち着かせる。今の私は周りから見ると動揺しているように見えるだろうか?

 だとしたらマズい。勢いでコップの水を全部飲み干してしまった。ユウを見ると相変わらず照れくさそうな顔をしている。その顔を見て私は大事なことを思い出した。

「あっ、あの、おめでとう!」

 思っていたより大きな声が出てしまった。

「うん、ありがとう」

 ユウが笑う。だから私もなんとなく笑ってみた。相変わらず素敵な笑顔だ。一番言わなければならなかった言葉はたくさんの雑多な言葉に埋もれてしまっていた。情けない。真ん中を開け忘れたビンゴゲームみたいだ。

 そうか。ユウが結婚か。なんだかんだと言っても古くからの友人が幸せになることを私は嬉しく思っていた。

 しかしその反対の感情が全くなかったかと言われると嘘になってしまうだろう。

 今の生活を私は私なりに幸せだと思っている。身を固めたいという気持ちも無くはないのだが、特別焦っている訳ではない。

 問題は私の恋には先がないということだ。そんなことは以前から分かっていたし、お互いに理解していたことでもある。しかしこういう時、いつもその事実は針のようにチクチクと私の心を刺した。

 もう夕方近くなったが降り続ける雨は相変わらず街を沈んだ色に変えていた。

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