折れた天秤
初挑戦のジャンルです。暇のお供にどうぞ。
星々の煌めきに、僕自身の矮小さを見る、11月の寒空の下。縒れた煙草から燻る煙が、天を覆う広大な夜空の煌めきを覆い隠した。時折、星々の煌めきが降り注ぐ夜半のベランダで、煙草を燻らせながら、冬の風情の味わいを楽しむことが僕の日課だった。日々を怠惰に過ごし、家の外に出る時は決まって、買い物ついでのギャンブルに身を投じる毎日に生産性なんて有りはしない。生まれ変わった自分への憧れがないわけではないけれども、肝心の一歩を踏み出すための勇気なんて、二十歳を跨ぐ疾うの前に枯れ果ててしまった。
いや、勇気というべきか。やる気の問題なのかもしれない。惰性に任せて生きる日々に慣れてしまった僕は、新しく何かを始めることに対して、苦行に限りなく近いイメージを抱いていた。
だから、僕はこうして夜の帳に気配を消し、自分に秘めた宝玉の原石を見つけ出すことも、掘り出すこともせずに、自分に残された限りある命の灯火を、煙草の火種に焚べるんだ。
思い切り吸い込んだ煙は、吐息に混じり、白煙となって虚空に霧散する。日々に楽しみを見出すことさえ難しい僕だけれども、今だけは、至上の至福を全身で感じることができた。
フィルター付近まで燃え落ちた煙草を、ベランダの手摺に擦りつけ、手入れの行き届いていない庭に、寒々しく葉を散らしながらも悠然と伸びる椿へと投げ付ける。自室の白熱灯の灯りを浴び、仄かに輝く吸殻が、パチンコ台の釘を滑る玉のように緩やかに落下し、その身を暗闇へと晦ませた。
……今日はもう、いつものように動画を見て寝ようか。
いつもと何ら変わりのない日々に腰を据え、在りし日の夢が遠のく日常。遥か彼方に置き去りにしてしまった、未来への栄光を振り返ってみても、この手は届かない。溜息一つ、僕は窓の縁に手をかけた。
その時だった。
「よう」
聞き慣れた声が、夜の静寂を切り裂いた。低い声質の割には、透き通るように響く。
僕は窓の縁から手をそっと離し、彼の声音と日々の記憶の隅に焼き付いた彼の姿を思い浮かべながら、彼が居るであろう方向へと身体ごと振り向いた。
「君も一服?」
僕は、ポケットに入ったシガレットケースから煙草を一本取り出しながら、彼に問いかけた。
「ご覧の通り」
いつの間にやら、一本の煙草を燻らせていた彼は、白煙に表情を隠した。
比較的に築年数の浅い住宅が、広大な平野にぽつりぽつりと疎らに点在する、中途半端に新しい田舎町。何故か僕の家の隣に引っ越してきた彼は、僕の唯一の友人と言ってもよかった。食料品の調達さえ不便なこの町に何故、越してきたのかもわからないけれども、きっと彼なりの理由があるのだろう。深く詮索しようとは思わなかった。
「お前の呟き、見たぜ」
「くだらないことばかり垂れ流すアカウントだけどね」
さっき、僕が投稿した内容はなんだったか……。『部屋あったかい』だったか。
僕の言葉に、しばし彼は沈黙し、何事かを考えているような素振りを見せる。
「俺は、そうとは思わんけどな」
なんて、君は言ってくれる。でも、わかってるさ。僕と君のつぶやきの間には、花火とビッグバンほどの差があることくらい……。
「……」
少しばかり、盛りすぎたかもしれないが……でも、僕よりも有意義ではある。それは、間違いなかった。
僕は、風の流れに沿って、顔へと急襲を仕掛けてくる副流煙を扇ぎ払い、彼へと視線を戻す。
「君は、今日も仕事?」
彼はゆっくりと頷く。
「でも早めに終わったんだ。それから、書き途中の小説があったから……続きをな」
彼は煙草の灰を、手前に置いてあった、レンガ製のプランターへと落とした。
一人暮らしの彼は、生活費を稼ぐ傍らで、趣味の執筆活動に注力しているそうだ。何の仕事をしているかは聞いていないけれども、不定期な仕事の合間に、趣味の執筆活動をしているとだけ、話には聞いていた。先週も新作が書き上がったと、自室の窓から印刷された原稿を放ってくれたが、その文才は確かなものだった。
いつも思う。彼の小説は、本当に面白かった。読書が趣味で、ジャンルの好き嫌いなく読み漁っている僕が読んでも納得のいく面白さが、彼の書いた小説からは滲み溢れていた。
著名な作家というわけではないし、ネット上の読者もあまり多くないと聞く。だけれども、ファンを含めた読者の数は確実に増えていることだろう。そして、これからも着実に増えていくことだろう。
その文才、努力の才能に嫉妬しない理由はない。素直に、羨ましいなと思う。
でも、僕には闘争本能というものが極端に欠けていた。必ず、嫉妬の最後には『僕は、まぁいいか』と、諦めが先行し、レースに参加する権利さえも放棄してしまう。スタートラインに立つ以前の問題だ。いざ始めてみようかと奮起する気持ちさえ芽生えない。お話にすらならないんだ。
「君は、凄いよ」
だからなのだろう。煙草の長く枝垂れた灰に視線を落とす僕の口から、自然とそんな感想が漏れた。ほとんど、無意識の仕業だったように思う。僕が持たないものを持つ彼への羨望が生み出した、素直な心の吐露。僕の言葉が、彼の心に届いたかどうかはわからない。でも、彼の耳には届いているはずだった。
しかし彼は、僕の言葉が聞こえていないかのように空を仰いだ。同時に、薄く開いた口元から漏れる白煙が、煙突から立ち上る工場煤煙のように、風に靡いた。
「いや、俺は凄くないさ……」
続けて彼は、何か言葉を付け加えようとしたが、躊躇ったように顔をしかめ、口を噤んだ。同時に、静寂の再来を耳に感じ、僕も紡ぐべき言葉を見失う。
彼が言うべきか迷った言葉。逡巡の末に、口には出さず、胸中の奥深くに仕舞い込んだであろう言葉を、僕は易々と想像できた。「君が、弱いだけだ」とでも言いたげな、そんな表情を浮かべているよ。君は……。
「……僕は、自分の性に合っている生き方を選ぶよ」
枝垂れた煙草の灰が、自重に耐えきれずに落下した。暗闇に目が慣れようとも、月のない星空が照らす程度の命の輝きでは、果てのない暗闇へと消えた僕の命の燃え滓を、目で追うことはできなかった。
「まぁ、それは俺が口を出すことじゃないが……」
彼は、指先に挟んだ、まだ葉の残った煙草を摘み直すと、プランターの底へと放り捨てた。
「お前は、馬鹿だな」
ひらひらと手を振る彼に、煙草を挟んだままの手で応答する。カーテン越しに、僅かに漏れる灯りの先へと消えていった彼の後ろ姿を見送った僕は、まだ葉の残る煙草を一瞥し、手すりに擦り付け、またいつもと同じように闇へと放った。
「馬鹿……か」
何度も言われたよ。君に……。
生きているかも死んでいるかもわからないような人生だ。僕の生死が、他人に与える影響など……限りなく零に等しいのだろう。生き方も死に方も、人生について考える余地があるのかさえも、甚だ疑問ではある。
だが、彼が言いたいことは、何となくわかるような気がした。
「……」
それでも……これはこれでいいのかもしれないと、毎度のように思ってしまうのは、僕の心が貧弱だからなのだろう。現状を変えようとする勇気と、現状に満足してしまう惰性。天秤に掛ける前から、その解など予想できた。
身体を翻し、身体を捩じ込める程度に窓を開けると、暖房の暖気が、すっかり冷えてしまった僕の頬を撫ぜた。待ちわびていたかのように足元に擦り寄る猫と、暖房の効いた暖かい部屋。何不自由ない環境。変わらない日常に腰を据える十分な理由が、ここにはあったから……。
……
ネットサーフィンは趣味の一環だけれども、別に知識欲を満たすための所作ではない。これも惰性だ。やること、やるべきことがないから、ネットを徘徊しているかのように彷徨っているだけ。動画を見るのもそう。好きな投稿者の動画があれば、時間を潰す良い理由になる。
今日も、最近のお気に入りのゲーム実況者が新シリーズを投稿していたので、僕はこれ幸いとばかりに動画のリンク先へと飛んだ。
新シリーズとは言ったけれども、今作は過去作も含めて2作品目の投稿らしい。まだまだ拙いトークや、新鮮な反応が魅力的な、女の子による実況動画だった。たまたま広告欄に掲載されていたことが切っ掛けで、彼女を知った次第だが、実況に不慣れという理由もあるのだろう。作品投稿の頻度は低かった。まだかまだかと、かれこれ一ヶ月以上も新作の投稿を心待ちにしていたが……。しかし、ようやくその時は来たようだ。
しばしの読み込み時間の待機中に、別のタブで開いておいたSNSのタイムラインを眺める。好きな絵師が持論を垂れ流している最中で、内容は読まずに下へ下へとスクロールする。特に目新しい情報もなければ、気になるイラストや小説の投稿もなさそうだった。
一通り、タイムラインを眺め終えたところで、もう一度、動画のタブを開くと、既に動画自体の読み込みは終わっていたようで、再生の準備が整っていた。
どうやら今回は、最近発売されたホラーゲームの実況らしく、巷で騒がれているゲームの名が、動画自体の名前にも含まれていた。
ホラー物が苦手な僕だけれども、彼女の動画ならば、ホラー展開はむしろ和みの種になる可能性がある。彼女のいじらしいトークや可愛らしい反応を、ホラー要素が上手く引き出してくれるかもしれない。
「……」
そう。確かに、ホラー系のゲームに対する苦手意識は、彼女の実況であれば、克服できるかもしれない。それはまあ、良しとしよう。
だが、それとは別口で、幾つか気になることがあった。それは、彼女の素性にも関係してくることなのだけれども……。
僕は、動画再生ページの最上部に戻り、動画の詳細項目を、もう一度だけ隈なく確認した。
……僕は毎回、動画に飛んだ際、投稿された動画の題名と投稿日時、視聴回数は必ず確認するようにしている。動画視聴前に、この先に待つ楽しみを想い、昂る気持ちを研ぎ澄ませるため……と言っては、少しばかり仰々しいけれども。
しかし、彼女の動画は、僕が視聴する段階で、未だ0回再生のままだった。たまたま僕が、動画が投稿された瞬間にアクセスしているのであれば、まだわからないこともないのだが……残念ながら、そうではなかった。投稿日時は、僕が動画を視聴する段階で、数時間以上も前の投稿だったことを確認していたから……。
加えて、それは今作も同じだった。
……そんなに人気がないのだろうか。でも、僕と同じような流れで、ふらっと立ち寄った初見視聴者の一人や二人や十人や百人程度、いてもおかしくはないだろうに……。
さらにもう一つ。奇妙さを追加でレイズしておくと、彼女の動画には投稿者による動画の詳細説明というものがなかった。普通であれば、動画名の下に、長々と動画の説明や投稿者の情報の一つでも載せてあるものだが、彼女は違った。前作も今作も、動画情報欄には文字一つの記載もないままで投稿されていたんだ。
単に、動画の投稿に慣れていないのか。はたまた、彼女のみぞ知る、相応の理由があるのか。何にせよ、合点がいかない点はいくつもあった。
しかし、だからと言って、それら自体が動画の視聴を妨げる理由にはならない。動画自体は、少女の可愛らしく、幼気で、拙さの滲み出る実況の入ったゲーム動画だ。臆することがあるとすれば前述の通りだが、臆して動画を見ない理由には程遠かった。
以降の僕は、別段の躊躇もなかった。纏まった思考を箪笥の引き出しに乱雑にしまい込み、意識するまでもなく動画の再生ボタンを押していた。
だが……それは突然の来訪にも関わらず、非礼を詫びることもなく舞い込んできた。
「おおっと……」
バチッと、強烈な静電気が迸ったかのような音が一瞬。気付いた時には、視界が瞬く間もなく奪われていた。黒を黒と認識する前に視界が暗転し、何事かと思考を張り巡らせる間もなく、脳が麻痺した感覚を覚えた。
視界が闇に覆われた後に、僕が初めて理解したことは二つ。室内の照明が消えたこと。加えて、パソコンの電源が落ちたことだった。
停電だろうか。唐突なシャットダウンに加え、あの鼓膜に残る大きな音を踏まえると、ブレーカーが落ちたという可能性もある。20A程度の貧弱なブレーカーで、暖房やパソコン等々、家電全てを賄っているような家だ。可能性としては十二分だろう。
僕は、パソコンの脇に置いておいたスマホを手に取り、カメラのフラッシュを起動させた。十分な光量に慣れてしまった僕の錐体細胞は、暗所ではろくに働かず、桿体細胞も暗所に慣れるまでに時間を要する。十分な光量とは言えないけれども、今はスマホのフラッシュ程度の光でも、足場を確認する程度の働きは十分にあった。
そうだ……彼の家はどうだろうか。もし、彼の部屋の照明も落ちているようならば、この停電は外部的な要因に依るものと見て間違いない。そうでなければ、恐らくはブレーカーが落ちたと見て問題ないだろう。
僕は、乱雑に物やゴミが散乱した部屋の足場を慎重に確認しながら、西側の小窓をそっと覗いた。その結果……。
「停電か……」
それも、外部的な要因で発生したものだろう。
僕の視界の中心に見える彼の家。正確には、彼の部屋の照明は落ち、小窓から望む周囲一帯の様子も、あらゆる光源という光源が自身の役割を放棄し、普段は彩りある夜半の煌めきは失われ、世界は等しく黒に溶け込んでいた。
こんな状況も、なかなか珍しい。停電なんて、何年ぶりだろうか。
ホラー実況をいざ見始めようと思った矢先の状況に、少しばかり気分は昂揚していた。
「……」
なにとなく、この心境を誰かと共有したい。そう思うや否や、僕はスマホのフラッシュを切っていた。いつの間にか使い慣れてしまったスマホを、汗ばむ手で操作し、隣人の連絡先を開く。数少ない連絡先のトップに表示された『桐生安曇』の名をタップし、電話のコールを鳴らした。
しばしの鳴動。静寂が喧騒とさえ紛う夜半に鳴り響くスマホの鳴動音に、若干の恐怖を覚えながら過ごすこと数秒。憂いの全てを掻き消すかのように、回線が接続した。
「おう、どうした」
「この状況で、その台詞が出てくるなんて、肝が据わってるね」
溜息混じりの嘆息が、覗き込む窓を白く曇らせた。確かに、彼らしい台詞ではあった。
「この状況?」
彼の心底不思議そうな声音が、スマホ越しに伝わってくる。
「停電だよ、停電」
僕は、小窓から彼の部屋を見透かすように、カーテンで閉じられた彼の部屋を覗き込んだ。間違いなく照明の消えている彼の部屋。毎日のように三時頃まで起きているはずの彼が、既に眠りについていたとは考えづらかった。だからこそ、僕はこの停電が外因的なものだと断定したんだ。
「へぇ、ブレーカーでも落ちたのか?」
なのに君は、僕の憂いを汲み取ってくれる気配もなく、僕の予想をいとも簡単に裏切るんだ。
「……いや、君の部屋も灯りが点いてないじゃないか」
僕は、焦る気持ちを抑えながらも、僕の網膜が捉え、脳が認識する事実を伝える。光源の『こ』の字さえも見当たらない彼の部屋が、何よりの証拠と呼べるはずだった。
だが、脳裏を掠めた嫌な予感の中核に位置する現象が一つ、曖昧な可能性として存在していた。僕が認識する事実と、彼の認識する事実の間に存在する齟齬。初めから、薄々ながら感じてはいた。それも、今までに感じたことがないような、強烈な違和感と焦燥感。そして現状を危惧し、警告を発する深層意識の叫びだ。
「俺の部屋は、煌々と光り輝いているが……」
「え?」
その言葉は、僕の予感を裏付ける、決定的な一言だった。唐突な非日常にワクワクとしていた気分を、崖から容赦もなく叩き落とすには十分過ぎるほどに……。
煌々と光り輝いているだって?
「でも、僕の部屋から見える君の部屋は、まず間違いなく暗々とした様相を見せているのだけど……」
「お前はいったい何を見ているんだ?」
スマホ越しに聞こえる、彼が椅子を立つ音。同時に、僕の鼓動は早まり、心の警鐘が鳴り響く音が、猛烈な勢いで鼓膜を叩く。
彼の認識する事実と、僕が認識する事実の間に齟齬が発生していることは明確だった。そして、そのどちらも事実だとすれば……。
スマホから、カーテンを引く音が響いた瞬間、僕の意識に存在する、ありとあらゆる音が止んだ。静寂が支配する世界で、僕の心の警鐘だけが鳴り響く中、僕は無意識に願った。
止めろ。言葉を発するな……と。
「なぁ……」
だが、世は常に無情の世界。神は、成就と裏切りを司る運命。その願いの一切は、須らく聞き届けられなかった。
「お前の部屋も、煌々と光り輝いているのは、俺の見間違いなのか?」
僕の心を打ち鳴らす早鐘。そして、心の警鐘に呼応するかのように、僕の心拍数は上昇の一途を辿る。
「……それは、君の見間違いだろう?」
「だとすれば、俺は早々に眼科の世話にならなければいかんわけだが」
スマホから無機質に流れる君の声は、至って真面目な様子で答える君の姿を易々と想起させた。
「ちょっと待って。君は今、どこにいるんだい」
「俺か?」
その言葉を最後に、君の声はしばらく、なりを潜める。警鐘が激しさを増す僕などお構いなしに、スマホはしばらくの沈黙を決め込んだ。冷や汗が伝う額。違和感を感じる暇さえなく、永遠のような時間を経て、君はようやく沈黙を解いた。
「俺の部屋から、お前の何変わらぬ部屋を眺めているよ」
だが、そう答える君の姿を、僕の部屋から見える、暗闇に溶け込んだ君の部屋に見つけ出すことはできなかった。君の部屋の小窓にも、先程まで底の見えない暗闇を隔てて、同じ時間を共有しあったベランダにも、僕の家から見えるあらゆる場所に、君の姿は見当たらなかった。
「ちょっと待って。今から君の家に行くから、玄関で待っていて欲しい」
口早に告げる、心からの叫び。だが、君の応答はなかった。刹那とさえ感じた数秒を待とうとも、君の声は聞こえない。無機質なノイズを、スマホの小さなスピーカーから垂れ流すだけだった。
「あずみ?」
堪えきれずに応答を急かす僕の言葉も、無機質な闇に溶けて消える。応答は、なかった。
「ねぇ、聞こえてる?」
「……」
聞こえているかどうか。それは、聞くまでもなく明白だった。つい先程まで声を交わし合っていた君はもう、この回線の先には存在しない。スピーカーから流れるノイズが、それを如実に、冷酷に物語っていた。
「……」
僕は、スマホを操作することさえも忘れ、それを力なく、耳から下げる。同時に、君のいない君の家を眺められる小窓から一歩一歩と後ずさり、部屋に散乱するゴミを踏みつけながらも、すっかり冷たくなった椅子に腰を落とした。
何故。何が起こっているのか。
思考が纏まらない脳を必死に回転させるが、答えは見えては来ない。さっきまでの行動を思い起こしてはみるものの、非現実の来襲に恐怖する心が先行し、まともな思考さえもままならなかった。
汗ばむ手と、冷や汗が止まらない額と背筋。震える膝と、早くなる呼吸。目に見えない恐怖が軍靴の音を響かせて、僕のすぐ傍にまで近寄っていた。
これから……どうすればよいのか。どうすべきなのか。まずは、現状を把握しなければならないと、頭では理解しているつもりだ。だが、どうしても正常な思考を邪魔する、心の弱さが顔出してばかりで、なかなか先へと進むことができなかった。
椅子から腰を上げ、スマホを持ち直し、フラッシュを灯す。
そうだな。まずは、整理しよう。
僕は、部屋の天井に取り付けられている、灯りの失せた照明を見据えた。
現在、僕が理解している、明確な事実は二つだ。僕の生活圏内の全てが、完全に停電してしまっていること。そして、君との音信が不通であること。理由の一切は不明だが、二つは事実として存在している。
……ならば、僕のすべきことは、自ずと決まってくるはずだ。
僕は、震える足でゆっくりと立ち上がり、スマホの灯りを頼りに階下へと向かった。
まずは、ブレーカーを確認すること。次に、君の家へと直接出向き、君の姿を確認すること。もしかすれば、君がタチの悪い悪戯を僕に仕掛けているのかもしれない。そうだとも。一番、現実的な考えじゃないか。明確な事実から導き出される可能性の一つ一つを、確実に潰していこう。
一歩一歩の足取りは重かったが、微かな希望は見えていた。僕は、部屋に散らばるゴミを避けながら、心を落ち着くかせるように、ゆっくりと歩を進めた。
……
人は焦ると、正常な思考に至らないというのは、どうやら本当のことらしい。冷静になって考えてみれば、ブレーカーが落ちていたとしても、この街の全体から灯火が失われている理由は導き出せない。そして、君が玄関の戸を開け放ってくれたところで、他のあらゆる現象に説明がつかないことは、少し考えればわかることだった。
案の定、ブレーカーに異常は見当たらなかった。ブレーカーの周辺にも、別段おかしなところはなく、君の家まで出向いて、インターホンを押してみても、うんともすんとも言わなかった。玄関の戸を叩いてもみたさ。でも、開いた戸の先に君の姿を見ることは叶わなかった。
正直、分かりきっていたことでもある。だけれども、今になってようやく理解し、そして確信した。
ここに、君はいない。君が、別の世界に消えてしまったのか。それとも僕が、別の世界へと消えてしまったのか。恐らくは、後者なのだろう。理由を知る由もなく、自分の意思とも関係なしに、どうやら僕は、自身が生まれた世界とは別の軸の世界線に飛ばされてしまったらしい。圧倒的に不足している情報を頼りに、無理やり理由をこじつけるとしたら……の話だけれども。
しかし、理由がわからないからと言って、このまま何のアクションも起こさずに、ボーッと吉報を待つというのも頂けない話だ。情報が足りないのならば、情報を掻き集めるしかない。現状を変えたいと願う意思がある今、意思を行動に示さない理由はなかろう。
だが、情報を掻き集めるための目星となるソースが不足していることも否めなかった。
「はぁ……」
八方塞がりとは、こういう状況を指す言葉なのかもしれないな……と、切に思う。吐き出す溜息は震え、希望を見失い、微かな可能性を否定された現状、僕にできることは、この町の様子を探ること。それくらいのものだった。
とは言え、どこから探ればいいのか。宛て所なく彷徨って、何か良い情報は得られるのかどうか。当たり前の話だが、こんな状況に陥った経験など、僕の二十数年の人生道中、一切合切を振り返ろうとも記憶にない。つまるところ、ここで僕の適応力が試されるわけだが、残念なことに、効率的に探索するための妙案は捻り出せそうにもなかった。
でも、今は何でもいい。0が1になる情報が欲しかった。0から100に飛ぶ必要はない。たった一歩先へと進める情報でよかった。未来も、この現象の正体も、自分自身が置かれている状況さえも不透明な今、非効率的であることを躊躇していては、これから先に待ち受けている未来に耐えらるかどうかも怪しい。
今は、丸裸で無防備な状況を危惧する暇なんてなく、現状を打破することが先決だった。ここで足踏みをしていても、ここで掴み取れるであろう未来に希望は見出だせない。まずは、肝心の一歩を踏み出さなければ……。
「……」
僕は、汗ばむ手をポケットに突っ込み、未だに震える足で、視界が悪く薄暗い夜道を歩き始めた。
……
幸いなことに、普段から上着のポケットに常備しているシガレットケースには、煙草がケース一杯に詰まっていた。これ一つで、僕の生き甲斐の五割を占めると言っても過言ではない。これといった趣味を持たない、堕落した人生を怠惰に歩む僕に連れそう、頼れる相棒だった。
僕は早速、シガレットケースから一本の煙草を取り出し、火を灯した。静寂を切り裂く靴の音と、ライターの着火音。一息、深く吸い込むニコチンが肺に染み渡る感覚は、こんな状況でも落ち着きと安らぎを感じられる。足取りは、不思議と軽くなった。
だけれども、軽い足取りに反して、未来の展望に光は見えてこなかった。訪れる先々で、着々と積み重なる情報は、総じて負の要素を孕んだ、暗雲に閉ざされた未来を彷彿とさせるものばかりだ。
多くを回ってみたさ。僕の記憶に染み付いた風景との相違点、類似点。明瞭な記憶がある場所には、とりあえず訪れてみた。
だけれども、僕がよく訪れる商店には、当然のようにシャッターが降りていた。まだ夜更けだからと理由を付けるならば、この世界に可能性は見い出せたかもしれない。しかし、不躾を覚悟で、半ば諦めつつも家宅の戸を叩いてはみたが、案の定、人の姿を拝むことは叶わなかった。
そしてそれは、訪れる先々、みな同じだった。
馴染みのパチンコ店は、シャッターこそ降りていなかったものの、完全な暗闇と静寂に包まれ、愛着のあるパチンコ台は、つい先程、与えられた使命を全うしたかのように、ひどく静かに眠っていた。活気の気配が残り、現状と相まって、ひどく寂しさに満ち満ちた姿だった。
そして今、パチンコ帰りの一服のために寄る機会が多かった神社に訪れてみた。古ぼけた柱に寄りかかり、煙草を煙ゆらせていた日々を思い出すと、自然と寂寥感が込み上げてくる。
ここも……パチンコ店と同じだ。ほんの数刻前までは宿っていたかのような、命の残り香が漂っているんだ。
「……」
僕は、一息大きく吸い込んだ煙を、鼻腔から細く長く吐き出した。
さて。どれほど歩いただろうか。
週に一回ほどしか外に出る機会がない僕は、歩き疲れた足を休めるために、支柱に凭れかかったまま、縒れた煙草を吹かしていた。
そこで、僕は必死に考えていた。得られた情報を基に、僕が顕現した、この世界が存在し得る由来について。
この世界は、僕が飛ばされた瞬間を切り取り、そのままの姿で再構築した場所であるという印象を受けた。僕が、僕の知る世界から消えた、午後十時。ここは、当該時刻に存在した世界の様相を、そのままの姿で再現したかのような世界だった。ただ、言語を解する生物は僕、唯一人。僕にとって馴染み深い場所を巡ってみて得られた、この世界についての考察だった。
何故、僕だけがこの世界に在るのか。抽象的な理由にさえも辿り着きそうにはない……が、確かに僕は、つい先程まで自身が存在していた世界とは隔絶された世界に存在することに、間違いはなかった。
「はぁ……」
深く吸い込み、囁くように吐き出す吐息に混ざる白煙が、靄に紛れ、世界に溶け込むように霧散する。
ただ、可能性として存在する、この世界に僕が在る理由についてだが……例の実況動画。その再生ボタンを押した瞬間に、不可思議な現象が発生したことは事実だ。
例の動画が現状を打開する鍵であるという、都合の良い希望を込めた可能性。得られた情報の各々も踏まえ、僕は、可能性はあると思い至った次第だ。
もし、理由もなく、運命が僕を選び、僕に試練を与えているのだとしたら、何を考えたとしても無駄なのかもしれない。だけれども、物事には全て、直接的であるか間接的であるかの違いはあれど、必ず理由がある。そう仮定するならば、現状で最も可能性として考えられる理由が、例の実況動画だった。
……この可能性が視野を広げてくれた今、家に戻れば、何かが見つかるかもしれない。
新たな可能性に希望を見出した僕は、煙草を神社の石畳の上に擦りつけ、来た道を引き返そうと体勢を立て直した。
その瞬間だった。
「バチが当たりますよ」
何者かの気配を感じたと同時に、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。加えて、耳を擽るような幼声。
僕は反射的に、声の聞こえた方向へと、身体ごと向きを変えた。
「……人か?」
振り向いた先。僕から数メートルほどの距離を空け、靄に包まれた小さな影。曖昧な輪郭の先に立っていたのは、幼気な少女だった。後ろ手を組み、この時期にそぐわない純白のワンピースを纏った、可愛らしい少女だ。
「はい。人間です」
少女は、容姿にそぐわない端麗な笑みを浮かべながら、僕の方へと歩み寄ってくる。
白銀の長髪を揺らし、色素の薄い柔肌を夜風に晒し、華奢な身体に靄が絡む。世辞を抜きにしても、絶世の彼方からやってきた存在とさえ感じるほどの麗しさを、その身に宿した少女だった。
「ようやく、人の姿を目にしました」
僕の眼前に立ち、僕の目を見据え、嬉しそうに少女は微笑む。頬が仄かに上気し、朱を滲ませているように見えるのは、僕の気のせいだろうか。
「君は……何故ここに?」
「わかりません。ただ、とある動画を開いた時には、ここに……」
とある動画……。
「それは、〇〇さんの実況動画……?」
「はい。ということは、あなたも?」
「ああ。君と同じ状況だ」
少女は、「そうですか……」と、俯いた。
だがこれで、一つ確信が得られた。この世界に繋がる手掛り。確実に、例の実況動画を介在して、この世界に僕は在る。そして、この少女も……。
ということは、同じようなルートで、この世界に飛ばされた人間が、僕たち以外にも居るかもしれない。元の世界の住人が、この世界に紛れ込んできているかもしれない。
確かな希望を、僕はこの少女に見た。
「とりあえず、人を探さないか?同じような人たちが、もしかしたら居るかもしれない」
僕は、シガレットケースをポケットの奥にしまい込みながら、少女の目を見据えた。
「当ては、あるのですか?私たちの他に、人が居る確証が……」
少女は、若干悲しそうな表情を浮かべながら、僕に問いかける。僕は沈黙し、しばらく考えた。当てはあるのか。この世界に、僕たち以外の人間が紛れ込んでいるのかどうか。この世界に昔から住む人間がいるのかどうか。
だが、答えは決まっていた。
「当てはないし、人が居るかどうかもわからない」
僕は素直に答えた。
「だけど、こうして君と会えたんだ。居る可能性はゼロじゃない」
そう。いない可能性は雲の彼方ほど高いかもしれない。でも、いる可能性は、微粒子ほどの小さな確率だとしてもゼロじゃないんだ。この世界に、物理的な果てはあるのか。そもそも、ここは物理的に存在する世界なのか。ただ、僕の夢の世界なのか。何もわからないけれども、だからこそ、そこに可能性がある。その可能性を求めて、探求を続けていくことは、決して無駄なことじゃないはずだ。
「私に会えたから、あなた以外にも人間が存在するかもしれない……」
少女は憂いを帯びた瞳で空を仰いだ。靄とさえ見紛ってしまうほどに白い吐息が、宙を漂い、霞むように靄に紛れた。しばしの沈黙。静寂が身を刺す刹那。やがて、少女は小さく頷いた。
「そうですね。何か手掛かりが見つかるかもしれません」
少女は、幼気な微笑みを浮かべた。聡明さが滲み出る微笑みに孕んだ、少女特有の幼さを、僕は彼女の微笑みに見る。何となく僕は、『妹』という概念を連想した。
「じゃあ、行こうか」
僕は、少女を先導するように、彼女の前に出た。
その刹那。
「えっ?」
小さな温もりが、己の左手に触れた。反射で、浜に打ち上げられた魚のように、身体が跳ね上がる。
首が自然と、少女の方へと動いた。
「ど、どうしたの?」
少女は僕の左手を、華奢な身体から伸びる細い右手で、そっと掴んでいた。人生で初めての出来事に、声まで上擦ってしまう。体の強張りを、全身に感じる。
反して少女は、特段の躊躇もなく、僕の手を掴んだようだった。
ただ……。
「少し、目が悪いので……」
そう、俯き加減で答える少女の頬。浮かぶ朱の火照りを、僕の目は見逃しはしなかった。
「……なら、仕様がない」
しばらく逡巡したけれども、僕は、自分の手よりも一回りも二回りも小さな手を、折れてしまわないように、そっと握り返した。
……まさか、生まれて初めて触れる母親以外の異性が、理由もわからん世界に顕現した末に出会った少女になろうとは、夢にも思わなかった。誰が予想できたか。いや、誰にも予想できはしまい。
僕は、彼女を先導するように、ゆっくりと彼女の歩調に合わせながら歩き出した。
……
しかし、まぁなんだな。この世界でなければ、喜ぶべき状況なのだろうか。
……いや、むしろこの世界だからこそ、喜ぶべき状況なのかもしれない。もし、現実世界に居ながら、この状況に置かれたとしたら……いくら田舎とは言えど、官憲の世話になることは間違いない。
昨日までの人生。そして、今の状況だ。人生、何が起こるかわからないもんだと、つくづく思う。
なんて……この世界に飛ばされた人間が、僕以外にもいるとわかり、現状を楽観視する心の余裕が生まれてしまっていた。
最悪、この世界から抜け出せなくても、それはそれで幸せなのかもしれないとさえ……。
「……」
だけれども、現状について、理解できないことも増えてしまった。
そうだな。まず、少女の歩幅がわからない。そして、年頃の少女と、何を話せばいいのかもわからなかった。気を抜いてしまえば、少女の手が真っ直ぐに伸びてしまうこともあった。
そして、神社から数百メートルは歩いただろう。その永遠とさえ感じる道中、彼女との会話は一切なかった。
何を話せばいいのか。本当にわからないんだ。今日はいい天気ですね。とでも、話せばいいのか?会話慣れしていないのがバレバレじゃないか。
少女相手に、そんな気を使う必要はないのかもしれない。しかしだ。会話がないまま、このまま延々と先の見えない世界を彷徨い続けるというのも、果たして如何なものかと思うわけだ。
中学生少女の間で流行っているアニメや漫画の話でもできればいいのだが、残念ながら、その手の流行には疎い。ネット上で流行っている動画や、ネット上の掲示板の話題ならば、いくらでも引き出しがあるものの、当然ながら使い物にはならないだろう。
「ううむ……」
「どうかしたんですか?」
背後から、少女の何事かと気遣う声が聞こえてくる。
「ああ、いや。これからどうしようかって考えてたんだ」
咄嗟に出てきた出任せ……いや、強ち間違いでもないか。咄嗟に捻り出したにしては、なかなかどうして、それらしい理由が口を突いて出た。
「んー、そうですね……」
ふと横を見ると、いつの間にか少女が横に並んで歩いていた。空いた片方の手を口元に当て、何事かを考えている様子。恐らく、僕よりも頭が回っているのかもしれない。
「とりあえず、町を一周してみませんか?」
「町を?」
「ええ。人探しと、情報集めの両方を兼ねて」
実際、僕もそのつもりで歩いていたわけだが、それならば話は早い。
「じゃあ、このまま歩いてみようか」
「はい」
彼女の微笑みに、僕の口元も自然と綻ぶ。歩みは止めず、道の果ては見えずとも、先ほどと同じように、彼女に歩調を合わせながら、靄に包まれた道を、僕たちは進む。
「あ、忘れてました」
ふと思い立ったかのように彼女は立ち止まり、引っ張られるように、僕も立ち止まる。立ち止まる彼女の方へと、身体ごと視線を合わせると、長い髪を戦ぐ風に靡かせながら、少女は姿勢を正していた。
「名前、まだ紹介していませんでしたよね」
「ああ、そう言えば……」
僕の言葉に満足したかのように頷くと、少女は一つ、軽くお辞儀をした。
「藤堂 未夢と申します。この世界に居る間、よろしくお願いしますね」
年相応の微笑みと合わせ、華奢な身体と清楚な佇まいに目を奪われながらも、僕はお辞儀を返した。
「藤堂、みゆ?」
「はい。未だ夢と書いて、みゆと読みます」
未だ夢……か。なんともタイムリーな名前だな……なんて、言えないけれどもさ。
「藤堂……さんか」
「いえ、『みゆ』でいいですよ」
みゆ。いきなり名前で呼べと申すか、この少女は。
「みゆ……さん?」
「み、ゆ」
段々と呼び名のハードルをあげてくれる少女の幼気な微笑みが、若干ダークに見え始めたところで、僕は観念した。
「みゆ」
「はい」
僕の呼びかけに答える少女は、満面の笑みを浮かべていた。名前呼びの気恥しささえも吹き飛ぶ、僕の目に、脳に、心にさえも焼き付いて離れそうにない、純白の微笑みだった。
僕の憂い、思い出の諸共を上書きしてしまいそうなほどに……。
「では、次にあなたのお名前を……」
少女は、微動だにしない僕を急かすかのように、僕の自己紹介を促した。
「僕は、平塚聡」
咳払いを一つ、自分の名を告げる。僕の人生で、二度目となる自己紹介だった。
「あきら、さんですね」
「ああ。聡明の『聡』と書いて、あきら」
あまり自分の名を告げる機会はない。そして、僕は自分の名が好きではなかった。
「良い名だと思います」
「名前、だけはね」
そう。名前だけはな。名は体を表すとは言うけれども、名を意識した結果として、当人が名に恥じない精神、身体を獲得していくのだろう。僕は、名を汚した生き様を経て、今ここにあった。
だが、僕の名に関して、少女は特に追求してくるようなことはなかった。
「あきらさん。これから、よろしくお願いしますね」
もう一度、数分前のお辞儀よりも深く一礼する少女。ぼくも、「こちらこそ、宜しくお願いします」と、妙に畏まった言い方になりつつも、深くお辞儀を返した。
……
自己紹介とは、大変に偉大な行為だと思う。そこから、特に会話に不自由することはなくなった。というのも、みゆが手頃な話題を振ってくれたことが大きかった。普段は何をしているのか。ゲームは好きか。好きな本は何か。あまり自分のことは語らない少女だったが、僕が語りやすい話題ばかりを選んでくれたのだろう。投げてくれる話題の殆どは、僕が流暢に語れるようなものばかりで、とても親しみやすい女の子だったと知った。
だからなのかもしれない。僕が飛び越えられないと思っていた高さの垣根は、よくよく見れば、僕がよじ登ることができる程度の高さだったことを理解した。気が付けば自然と、僕の方からみゆへと、それなりに会話を振ることもできるようになっていた。
「へえ、お父さんが煙草を吸ってるんだ」
「はい。銘柄も、あきらさんが吸ってるものと同じですよ」
「え、本当?」
次から次へと知る、みゆの置かれていた環境と、みゆ個人の人生。僕は、自分の上着のポケットからシガレットケースを取り出した。ケースを開き、敷き詰められた煙草をみゆへと見せる。
「やっぱり同じです」
みゆは嬉しそうに微笑むと、小さな手で自分のポーチを漁り、見慣れた大きさの箱を取り出した。
ポーチなんて持っていたのか……って、そうじゃない。
まさかとは思ったけれども、それは僕が今、指先に摘んだ煙草が元々収められていた箱と同じものだった。
「え、まさか……みゆも?」
「いえ、違いますよ」
みゆは、煙草を持つ手を大げさに横に振った。
「父が外出する時、よく煙草を家に置き忘れるんです。だから、その時に渡せるようにって……」
「なるほど……」
果たしてそれは教育上よろしいことなのかどうか、判断しかねるところではあるが……。まあ、みゆが吸っていない以上、何も言うことはない。
「家に買い置きしてあるので、いつでも持って来れますよ」
みゆは、手に持った煙草を大切そうに、ポーチへとしまった。
「持ってこれるって、この世界に居る間は無理だろう?」
僕は笑いながら、手に持つシガレットケースを自分のポケットに突っ込む。しかしみゆは、手を小さく横に振った。
「いえ、家が近いので、いつでも持ってこれますよ」
……。
僕は、耳を疑った。
「家が、近い?」
「はい」
幻聴かと思ったが、どうやら聞き間違いではなかったらしい。
しかし、よくよく考えてみれば、至極当然な話だとも言えた。僕たちがここに在る理由の根底には、例の動画を介在していることは、まず間違いないだろう。そして、例の動画を開くためには、インターネット上に繋がる端末がなくてはならない。パソコンか、ポータブルデバイスか。種類はあれど、動画を開くことができる端末は限られている。そして、みゆがスマホやガラケーといった端末を持っていないことは、ここまでの道中の会話の中で聞いていた。
おそらくみゆは、自宅にあるパソコンで、例の動画を開いたのだろう。そしてその場から、この世界に構築された当該地点に飛ばされた。
ここで会うことができたのは、僕たちはお互いが出会える距離で例の動画を開いたからに他ならなかった。
「……じゃあ、僕たちってご近所同士?」
「たぶん、そうだと思いますよ。だから、私たちは出会えたんです」
そうか……なるほどな。だからみゆは、僕と出会った当初、この世界にいる別の人間を探しに行こうと言った時に難色を示したのか。同じような偶然が、そう何度も重なるとは思えないしな。
「私の家……来ますか?」
「え?」
突然の言葉に、心臓が激しく脈打った。年頃……とは言っても中学生ではあるが、十を遥かに超えた少女からの誘いに、三十路ともなろう男の心は、いとも簡単に揺らいだ。
「……いいの?」
「はい。わざわざ家があるのに、野宿……というわけにもいきませんから」
そりゃそうだ。何時、この世界から抜け出せるかもわからない上に、両者の自宅が近くにあるんだ。野宿する理由なんて見当たらない。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「はい。りょーかいです」
少女を先導していた僕の前にみゆは歩み出て、僕の手を引く。心做しか、ウキウキしているようにも見えるが……。
「人を私の家に招くなんて、何年ぶりでしょうか」
みゆは、現状を楽しんでいるかのようにも見えた。
そうだ。しかたがなく、僕は幼気な少女の家に上がるのだ。そこに他意は存在しない。邪な考えも、存在しない。存在してはいけないのだ。
そう自分に言い聞かせるが、身体というものは正直である。誤魔化しの効かない本音と、それを真に受ける心の音は早まる一方だった。
……
みゆの自宅と僕の自宅は、思った以上に近所だった。それどころか、僕の自宅の二階から眺められる距離にあり、時おりボーッと眺めていた景色を構成する一軒家の一つだった。
ここまで近所だったとはな……。
軒下から、みゆの家を眺めながら、人事のように思う。
「どうぞ。あまり、庭は見ないでくださいね……」
みゆは玄関の戸の鍵を開けつつ、尻すぼみになりながら言葉を紡ぐ。
だが、人間というものは天邪鬼である。そう言われたら、むしろ見たくもなるさ。
僕は、みゆの背を目の端に置きながら、見るなと言われた彼女の自宅の庭に目を遣る。
草木が生い茂り、お世辞にも綺麗とは言えない庭が広がる、田舎特有の広い敷地。しかし、『みゆの自宅の庭』という付加価値が付いた庭園は、言う程の荒れ模様には見えなかった。むしろ、ある種の美しささえ見いだせた。
やがて、引き戸の隙間に挟まった砂利が擦れるような音を立て、引き戸が開かれた。僕は咄嗟に視線を、みゆの背に戻す。
「はい。汚いところですが……」
「じゃあ……お邪魔します」
みゆ以外の誰がいるはずでもないが、僕は遠慮がちに敷居を跨ぐ。僕のよく知る日本家屋独特の線香の香りが、僕の鼻腔を撫でた。
「あ、ちょっと待っててください」
みゆは何かを思い出したように、慌てながら僕を制し、丸みを帯びた白いタッセルローファーを乱雑に脱ぎ捨てながら、玄関を走り去って行った。
僕は、みゆの背を見送り、みゆが脱ぎ散らかしていった靴を見据えた。
……揃えておくか。
一足を手に持ち、少し離れたところに飛んだ片割れを掴む。つい今しがたまで履いていたためか、仄かに残る温もりと篭った湿気が、手にまとわりつくような感覚を覚えた。
名残惜しさに後ろ髪を引かれながら、二足を揃えて、玄関の上がり端のすぐ傍に置く。身体を擡げ、少女の走り去った気配の残る床を見据えれば、少女の湿気が残る足跡が点々と、奥の部屋へと続いていた。
大義名分。
ふと脳裏を掠める言葉を、念を込めた一撃で振り払う。これは善意が為せる業だと、自分に頑なに言い聞かせながら、彼女の到着を待った。
時おり聞こえる、少女が走り回る音をBGMに、玄関の造りや、置かれたインテリアを眺めながら待つこと数分。
「すいません、お待たせしちゃいました……」
息を切らせながら、みゆが奥の扉から顔を覗かせた。
「いや、大丈夫だよ」
僕は、上がり端に腰を下ろしながら、靴を揃えて脱いだ。
「こちらです」
手招きする嬉しそうな様子のみゆに、若干の心苦しさと申し訳なさを感じつつ、みゆの後を続く。炬燵のある部屋を抜け、年季の入った軋む廊下を抜け、急な階段を登り、たどり着いた扉の前には、『みゆ』と記されたウサギのプレートが掛けられていた。
「ここって……みゆの部屋?」
「はい。通すなら、ここかなって思って……」
「そ、そうなの……」
力強い動悸、感じる息切れ。更年期障害ではあるまい。単純に、緊張から来る心の叫びだろう。
「もしかして……嫌、でしたか?」
悲しそうな悲哀に満ちた、みゆの表情を見てしまった僕は、「違う違う」と、全力で手と首を振る。
「ちょっと、物怖じしただけだから」
「物怖じ?」
「いや、なんでもない。こっちの話」
僕の心を乱暴に暴れ回る焦燥感を悟られまいかと、必死に言葉を取り繕う。みゆは不思議そうな表情を浮かべたが、すぐにいつもの笑顔に戻り、自室のノブを捻った。
「どうぞ」
思考がまとまらない僕に、無垢な眼差しを向けながら、扉の先へと僕を招いた。
俗世を離れ、聖域へ。跳ね回る心臓と、重い一歩一歩の足取りが、僕の体力をメキメキと減らしていった。
「……お邪魔させていただきます」
玄関の戸をくぐる時よりも低姿勢な僕の言葉が、静寂に木霊した。
みゆの自宅と聖域を隔てる扉に足を踏み入れた瞬間、鼻腔に触れた香りが、僕の脳を乱暴に掻き回した。僕の語彙力では到底説明できないような良い香りに、頭がぐわんぐわんと揺れる。いつかの日に自宅で嗅いだローズマリーの香りと、石鹸の香りを混ぜたような香りとでも言おうか。仄かな線香の香りも合わさって、複雑な芳香に包まれた空間が、ここにはあった。
「……」
圧倒的な情報量の多さに立ったまま呆け、周囲を忙しなく見渡す僕の横へと立ち、「あまり観察しないで下さい……」と、釘を刺すみゆ。
「あ、ごめん……」
と、自然と口から漏れ出すものの、周りを見渡す視線は止まりそうにない。
整然と並んだインテリア。書架には、ピンクを基調とした背表紙の漫画や参考書、難解さが滲み出た学術書が並び、ガラス張りのテーブルの真ん中には、ピンクのガーベラが生けられていた。白のベッドには、大小様々なウサギのぬいぐるみが置かれ、ベッド脇の窓際には、純白のレースが付いた半月状のカーテンが、部屋と窓を仕切っていた。
まるで別世界のようだった。実際、別世界ではあるのだが、別世界の中に別世界が広がっていたかのような衝撃を受けた。
「何ていうか……凄いな」
語彙力の一切が欠如し、この空間を的確に表現する言葉が見つからない。ただただ驚愕し、心が昂るばかりだ。
「そんなに珍しいですか?」
「ああ。女の子の部屋に入ったことなんて、今日が初めてだからね」
そりゃそうだ。友達だって、隣人以外に居た試しがない。ましてや、年頃の女の子の友達なんて居るはずもなければ、部屋に上がるなんて話は夢のまた遠い夢の話だった。少なくとも、今日までは……。
僕はみゆに誘われるがまま、ガラステーブルの前に置かれたソファの上に鎮座した。
「ん?」
ふと視線を感じ、顔を上げると、みゆは何故か僕の方を見据えたまま、口元を片手で抑えて笑っていた。
「あきらさん。大仏様みたいですよ?」
「大仏?」
僕は自分の手元を見る。が、特に大仏らしき御姿を晒しているとは思えない。僕は、どこが大仏なのかと問うつもりで、テーブルを挟んで眼前に立つみゆを見上げる。
「座り方、です」
みゆは、跳ねるような足取りで僕の隣にやってくると、徐ろに僕の隣に腰掛け、僕の膝下を啄いた。
「……」
……まだケツの青い少女の一挙一動に翻弄されているようでは、男の尊厳に関わるってもんだ。僕が男の尊厳を語るのは、男らしい男に申し訳も立たんが、今は情けなさと焦燥感、この緊張感を紛らわせるための理由が必要だった。
みゆの華奢な身体と、僕の古錆びた身体との距離は、彼女の腕一本ほどもないだろう。二者間に働く万有引力が僕たちを引き寄せてしまうかもしれないと、混乱した頭が妄想に浸る。
だが、物理的には触れそうで触れない距離なのに、果てのない那由多の彼方ほどの距離とさえ感じる心の距離は、到底埋められるものではないとも、現実的な側面を持った心は理解していた。少女と三十路を控えた大の大人が釣り合う世界とは、果てしなき夢幻の世界。夢想の彼方にある、パライソにも等しい。
……別に、みゆと結ばれたいと言う話ではない。しかし、現実とも非現実とも区別の付かない世界で、現実なのか非現実なのかさえもわからない状況に置かれた今、理性を失いかねない窮地に追い込まれていたことは事実である。至福のひと時と、混乱する現状を打破する救世主の登場。二律背反する願いのジレンマに陥った僕は、とりあえず考えることを止めざるを得なかった。
指摘された通りに、僕はまず足を崩し、張っていた背をソファに預けた。
「随分と唸っていたようですが、大丈夫ですか?」
みゆの管楽器のような声音が、僕の耳から脳を軽やかに殴打するが、僕はなんとか体裁を取り繕って、「大丈夫大丈夫」と、みゆを制した。
……ここまで調子が狂うとは思っていなかった。新しい情報を詰め込みすぎて、脳がパンクしているのかもしれない。
とりあえずだ。現状……というよりかは、僕が置かれている世界を構成する要素間の繋がりを、正確に把握するところから始めた方が良さそうだ。
僕は、まず周囲を見渡す。落ち着いて観察してみれば、やはり目につく物の全てが新鮮味に溢れていた。前述の通り、多種多様なインテリアだけでも、僕の部屋に点々と転がるゴミほどもあるだろう。中でも目に付いたのは……。
「……オルゴール?」
「あ、それは……」
みゆは慌てふためきながら立ち上がり、僕が腰を起こすよりも早く、オルゴールを掴んでいた。大切そうに胸に抱え、且つ、焦りとも懇願ともつかない表情で僕を見据える。
……これは、触れてはいけない禁忌だったか。僕は、伸ばした手を恐る恐ると引っ込める。みゆも、すっかり忘れていた様子だった。焦りの滲む表情と、オルゴールを胸に抱いたまま、強張る身体。その全てに魅せられた僕は、何一つ言葉が浮かんで来なかった。
オルゴールに秘められた少女の秘密が知りたくないわけではない。しかし、みゆと不仲になることだけは避けなければならなかった。
「ああ、その隣。その隣の時計だよ。オルゴールみたいな形をしているから……」
「いえ」
兎角、オルゴールから話題をそらそうと、僕は声を張るしかし、みゆは遮った。そして、困ったような、諦めたような微笑みを浮かべながら、僕が最初に指し示した方のオルゴールを、僕の眼前のテーブルに置いた。
「こちら、ですよね?」
そう呟くみゆの瞳は、真っ直ぐに僕の方へと向けられていた。
「……いいの?」
「ええ。そんな、秘密にするようなことではないかな……って」
みゆの中に、確かな逡巡の影が見え隠れしていた。しかし、オルゴールの音色と、その中身が気になることは事実。僕は、これ以上の遠慮はせず、テーブルの上に置かれたオルゴールの蓋を開いた。
あの時、オルゴールが目についた理由は、透明感に溢れた部屋に反し、妙な存在感を醸す、木目調の造りだったことが一つ。そして、上蓋。何となく、わざわざ中が見えないような入れ物を選んだ……と、思わせる雰囲気を醸していたからだった。
「失礼……」
上蓋を、そっとオルゴールの脇に置く。しかし、座ったままでは中を見ることはできなかった。僕は身を乗り出して、オルゴールの中を覗き見ると、そこに現れたのは、僕がよく知る、頼れる相棒の姿だった。
「煙草……の吸い殻?」
「はい」
みゆは伏し目がちに言葉を紡いだ。
それは、どこからどう見ても煙草の吸殻にしか見えなかった。見間違えようもない、僕と同じ銘柄の煙草。確か、みゆの父が吸っている銘柄だとも言っていたが……。
「これは……君が?」
「ご想像に、お任せします」
少女の表情、言動、挙動から、過去に在った事実を察することは容易だった。僕はもう一度、オルゴールの中に綺麗にしまわれた、よく見慣れたものを一瞥する。何度見返しても、部屋の雰囲気と相反する一品に、妙な邪推が頭を過ぎってしまう。今でも、嗜んでいるのか……と。
「これは……記念なんです」
「記念?」
僕の邪推を機敏に察知したかのように、みゆは消え入りそうな声で、言葉を付け加えた。
煙草の吸殻に記念とは、またどういう理由だろうか。僕は、オルゴールの蓋を閉じて、みゆの方へと向き直る。
「私の……最初で最後の一本です」
最初で最後の一本……。その言葉は、僕の邪推を、一言のもとに否定するだけの力があった。
だから、僕は問う。
「……美味しくなかった?」
「正直、何故吸うのか……理解できませんでした」
少女は表情を曇らせ、自身のポケットから取り出した煙草を見据えていた。
理解できないのは、至極当然のことだろうと思う。中学生になって、煙草に魅力を見出す子はいるけれども、煙草の『美味しさ』を理解できる子が、果たしているのかどうか。ましてや、中学生の女の子に……。
「お父さんにも聞いてみたことはあるんです。ただ……」
「理解できなかった?」
「はい……」
みゆの父が発した言葉を、煙草を嗜む僕が想像することは、決して難しいことではなかった。きっと、みゆの父は、こう言ったのだろう。『嗜む人間だけが、美味しさを理解できるんだよ』と……。
僕だって、煙草の勧め方なんてわからないさ。気持ちよくなれる?叙情に浸れる?気分を紛らわせられる?麻薬の誘い方と同じだって話だ。
だけれども、それ以外の誘い方を、僕は知らないことも事実だった。一本吸っただけでは、わからない。二本吸っても、理解はできまい。理解できない間に、吸う本数が一本増えて、二本増えて……。その増えた先に理解できるのが、煙草の『美味しさ』だ。
だから、みゆが煙草の美味しさを理解できるはずもなければ、理解する必要もない。
僕は、無意識のうちに、みゆの頭に触れていた。
「あきら、さん?」
上目遣いで僕を見上げる少女の瞳に宿す、純真無垢な蒼穹の蒼。穢れに染まらず、穢れを否定せず、穢れを眼前に見据えても、その瞳の蒼は変わらぬ輝きを、僕の遥か先に宿す。海よりも深く、蒼穹よりも深く、深淵さえも霞む奈落の蒼に堕ちてしまいそうな……そんな、みゆの魅力的な瞳。意識さえも朦朧。心は純朴な蒼に惹かれ、憂いは奈落の果てに消え去った。
「みゆは……偉いな」
自分が何を口走ったのか。自分の意識はどこにあるのか。自分の意識は、ある種の想いに溶け込み、全ては眼前の少女を想う……心。
「……な」
咄嗟に、自分の手に触れる温もりと、靭やかで艶やかな繊維の感触が全神経を駆け巡り、脳細胞を全身全霊で覚醒させる。自我の回帰。自身の言動の全てを今、ようやく理解した。
「ッ……」
一目散に手を引っ込め、みゆと通い合わせていた視線を全力で逸らす。
「す、すまない。何故か、意識が朦朧として……」
「い、いえ……大丈夫です」
激しく脈打つ心臓の鼓動と連動し、心の警鐘が鳴り響く。呼吸は乱れ、冷や汗が滴り落ちた。みゆの乱れた吐息は、僕の呼吸のリズムとは異なり、僕の耳腔に反響する。みゆを一瞥すると、ただ顔を伏せながら、頬に朱を滲ませていた。
何故、僕は……。
理由がわからなかった。急に意識が乗っ取られたかのように、みゆだけが心を満たした。心も。脳も。身体も。全てが、みゆに染まった一瞬、僕は無意識のうちに、みゆに触れていた。そこに、僕の意思は介在しない。だが確実に、僕の方から……。
「ちょっとだけ、びっくりしました……」
みゆは、惚けた表情を浮かべながらも、僕から目線を逸らすようなことはなかった。それだけが、唯一の救いだった。
しかし、みゆが内心では、僕のことをどう思っているかはわからない。獣か、優しい人か。ただ、表情や言動だけで判断するならば、それほど僕に恐怖しているような様子は見受けられなかった。
「ごめんな……」
僕は、素直に謝った。
「いえ……むしろ、嬉しかったです」
「……嬉しかった?」
「はい。ちょっと、懐かしくて……」
みゆの微笑みからは、内心に孕んだ憂いが見て取れた。
そうか……みゆは、父親と僕の姿を重ねているのか。
そう考えれば、みゆが僕に対して拒絶の意を示さない理由が理解できた。
「父は仕事が優先だったので、あまり会う機会がなかったんです」
「お父さん、仕事が忙しかったんだ」
「はい……週に二日以上、家にいることの方が珍しかったです」
中学生と言えば、反抗期……というイメージがあるが、まだ甘えたがりな年頃なのかもしれない。
僕は、部屋のガラステーブルの上に置かれた写真立てを眺めた。仲睦まじげに並ぶ、みゆと父親らしき人物のツーショット写真。強面ながら、浮かべた笑顔からは隠しきれない優しさが滲み出ていた。
「だから……あまり意識しないでも大丈夫です」
満面の笑み。おそらく、純粋な笑みの裏に他意はない。気にするなというのならば、僕も気にしなくて良いのだろう。
そして僕は思った。いい子だな……と。そして、可愛いな……とも思った。
……
あれからしばらくの間、僕たちは互いの時間を過ごした。
僕は、これからどうすべきか思索を巡らせ、みゆは僕の隣に座ったまま、本棚から持ってきた漫画を読んでいた。
「……」
深閑とした間。お互いの間に会話はなかったが、不思議と居心地の悪さは感じなかった。不可思議な世界で出会った不思議な少女と一緒の部屋で過ごす。あまりにも非日常的な現状に、脳が混乱してしまったのかもしれない。
僕は、少女から借りたノートをガラステーブルの上に開き、黙々と思案の結果を書き出していた。
「ふぅ……」
キリがよく、適当な数の案を書き出したところで、ソファーに凭れ掛かる。少し身体を捻っただけで、身体中の関節と筋肉が揃いも揃って悲鳴を上げるところ見ると、やはり緊張はしているようだった。
当たり前の話だ。こんな状況で、緊張するなという方が難しい。
それから僕はしばらくの間、特に何も考えることもなく部屋の中を眺めていた。みゆが普段から使っているであろうベッドやガラステーブル、棚の上に陳列された、透明感が溢れる小物。どれを取っても、僕の部屋に置いてある物とは、種類も質も異なる、異界の代物のように思えた。
「……」
空白の時間。時計の分針が、無常な時の流れを数え、僕に知らせる。止まることのない無常な流れ。聞こえる規則的で無常な響きは無情。ふと、大きな欠伸が出て漏れた。
濃い一時だったからな。疲れも一入だ。
さて、みゆは何をしているだろうか。まだ、漫画を読んでいるのだろうか。
様子を伺おうかと、首を少しだけ横に動かした。
その時だった。
ふと、肩に軽い違和感を覚えた。何かが凭れ掛かってきたかのような感覚。軽い重量感。
まさかは思ったが、その違和感の正体は……。
「……みゆ?」
張り詰めた身体は動かさず、首だけを限界まで捻って見つけた違和感の正体は、僕の肩に凭れ掛かるみゆだった。
……眠っているのか?
残念ながら、ここから表情を覗き見ることはできなかったが、考えずともわかることだった。
やはり、さすがに疲れたのだろう。僕だってそうだ。
静かに寝息を立てるみゆは、肩を静かに上下させていた。
危機感のなさを危うむべきか、神に感謝すべきか。そんなもの、秤に掛けるまでもないよな。
まず僕は、神に感謝した。
少女の体温は僕よりも高く、肩から伝わる少女の温もりが、みゆの確かな存在を主張してくる。
人と目を合わせることが苦手な僕が、みゆを観察する機会なんてなかった。でも、今は違う。遠目ではわからないみゆが見せる『表情』を、今ならば理解できる。
流麗な白銀の長い髪から飛び出た枝毛。真横から近距離で眺めて初めてわかる、みゆの長い睫毛。薄桃色の綺麗な爪、人差し指。
力なく下げた僕の腕にかかる、靭やかに垂れた髪を、ほんの少しだけ、そっと持ち上げれば、僕の腕を羽根のようにするっと滑り落ちていく。
高まる鼓動、焦燥感は止められそうにもなかった。
夢でも見ているかのような気分だった。もしかすれば、これは僕の夢なのかもしれない。理想に取り憑かれた僕に、僕からのささやかなプレゼント。
みゆの端麗な寝顔に掛かる髪を、僕は人差し指で梳いた。流れるように、肩から腕へと掛かる髪を梳く。指にも絡まず、触れているかさえもわからないほどに艶やかで透き通るような髪質。現実に存在する少女とは思えなかった。
風邪を引いてしまわないか。疲れてしまわないか。思うことは幾らでもあった。早く、毛布の一つでも掛けてやるべきなのだろう。
でも今は、この至福に浸り、溺れていたかった。人並み以下の人生を歩んできた僕へ与えられた、滞在時間が限られた有限の楽園を、今は満喫していたかった。現実を忘れ、このまま夢の彼方へと消えてしまいたかった。
僕は、片手に携えたボールペンを床に放り出し、みゆを起こしてしまわないように、僕自身も深くソファーの背に凭れた。
あと、五分。幸福感と背徳感と焦り。時間に限りを定め、有限の幸福に酔いしれる。
これくらいなら、神様も赦してくれるさ。
そう自分に言い聞かせながら、原子一つさえ邪魔できない距離に眠る少女を眺め、束の間の夢を楽しんだ。
……
名残惜しくも夢から醒め、気持ちよさそうに眠る少女をソファーへと寝かせた僕は、みゆに掛けるものを探していた。ベッドにある毛布がベストなのだろう。だが、年頃の少女のベッドから勝手に毛布を引っ張り出しても良いのだろうかと、冷静になった今、思う。
今更と言われればそれまでだが、あれは故意ではない。事故だ。僕に責任があるかと問われれば、声を大にしてNOと叫ぼう。
とりあえず僕は、みゆの整えられたベッドへと移動し、掛け布団を捲る。途端に香る、みゆ自身から漂っていた香りと同じ、甘い香りが脳を殴打するが、さすがに多少の自制は効く。落ち着いて毛布だけを引っ張り出して、ベッドを後にした。腕に抱える毛布からも、表現し難い良い香りが漂い、脳に更なる猛攻を仕掛けてくるが、何とか思い留まった。
……ここはあれだな。地雷原だ。どこに地雷が仕掛けてあるがわからん。
ベッドといい、ソファー付近といい、向かう先々で強烈なダメージを受けている気分だ。
もちろん、ダメージとは言っても精神的なものだが、強烈な精神的ダメージほど厄介なものはなかろう。
僕は、未だ気持ちよさそうに寝息を立てるみゆの足元から肩を覆うように、静かに毛布を掛けた。みゆの髪が、僅かに生まれた風に揺れ、ソファーに放射線状に広がった。
それは、なんとも官能的な光景だった。
……いかんな。
ここへ来て、まだ半日ほどだろう。そうとは思えないほど、刺激的で濃い半日だったと思う。
そして、その短くも長い半日の間に……僕の心に巣食う純粋な面は、確実に大きくなった。まだ、人を想う純粋な心が、こんなにも残っていたことに、僕自身が驚きを隠せなかった。
想いとは、たった二文字の言葉だ。でも、その二文字が内含する意味の幅は、無限の広さを持つ。家族愛。友愛。心配。願い。どれも同じ想いだが、どれも違う想いだ。
そして僕自身、想っていた。想いを募らせていた。誰に対してか。何に対してか。
家族か。ペットか。隣に住む、何事に対しても人並み以上の能力を見せつけるクソ野郎に対してか。
いや、そのどれとも違う。
「……みゆ」
僕の眼前で、静かな夢を見ているであろう少女に対しての確かな恋情だった。
親の愛情でもなく、友情でもなく……これはきっと、異性としての恋情なのだろう。
たった半日、人生という長い旅路でたまたま出会い、たまたま同じ旅路を共にしただけの少女だが、これは紛れもない恋心なのだと、僕自身の心は肯定していた。
ちょろいもんだ。人生を悲観し、人生を捨て、人生に見切りを付けた僕に、たった半日連れ添ってくれただけで、心まで開いてしまうのだから……。
まだ確信が持てるわけじゃない。あくまでも半日の共進だ。勘違いの可能性がない理由はない。
だが、確かなプラスの感情を抱いていることは認めなければならなかった。
「はぁ……」
長い溜め息が漏れる。こんな感情に左右される人生が待っているだなんて、妄想の中だけの儚い夢だと思っていた。妄想だけの世界と、現実の体験とを比較して感じる憂いは、妄想の中だけでは知り得ないことだった。
僕は、みゆから少し離れた場所……正確には、ガラステーブルを挟んだ反対側のソファーに寝転んだ。微かな温もりと、みゆの存在を間近に感じながら、頭を深くソファーに埋める。
起きたら、とりあえず探索に出かけよう。色々と施策を巡らせはしたが、どうでもよくなってきてしまっていた。みゆと一緒に町を歩けるのならば、僕はそれでよかった。
心地よい睡魔が眠気を誘い、未来に想いを馳せる。このまま、この世界から抜け出せなくても、なんとかなるのではないか……。
その想いが、如何に危険な考えかは理解しているつもりだ。だが今は、みゆと一緒であること。それだけが、唯一の望みであり、未来に求める唯一の希望だった。
……
「起きてください!」
「へぁ!?」
突然の喧騒と意識の覚醒。視界が開けたと思った瞬間のこと。頭部に走る強烈な衝撃と痛みに、眼前が再び暗転する。
「だ、大丈夫ですか?」
強烈な刺激と打って変わって穏やかな囁き声が、痛みを緩和させた……ような気がする。
「あ……ああ。大丈夫」
僕は混乱する頭で、なんとか現状を把握しようと思い、目を開けた。一瞬、普段と一変した世界に混乱するが、なんてことはない。すぐに、状況を理解し、重たい身体を擡げた。
「よく眠っていましたね」
ソファーに腰を据えながら、「まぁね」と一言添える。強烈な刺激に、すっかり目が冴えてしまった。
「その机、意外と硬くて重いんですよ。私も昔、足の小指をぶつけたことがあって……」
みゆは、盆の上に並べられた食器類を丁寧にガラステーブルの上に並べながら笑った。
硬くて重い……まあ、そうだろうな。身を以て理解したよ。
眼前の光景を、冴えてしまった目で見据え、相も変わらずに冴えない凡悩で考える。テーブルの上に並べられていく食器。
これは……朝食だろうか。もしかして、僕のも?
「ごめん、手伝うよ」
「ありがとうございます」
僕は急いで腰を上げ、テーブルを挟んで反対側に腰を据えた。だが、テーブルの上には既に色とりどりの食事が並んでおり、僕が手伝うようなことはなさそうだった。
「あー、片付けは僕がやるから……」
「いえいえ、お気になさらず」
慣れた動きで、食器を並べ終えるみゆ。普段から、家事を熟す機会が多いのかもしれない。
僕は仕方がなく、背後のローソファーへと腰掛けた。みゆも、テーブルに置かれた盆を床へと置くと、僕と同じようにソファーへと腰掛けた。
「あまり、料理は得意ではないので……」
照れくさそうに微笑むみゆ。だが、テーブルの上に並ぶ料理の数々は、僕が作る手料理の何倍も美味しそうに見えた。
「いや、十分すぎるよ」
味はまだわからないが、この見た目だ。味も十二分に美味しかろう。
僕は、色とりどりの料理を眼前に、空腹を覚えた。
「ありがとうございます。では、いただきましょうか」
みゆは、自分の手前で軽く手を合わせた。
「じゃあ……いただきます」
僕も、みゆと同じように手を合わせ、軽くお辞儀をして、丁寧に箸置きに備えられた箸に手を伸ばした。まずは、味噌汁が入ったお椀を手に取り、頂く。程よい温かさが喉を通り、身体の中から温まっていく感覚が懐かしかった。
「あ、美味しい」
「ほんとですか?よかった……」
みゆは安堵した表情を浮かべながら、箸を手に取り、味噌汁に手を伸ばした。味も、世辞を抜きにして美味しかった。味噌汁に味の差が出るとは思っていなかったが、自分が作ったものよりも美味しかったように思う。そして、手に取る料理の数々は、どれも家庭の味が感じられて、次々と箸が伸びてしまった。
「あきらさん、食べるの早いんですね」
「いや、美味しくってさ」
僕は、行儀悪いとは思いつつも、食べる手は止まらない。
「今日は、ちょっと上手にできたみたいです」
みゆは、嬉しそうに呟いた。
「私、分量の調整が苦手なんです」
「分量の調整?」
「はい」
みゆは、箸を箸置きに置く。僕は、相も変わらずに食べる手が休まりそうにもない。
「料理本を読んでると、量の指示で『少々』って表記されてることってあるんですよ」
ああ……。僕も、以前にクッキーを作ろうと思った時に見たことがある。
「あるね」
「『少々』って、どれくらいなのかなって……」
確かに、それはわかる。少々って、明確な分量を示しているわけじゃない。主観的で個人的な感覚で判断しなければいけない。
「僕も、昔にクッキー作った時があってさ。その時に、そう思ったことがあるよ」
「やっぱり、あきらさんもですか」
あまり思い出したくない、苦い記憶だけどな。
僕は、早々に食事を平らげて、箸置きに箸を戻す。
「一応、クッキーはできたんだけどさ。サクサクしないクッキーができちゃって……」
「サクサクしないクッキー、ですか?しっとり系クッキー?」
「いや。もっと、こう……食べ物として認定できる資質に欠けたクッキー」
あの表現できない味を表現するために、僕は身振り手振りを加えながら、言葉を紡ぐ。
「なんですかそれ」
みゆは、口元を抑えながら大きく笑った。
いや、本当にどう表現すればいいんだろう。
「なんというか……まず噛む時に弾力があって、咀嚼すると染み出してくるゴム感?」
みゆは、またケラケラと笑った。
「なんでしょう。むしろ、食べてみたくなりました」
「いやぁ、あれは失敗作だから……」
さすがに今度は失敗したくはないけれども、失敗しない可能性は20%もあるだろうか。
僕は、みゆが注いでくれた牛乳で口を潤した。
「今度、作って下さいよ」
「こ、今度?」
「ええ。台所は使っていただいてかまいませんから」
僕は、牛乳の入ったコップをテーブルに置いて、みゆと二人で台所に並ぶ未来を思い浮かべる。手際の悪い僕の傍らに立ち、要領よく指示をくれるみゆの姿。それは、ひどく素敵なことのように思えた。
「まぁ、みゆが手伝ってくれるなら……」
僕は、照れくさい気持ちに押し潰されそうになりながらも、条件を加えつつ承諾する。
「はい。わたしでよろしければ、お手伝いします」
そして、みゆも快く快諾してくれたのだった。
しかし僕は、未来への明るい兆しに、一抹の影を見た。それは、輪郭さえも曖昧な、ぼんやりとした靄のような影だったが、しかし確実にそこに在った。果たして、この影の正体は何か……。
おそらく、みゆの言動に起因する違和感なのだろうと思う。料理の話に然り、みゆの言動の一つ一つを見ていると、どうもみゆは、現実への執着が薄いのではないかと……。
理由はわからない。ただ、元いた世界に帰りたいという気持ちが、みゆからは感じられなかったんだ。今も、そう。
いそいそと、嬉しそうに食器を片付けるみゆ。その笑顔の裏に、みゆは何を隠しているのか。それとも、楽観主義者なのか。なるようになるとでも思っているのだろうか。
「そうだ、あきらさん」
「ん?」
みゆの声が思考を遮り、僕は咄嗟に我に返る。その時、ふと気がついた。
「あれ。みゆ、着替えてたんだ」
「え?ああ、はい。一日、お風呂にも入っていなかったので……」
お風呂……そう言えばそうだったな。日頃から風呂に入る習慣が欠けていたせいか、すっかり意識の外だった。
みゆは、前日まで着ていた純白のワンピースとは違い、白とパステルピンクの縞模様が可愛らしい、上下セットのルームウェアを着ていた。冬らしい、もこもことした暖かそうな部屋着だった。
「あきらさんも、お風呂沸いてるのでどうぞ」
「え、お風呂?」
「はい。私、先に入っちゃいましたけど……」
この少女は、僕にお風呂まで入れと?
確かにここ数日、まともに風呂に浸かった覚えがないから、有難い申し出ではあるけれども……。
「でも、ほんとにいいの?」
「大丈夫ですよ。私たち以外、誰もいませんから」
まぁ、確かにそうだなんだけどさ。
「なら……お言葉に甘えようかな」
こんな世界で、誰に遠慮することもないだろう。それに、素直に風呂に入りたいという気持ちは大きかった。
「今、入りますか?」
「みゆがいいなら、借りようかな」
「はい。了解です」
みゆは頷いた。僕は、みゆに案内されるがまま、みゆの後ろに付き従った。
……
みゆに案内された風呂場は、家屋一階の隅にあった。広さは、僕の自宅の風呂場と、さほど変わらないが、人様のプライベートスペースだからだろうか。どちらも同じ風呂場に変わりはないのだが、どことなく新鮮さに満ち溢れていた。
「じゃあ、お洋服はこっちのカゴにお願いします」
「了解」
僕は、後ろの扉から顔を覗かせるみゆを一瞥した後、背後の扉が閉まる音を聞いた。
……ううむ。こういう状況に出会った試しがないから、どうにも落ち着かない。人生の落伍者が、出会って一日しか経っていない少女の自宅の風呂に通された気分は、なんとも表現し難いものがある。かと言って、このままボーッとしているわけにもいくまい。
僕は意を決して、上に羽織った上着に手をかけた。
さて……服はカゴに入れろと言っていたが、カゴとはどれのことだろう。見渡す視界に入るカゴと言えば、みゆが先日着ていた服が入ったものしか見当たらないのだが……。
まさか、これか?
僕は、みゆの着ていたワンピースが入ったカゴを見据えた。そこから漂う、高貴なるオーラは、他者を寄せ付けない異様な存在感を醸し出していた。若干、ワンピースとカゴの間から、みゆの下着がこんにちはと、元気に挨拶しているような気もするが、僕の見間違いだ。そんなものをまじまじと眺めていたら、圧倒的な力に僕自身が吹き飛ばされてしまう。
「……」
とは言え、溢れ出す下心は隠せない。理性に背いて迸るパトスは、僕の心にしがみ付く理性を排斥せんと喚き叫ぶ。好意を寄せる少女の下着を漁りたいと思う心理は真なり。
だが、そこで折れては、僕の名に恥じる愚行だ。僕は、苦渋の思いで服を脱ぎ、みゆの服が入った洗濯カゴへと放り込んだ。
みゆがここに入れろというのならば、それに背いてまで別の場所に脱ぎ捨てることもないさ。それに、いつまでもここにいては、妙な気を起こさないとも限らない。十分もここにいれば、まず間違いなく、僕の理性は欲望に押し潰されてしまうだろう。
僕は、後ろ髪を引かれる思いを断ち切るつもりで、浴室の扉を大きく開け放った。
「おっと……」
途端に頬を撫でる、浴室に満ちた湿気。無意識に『勿体無い』と感じた心が、身体を反射的に風呂場へと誘った。後ろ手に扉を閉め、浴室に漂う湯気に、風呂の心地よさを思い出す。
そういや、湯を張った風呂って久しぶりだな……と、久しぶりに見た湯舟本来の姿に、日頃からシャワーばかりで済ませてきた僕の気持ちは、いつの間にか高まっていた。
椅子に座り、白熱灯の淡い灯火が照らす風呂場を、眺めるように見渡す。実家とはまた違う環境の風呂は、先程と変わらず、何となくワクワクとした気持ちを想起させた。
水滴の滴るシャワー。水気が煌めく、タイル張りの床。そして、未だに濡れたままの椅子。
さっきまで、みゆが入っていたんだな。自分の座っている椅子も、さっきまではみゆが……。
「……」
ふと、自分の思考回路がみゆに直結してしまっていることを自覚した。
行く先々でエンカウントする、ハニートラップとでも言うべきか。玄関先然り、みゆの部屋も然り。この家には、みゆを意識せざるを得ないトラップ要素が、数え切れないほど仕掛けられているように感じた。
みゆに、その自覚はないのだろう。だが、その無意識が成せる誘惑というものに、どれほどの魅惑的な力が内含されていることか。
いかんぞと、僕はシャワーのノブを捻り、頭から若干冷えた湯水を被る。早々に頭、身体と洗い終え、勢いのままに湯舟に浸かった。
「嗚呼……」
みゆが追い焚きしておいてくれたのだろうか。沸かしてからしばらく経った後のぬるま湯というわけではなく、今しがたに沸かしたばかりとさえ感じるほど、心地のよい湯温で、思わず声が漏れてしまった。
湯……か。水面に浮かぶ自分の顔。しかし、僕が見ているものは、その遥か先にあった。
どこもかしこも、ふと瞑想に耽る暇さえあれば、脳裏に浮かぶ姿は変わらない。この湯船に張られた湯にしてもそうだ。今、僕が浸かる湯は、みゆの浸かっていた湯と同じなんだよな、と。
事あるごとに、女慣れしていない僕の純粋な心が顔を覗かせてばかりだった。ほんの些細な出来事の全てが、みゆに繋がってしまう。
いかんいかんと、僅か一日で幾度となく心に言い聞かせてきたが、その回数さえも忘れてしまった。
現状を危惧し、憂いさえも感じるけれども、初めて与えられた甘い汁の味を知ってしまった今、現状を変えようと思う心と、現状に満足する心を天秤にかけた結果、見える答えは火を見るよりも明らかだった。
秤は嘘をつかない。比較する対象のみを与え、得られた結果だけを踏まえれば、これからどうすべきか。それは、考えるまでもなかろう。
「はぁ……」
望まずに、定められた運命に従った結果として現状はある。だが、望まぬ未来を重ねてきた今、眼前に控える未来は、いつかの日に望んだ未来であることに気付かされた。
このままでも、いいかな……と。
敢えて、踠き足掻いてまで掴み取りたいと願っていた現実への切符なんて、今の僕にとっては価値のないものなのかもしれない。冷静になってみれば、現実に戻れなかったとしても、僕が失うものなんて何もなかったから。
湯に浸かる身体から染み出してしまいそうな憂い。このまま、身体の隅々から流れ出てしまえば、きっと楽になれるのだろうと、微かに波打つ湯に揺らめく淡い白熱灯の明かりを眺めながら、僕は思った。
「……」
白熱灯?
揺らめく白熱灯の灯火を見据えた、その一弾指。身体と心に衝撃が走る感覚を、僕は意識的に感じた。今になって、ようやく気がついた。気がついてしまった。
何故、白熱灯が明るく灯っているのか。
何故、湯が温かいのか。
何故、みゆは温かい食事を作れたのか。
突然訪れた、違和感の正体の判明。僕は天井付近の壁に取り付けられた白熱灯を見据える。僕の見間違いでもなく、揺るぎない事実として、それは煌々と灯っていた。
しかし……と、僕は再び考える。
よくも考えてみろ。この世界には電気が存在しないと、何故言い切れるのか。それは、僕が勝手に決めつけていたことだ。ここが、僕の元々いた世界を綺麗に切り取って構築された世界ならば、電気を生み出すための人的資源は存在せずとも、それ以外の概念、設備等は存在する。
そもそもが穴だらけの推論だ。何が正解で、何が間違いか。わからないことばかりだが、反して可能性の幅は広がることに間違いはなかった。
しかし、肝心の電気を生み出すための設備を稼働させる人員がいない世界に存在するみゆの家に、何故電気が通っているのか。
「……」
何か、常識では通用しない力が働いているのかもしれないと思ってしまうのは当然の話である。常識外の現象が発生している世界自体が、常識では通用しないのだから。
確実に存在する事実以外は、何も信じることはできず、事実から可能性を導き出しても、可能性の幅を超えて、唐突に事実は突きつけられる。常識、科学さえも通用しない世界で、事実以外に焦点を当てても無駄なのだろう。
この世界に、電灯が灯らなければいけない理由はあれど、電灯が灯るための過程は必要ないのかもしれないと、僕は、仄かに灯る白熱灯を眺めながら、考えを改めた。
では、電灯が灯らなければならない理由とは何か。それも、僕の知る限りでは、みゆの家だけに電灯が灯らなければいけない理由とは……。
「……」
僕の中で、一縷の可能性が導き出される、その間際のことだった。
「……ん?」
脱衣所の方から、扉が開く音が風呂場に響き渡った。
「あきらさん。湯加減はどうですか?」
「あ、ああ。丁度いい感じ」
どうやら、みゆが来ているらしい。脱衣所から、衣服の衣擦れの音が聞こえてきた。
「み、みゆ?」
辿り着いた一つの可能性に、僕は挙動不審になりながらも、みゆに何事かと問いかける。
「あ、ごめんなさい。服を洗濯しようと思って……」
ああ……なるほどな。そっちの衣擦れの音か。
びっくりするじゃないか……。
僕は、安堵と残念さのどちらにも属する溜息が漏れた。
「てっきり、みゆが風呂場に入ってくるのかと思った」
思ったことを素直に、僕は冗談交じりに笑い飛ばした。僕としては、僕自身への嘲笑の意を含めて笑い飛ばしたつもりだった。
だが……。
「……」
「みゆ?」
僕の言葉に対し、みゆは口を紡いだ。しばらく言葉を発さず、衣擦れの音も、洗濯機を操作する音も止んだ。
あれ。気分を害したのだろうか。
僕は、慌てて何事か弁解の言葉を掛けようと、頭をフル回転させる。
しかし……。
「私と……一緒に入りたいんですか?」
「え?」
あらゆる垣根を乗り越え、実態を持つ、持たない限らず、あらゆるものを含めた僕の全てにクリティカルヒットしたその言葉は、占有していた僕の思考を展開させるメモリの全てを解放した。
「い、いやいやいや、冗談!冗談だから!」
リソースを再準備する前に、無意識が生み出した言葉が、無意識に口から飛び出していく。
な、何を言い出すのか。
波打つ湯に反し、僕とみゆを取り巻く環境は圧倒的な静寂。時おり、波打つ湯が湯船を叩く音だけが風呂場に木霊する。
そのまま数秒。永遠の時間を過ごしているかのような錯覚を覚えた時、その永遠に有限をもたらしたのは、一枚の壁を挟んで隣合わせの少女だった。
衣擦れの音。合わせて零れる、みゆの吐息。僕の心臓は飛び跳ねた。
「み、みゆ!?」
「少しだけ……待っていてください」
みゆの繊細な響きを持つ声と、衣擦れの音だけが僕の脳を揺さぶる。ちょっと待ってくれと、声に出したつもりの言葉は喉元で止まり、そこから先へと出てくることはなかった。
まさか……本当に。
欲望と理性の狭間で揺れ動く心に足はなく、葛藤から逃げ惑う術はない。
視線は、風呂場と脱衣所を仕切る半透明の扉から逸らすことはできず、早くなる鼓動を鎮める方法など知らない僕は、半透明の扉の先で揺れ動く、小さな影を追うことしかできなかった。
「あきらさん……」
「は、はい」
綺麗な声。幼い響き。艶やかな声。次の一瞬に焦がれながら、僕は上擦った声で、みゆの問いかけに答えた。
「冗談です」
「……」
それは、可愛らしい声だった。艶やかさの失われた、とてもとても可愛らしい声。
「……みゆさん」
「びっくりしました?」
楽しそうな口調で喋るみゆ。きっと、この扉の奥で悪戯な笑みを浮かべていることだろう。僕の歩んできた人生の半分ほどの距離しか進んでいない少女の悪戯を真に受けてしまった自分に、理性の楔を打ち込んでやりたい。
「人生で一番驚いたかもしれない……」
嘘偽りなく、人生で最も驚いた出来事ランキングのトップを飾る悪戯だったと思う。
僕は、湯に口元が浸かるほど、身体を沈めた。
「ちょっと、驚かせすぎちゃったみたいですね」
みゆは「ごめんなさい」と付け加えた。
「じゃあ、私は部屋に戻っています」
「あ、うん」
「お洋服とバスタオルは、洗濯機の上に置いておきますね」
そう言えばと、僕は我に返る。着替えのことをすっかり忘れていた。外に出て着替えもなく、バスタオルが置かれている場所もわからないまま、みゆの部屋まで素っ裸で移動しなければ未来があったと、僕は戦慄した。脱衣所で、延々と孤独に過ごす手もあったが、どちらにせよ遠慮したい話だ。
「ありがとう」
みゆは、「はい」と気分上々な様子で、脱衣所から去っていった。
「ふぅ……」
僕は今一度、肩までしっかりと湯に浸かった。
全く……困った話だよ。
僕は、湯船から勢いよく立ち上がり、軽く跳ねながら、身体から滴る水滴を落とすと、風呂場の扉へと手を掛けた。
「さむ……」
毎度の如く忘れてばかりだが、今宵の季節は冬だということを再認識する。今が宵かも明け方かもわからんが、脱衣所と風呂場の温度差が、僕の身体を強ばらせた。身体に残る水滴が一層、僕の身体を冷やす。
春にならんかなぁ……。
この世界に季節の概念が存在するのか、甚だ疑問ではあるが、そう思わずにはいられない。寒さとは、そういうものだ。
僕は、洗濯機の上に置かれたバスタオルを手に取り、早々に身体を拭いた。
この洋服は……みゆの父親のものだろうか。皺もなく、まるで新品のように丁寧に畳まれた洋服に袖を通すと、ようやく冷えも和らいだ。
サイズもぴったりだ。みゆの父親も、背は高くない方なのだろう。写真で見た限りでは、もっとガッシリとした体格だったような気もするが、あくまでも写真で見ただけの話だ。特段の疑問を持つようなことでもなかった。
ズボンと上着の間に挟まれていた下着は、包装はされていないものの、どうやら新品らしい。サイズが表記されたシールが貼られており、どこに捨てようかと迷っているうちに、ゴミ箱を見つけ、指先から弾くように放り込んだ。
悪いな。買い置きしてあったものを、わざわざ持ってきてくれたのだろう。しかし、折角の好意を無駄にするわけにもいくまい。
僕は、有難くパンツの裾に足を通した。
……
着替え終わり、みゆの部屋に戻る道中、引き戸の空いた部屋があった。別段、覗くつもりもなかったのだが、強力な好奇心と非力な理性の葛藤の末、勝利の女神に愛されたのは、好奇心の方だった。
「失礼します……」
廊下の奥から覗くだけとは言え、人様のプライベートな空間だ。挨拶の心は忘れるべからず。
覗く廊下の灯りに照らされた室内は、間取りとインテリアが把握できる程度の明るさはあった。10帖ほどの和室に置かれたこたつ、テレビ、ストーブ。こたつの上には、読まれた形跡の残る新聞が置かれていた。テレビは、懐かしさの残るブラウン管テレビ。その中でも一際、僕の目を引いたのは……。
「仏壇……」
僕の家にもある。現世と永久の別れを告げ、行くべきところへと逝った者を弔う、神聖な空間。信仰の象徴。
誰か、亡くなったのだろうか。
見た限りでは、誰が亡くなったのか。ここには、把握できるものが見当たらなかった。
遺影も、位牌もない。そこにあるのは、線香立てと線香置き、溶けたロウが底に溜まった蝋燭、マッチ、果物くらいのものだった。
「……」
何故。遺影も位牌も存在しない仏壇に、長く使われたであろう蝋燭が存在するのか。線香置きには、少ない本数の線香しか残っていないのか。
何か、重要なことを見落としているような気がした。この世界と現実を結ぶ、とてつもなく重要な要素が……。
「あきらさーん」
その時、夢想に堕ちた僕を現実へと引き戻したのは、みゆの声だった。二階の、みゆの部屋からだろう。
「すぐ行くよ」
何事かと問い返す前に、僕は呼応した。襖に手を掛け、元から開いていたと思い直し、襖は閉めずに、その場を後にする。気になる点は幾つもあったが、まだ時間はあるさと、日頃から口癖のようになってしまった言葉を合図に思考を止め、僕は、みゆの待つ部屋へと向かった。
そうだ、時間はあるさ……。
……
あの日から、今日まで。あっという間だったように思う。元の世界へ帰るという名目で、世界の手掛かりを探す日々は続き、確かに様々な発見はあった。あらゆる場所にも訪れてみた。限りない可能性を追い求め、事実を探り、その兆しを見たこともあった。
だが、その全ては、みゆと一緒にいるための名目上の理由。口実に過ぎない。限りのある、限りない時間の中で芽生えた恋情に絆され、見える世界はみゆに染まり、僕の心はみゆに溶け、僕の身体は偽りの世界を愛した。
誰も触れられない、二人だけの世界だ。僕たち以外に、誰もいない。聖書に準えるのならば、差詰め僕らはアダムとイブ。
現実に戻りたいという意識は消え、みゆと一緒に過ごす日々の刺激を得るためだけに、僕は現実への切符を探し求めていた。
いや、正確には探し求めているわけではなく、ただ冗長な探検ごっこを楽しんでいたのかもしれないと……今になってみれば笑い話だ。
「あきらさん。何か、考え事ですか?」
「ああ、いや。ちょっとね……」
隣に寄り添うは、みゆ。粒子一つの隔たりなく、僕らを祝福する世界だけがある。
「少し、疲れましたね」
「あれだけ走ったもんな」
今日の僕らの『遊び』は、駆けっこだった。みゆの家から、近くの神社までの競走。さすがに体格差には勝てなかったのか、数十メートルの差を付けて、僕の圧勝に終わった。
「あきらさん、引きこもりのくせに早いです」
「さすがに、みゆに負けるわけにはいかないな」
みゆの小さな頭が、僕の肩をコツンと啄く。その頭に触れ、僅かに乱れた髪を綺麗に梳いた。どんなに手慣れていない僕でも、みゆの髪はしなやかに流れる。それほどに、美しい髪だった。
「ちょっと、眠くなっちゃいました……」
その言葉を合図に、僕は少しだけ仰け反る。そのままみゆは、肩から胸元、膝へと撓垂れ掛かるように倒れ込んだ。
「大丈夫?」
「はい。今日も、少しだけ……」
神社の縁側に靴を脱ぎ捨て、僕の膝上に仰向けに寝転がるみゆ。無意識に触れた少女の髪は、しっとりと湿気を含んでいた。
そりゃ、汗もかくさ。僕だって、先ほどの全力疾走のせいだろう。未だ、ひっきりなしに汗が額を伝っては、滴り落ちそうになる。あまり、みゆには近寄って欲しくはないのだが……。
「やっぱり、しばらくこのままがいいです……」
汗臭さを気にする素振りも見せず、可愛らしい寝顔を覗かせる少女の姿を見ていると、下手なことで悩んでいる自分が馬鹿らしくなった。何も考える必要はないと、みゆの表情が物語っているんだ。
「僕たちには、限りない時間が残されてるんだ。いくらでも、ゆっくりできるよ」
もう、現実世界への帰属意識など無に等しく、今の僕にとっての現実は、この世界に在る。
「あきらさん」
「ん?」
みゆが僕の名を呼ぶ、その言外の意を察した。僕はみゆの目を見据え、みゆもまた僕の目を凝視したまま……。
「この世界で、永遠に……」
満面の笑みを浮かべるみゆが漏らした、その言葉に宿る未来に、僕は筆舌に尽くし難い気持ちの昂ぶりを感じながら、一寸の迷いもなく頷いた。
その瞬間だった。
「それは、俺が許さないぞ。あきら」
空気が張り詰めたと、肌が敏感に感じ取った。同時に響く、どこかで聞き馴染んだ声。みゆが勢い良く起き上がり、僕もまた勢い良く顔を上げた。その先に見えた影の正体は、僕がよく知っているはずの人物のそれだった。
「……あずみ」
桐生安曇。僕の……『元隣人』が、靄に霞むその身を、薄暗い世界に吹く夜風に晒していた。
「あきらさんの知り合い、ですか?」
「ああ……随分と懐かしい顔だよ」
僕は、神社の縁側に腰掛けたまま、彼の姿を見据えた。
「どうして、ここに?」
「分かりきった質問をするなよ」
あずみは、強張った表情を崩すことはなく、僕を睨みつける。
「お前を、連れ戻しに来たんだ」
毅然とした態度で、姿勢崩さず、表情も変わらず、しかし決意は頑なに、僕へと手を差し伸べた。
「帰るぞ、あきら」
差し伸べられた手を眺め、僕の方へと真っ直ぐに歩み寄る姿と交互に見比べる。その手を掴めば、いつかの日に僕が望んだ世界への切符に手が届くのかもしれない。
だがそれは、あくまでも『いつかの日』に僕が望んだ世界への切符だった。今の僕にとって、その切符には何の価値もない。戻った世界には、何が待っている?未来への希望か?知己に富んだ友たちの出迎えか?それとも、栄光か?いや……そのどれもが、僕など待っていない。せいぜい、君だけなのだろう。君だけが、僕の帰還を望んでくれている、ただ一人の人間なのだろう。
でも……僕の答えが覆ることはなかった。例え、君が僕の帰りを待っていてくれているのだとしても、圧倒的な壁が僕たちの間には聳えている。僕らの力では、どうにもできないであろう、どこまでも高く、どこまでも分厚い壁だよ。あずみ……。
瞬間、迸る閃光に目が眩み、異質な破砕音が空間を切り裂いた。
「それ以上、あきらさんに近づかないで下さい」
一瞬の空間の乱れに馴染む、みゆの声。僕とあずみの間に立ち塞がる少女は、空間に迸る閃光を、その身に纏っていた。
「君が……全ての元凶か」
明らかな敵意から生じた波動に吹き飛ばされたあずみが、地に手を付いて立ち上がる。
「貴方……どうやって、ここへ辿り着いたのですか?」
「どうやって?冗談に付き合っている暇などないぞ、小娘」
互いに敵意を突き出す二人の間に存在する、確かな意思と正義。磁石のように弾き合う二人は、磁石のように引き寄せ合う二極性も持っているかのように見えた。狩る者と、退ける者の様相を醸す二人は、さながら勇者と魔王のようで……。
「冗談を交わし合い、一時の逢瀬を楽しむ暇を、貴方如きと共有したくはありません」
「なるほど。では、どうする?小娘」
彼の拳に宿る朱の焰は、虚実か幻か。そのどちらでもないとすれば、それは問答無用の敵意だった。
「この世界で、私に楯突くつもりですか」
対して、蒼の閃光が一層激しさを増す少女の敵意が、彼への返答。為す術もない僕の眼前で、目にも留まらぬ応酬の始まりを、僕は予感した。
突如として弾ける閃光と、重苦しくも軽々と響き渡る衝撃。破砕音。想いの衝突が生み出す、世界の綻び。あずみの拳と、みゆのオーラが互い牽制し合う光景に見たものは、人外同士の正義のぶつかり合いだった。
「貴様は……あきらをどうするつもりだ!」
あずみの頬を掠る蒼の一閃を躱し、みゆの淡い瑠璃のオーラに拳を突き立てる。人智を超えた一撃を軽く遇うように、みゆはあずみの拳を、動き一つなく受けた。
「あきらさんは、私のものです。貴方が、私たちの間に介在する余地はありません」
強烈な蒼の光が弾け、反発し合うようにあずみを退けるが、刹那の揺らぎに扮したあずみの拳が、瞬時にみゆを襲う。
「貴様が惑わせたんだ!偽りの世界で!偽りの化け物にッ!」
あずみの拳から溢れ出る焔と、みゆから溢れる蒼の精神波が衝突し合う中、みゆが左手を翳した。その先には、あずみが居た。
「偽りの世界とは……失礼な方ですね」
無風から一転、僕の前方から、強烈な烈風が巻き起こった。嵐のような風圧に押し退く僕の身体と、目も眩む閃耀の彼方に吹き飛ぶ、あずみ。地を削り、身体さえも傷つき、地を転がるように、彼は倒れ伏す。それは、圧倒的な力量の差。傍目から見た限りでも、それは一目瞭然だった。
何故……そこまで。
思うことは、幾らでもあった。胸中に蟠る『何故』は尽きない。でも、やはり何故かはわからないが、彼に対する労りの情も、想いの一片さえも浮かんでは来なかったんだ。
「くそっ……」
みゆが、必死に起き上がろうと踏ん張るあずみの眼前に立った。冷徹極まる、みゆの表情。ここから見えるわけではない。見たことがあるわけでもない。
だが、きっと……そんな表情を向けているのだろう。
みゆは更に一歩、あずみとの距離を詰めた。
「貴方の行為の名を、人は何と呼ぶと思いますか?」
「俺の……行為?」
「ええ、そうです」
あずみの表情が乱れた。みゆは僕を一瞥し、再度あずみを見下ろし、見下げた。
「それを……正義の押し売りと、人は呼びます」
身体が萎縮してしまうほどの冷たい声と口調。みゆの心は、幾層もの重厚な扉に隔たれ、彼の来訪を拒んだ。あずみは、苦虫を噛み潰すような表情で、みゆを睨み付けるが、みゆは堪えなかった。
「あきらさんを連れ戻すこと。あなたにとっては、正義なのでしょう」
「……何が言いたい」
「言葉のままですよ」
みゆは両手を広げ、楽しそうに、その場でくるりと廻った。絹織物のように長く、純白に輝く髪が、透き通る蒼に染まり、放射状に宙を舞う。
「あきらさんは、この世界で、私と一緒に生きたいと願いました。あなたが、あなたの掲げる『正義』のためにやってきた、その直後のことです」
あずみの眼前に立っていたみゆが、僕の元へと走り寄り、僕の肩に凭れ掛かった。頬にすり寄り、肩に手を添えるみゆ。
「忘れたとは、言わせませんよ」
「……あきらは、貴様に騙されているだけだと言ったはずだ」
あずみは、重たい身体を起こすかのような挙動で、ゆっくりと立ち上がり、拳を握り直した。
「騙したつもりはありません。私は、あきらさんが大好きです。あきらさんは、その気持ちに応えてくれた……」
流れるような動きで、膝上に寝転がる少女。その頭に、僕は手を添えた。
「たった、それだけのことです」
みゆは起き上がり、あずみと僕の間に、再び立った。
「もう一つ。貴方は、この世界が偽りの世界だと仰りましたね?」
「……」
あずみは、遂に何も答えない。彼の心中を察することは、今の僕にも、過去の僕にもできないことだが、自分の『正義』を否定された彼の心中は穏やかではないのだろう。
僕は、みゆの背後に立ち、みゆの影に隠れるようにあずみを見据える。その目は、激しい動揺に揺れ動き、あの頃の彼とは似ても似つかぬ、異質な様相を醸していた。
「あなたが居た世界が『現実の世界』と断定できる理由はあるのですか?」
一陣の風に、枯葉が舞った。僕とあずみ、二人の遠い距離を切り裂く、一閃の刃のように……。
「貴方が仰る現実が、神の創造物ならば。創造主である私が創造した世界もまた、私たちにとっての『現実世界』です」
みゆは、僕を見て、幼少な笑みを浮かべた。
「二人だけのために創った、私とあきらさんだけの……」
みゆは、後ろ手に僕を神社の縁側まで導いた。みゆのオーラに包まれ、何人たりとも寄せ付けぬ輝きを放つ守護神のように、僕だけを囲う。
刹那。みゆの両腕が空を裂き、可憐な容姿に乱れ舞う蒼の粒子の奔流を見た。草木は激しく踊り狂い、颶風が荒ぶ境内を、一つの混沌が支配する。
「なのに、貴方は来た。呼ばれたわけでもなく、ここに来た」
みゆを取り巻く美しい蒼が、強大な渦となり喚き叫ぶ。
「貴様……」
強烈な疾風に、身体を支えることもままならない彼は、再び地面に手を付き、膝を付く。
「『あずみ』の名は、この世界の癌でしかない」
人と、超えるべき壁の間には、一種の『限度』が必要だということ。それを今、僕は理解した。
限度を超えた差は、いくら足掻こうとも埋まらない。今、彼とみゆの間に聳える壁は、越えようとも超えられない、限度を遥かに超越した異質の存在だった。
「神が創造した世界で、神に楯突く行為が如何に愚かなことか。その程度さえもわからない馬鹿ではないでしょう」
「……」
あずみは、押し黙る。押し黙ることしかできないのかもしれない。圧倒的な力の差があることは明白で、それがわからないあずみではない。彼に、希望が見えるか。絶望の渦中に見い出せる希望は、ここに在るのか。答えは、言葉に出さずともわかりきったことだった。
でも……それでも納得できない気持ちが、彼にはあるのだろう。圧倒的な力量差にも屈しない、自分の信じる意思の限りを突き進む。それが、彼の『正義』なんだ。
「それでも、俺は……」
あずみの拳に、闘志が宿った。ここへ彼が来た時にも見た、彼の信念の光。
「一応、選択肢は与えますが……」
「必要ないッ!貴様を殺せば済む話だ!」
瞬足の織り成す風切り音と同時に、あずみの拳がみゆを襲った。
「まだ、わからないんですね……」
みゆは、小さく溜息をついた。
「俺は、俺の正義のために貴様を殺す!」
一層突き立てる拳が、みゆの混沌を打ち破る気配はない。定められた運命を変える信念を込めた渾身の一撃も、圧倒的な理不尽には通用しない。
……馬鹿野郎は、君の方じゃないか。
「では、私は私の正義のために、貴方を忘却の彼方へと消して差し上げましょう」
さっと、軽く手を振りかざした。たったそれだけ。みゆは応戦は、たったそれだけだった。
ラップ音のような、甲高い破裂音が鳴り響き、蒼の奔流が、あずみを中心に呑み込んだ。それは、ほんの瞬き一つの出来事。眩いばかりの刹那の時を超え、僕の眼前に顕現した世界は……。
「……」
それは、何も変わることはない。僕たちの世界だった。蒼に染まった視界の果てに残ったもの。それは、あずみの叫びでも、オーラの暴走でも、みゆの叫びでもない。圧倒的な静寂に満ちた、僕たちの世界だった。
みゆと、僕。たった二人だけが残った世界を包み込む、在りし日の静寂。
「……みゆ?」
「あきらさん」
未だ、状況が飲み込めていない僕の眼前に凛と立つ、僕の片割れ。僕の半身。
「……あずみは?」
僕は、神社の縁側に腰掛け、震える足を休める。みゆは、真面目な面持ちで僕の隣まで歩を進め、跳ねるように僕の隣に腰掛けた。
「馬鹿な人です。素直に私の言うとおりにしていれば、元の世界に帰れたのに……」
「じゃあ……」
僕の瞳に映るみゆは、いつも通りの幼気な微笑みを浮かべていた。
「孤独な、独りの世界へ……」
みゆは、淡々と告げた。
「時間の概念が存在しない世界で、永遠に死ぬことも許されず、来訪者もいない世界へ送って差し上げました」
枯葉一つ揺れ動かない虚無の辺獄が、僕たちを静かに包み込む。この世界の裏側に存在する、表の世界と僕たちの世界。
そして……彼が居る、彼だけの世界。
「死ぬことは、許しません」
みゆの微笑みの裏に見え隠れする、静かな怒りの焰。僕は、みゆの手に触れた。
「あきらさん……貴方に、涙は似合いません」
「えっ?」
みゆの指先が、そっと僕の目尻に触れた。その指先に光る、一滴の雫。
涙。僕が、涙を流している。何故。
「……」
定められた人生を切り捨ててまで、僕を救いに来た一人の友人。思い出すことは、ただそれだけだった。
今の僕には、優先度を測るための天秤は存在しない。存在していたはずの天秤も、支柱が折れ、受け皿は割れ、比較対象があったとしても、最優先はみゆ。最後に測った、現実とみゆの重さは、みゆに傾き、天秤は役目を終えた。そのまま、僕は在る。
あずみ。何故、ここへ来た。君には、素敵な未来があったじゃないか。僕とは違う。賞賛と羨望の中心に立てる存在だったじゃないか。
その未来を、たった一瞬のために。僕のために捨てることに、君の人生は在ったのか。君の正義は、最高の未来を蹴り捨ててまで貫き通すべきものだったのか。無限の孤独に沈む君に、一縷の糸を垂らしてあげることさえも、僕にはできないというのに……。
「……本当に、馬鹿な友人だったよ」
僕は、みゆの手を強く握りしめ、みゆをそっと引き寄せた。全身から伝わる熱に、みゆの確かな存在を感じる。
「私は、どこにも行きませんから……」
みゆの温かい手が、僕の髪を触れた。全ての憂いを拭い去る、みゆの存在。神を生み出した神への感謝。でも、今だけは拭いきれない憂いが在った。
でも、もう遅い。全てが、遅すぎたんだ。
僕は、強くみゆを抱きしめた。
「あきらさん」
「ん……?」
僕の胸元に顔を埋めたみゆが、囁くように僕の名を呼ぶ。
「少し、家に戻りませんか?」
「みゆの家?」
「はい」
胸元にあったみゆの感触が消え、みゆは僕の前に立つ。
「壊さなければいけないものが、あるんです」
困惑したような笑みを浮かべながら、僕の手を取り、軽い力で引っ張る。釣られるように、僕は立ち上がった。
「壊さなければいけないもの……」
「そうです」
みゆが先導し、手を引かれながら、僕はみゆの後ろを行く。
「無粋な輩が、またここへ来ないとも限りませんから」
そっと振り返るみゆの微笑みに見る、他者の介在を許さぬ意思。根底には、枯れることなく深く根を張るみゆの正義がある。僕は、その正義に同調した。その結果……僕の友人は消えてしまった。
二人の正義は相反し、僕に選択権は委ねられたが、僕が両方を選ぶことは許されなかった。あずみの正義に、みゆが共存する余地はなく、みゆの正義にあずみが共存する余地はない。僕は、どちらかの正義を選択せざるを得なかったんだ。
でも、僕自身の意思が選ぶことは許されなかった。選択する以前の問題だ。僕には、みゆが全て。大事な友人を蹴落としてまで望んだ未来に、みゆは居た。
その結果に……僕は、本当に満足しているのだろうか。
「ねぇ、あきらさん」
「み、みゆ」
みゆの声が、脳内で反響する。何度も何度も何度も幾度となく……。
みゆの表情は穏やかで、瞳の奥にハッキリとした影を落とす、その想いは、僕への深い思慕。愛。
「大好きです」
それは……初めて、みゆが囁いた、僕への想いだった。みゆへの想いに囚われた僕が、心底切望した、少女の愛の言葉だった。
そうだ。他に望むものなんて、何もない。表の世界も、家族も、栄光も、友人も……何も必要ない。全ての憂いを、愛おしさが覆う、みゆの微笑み。他者を、死を超えた僻地へと追いやってまで掴みとりたかった、みゆとの永遠。それが僕の……みゆへの愛。
だから……。
「僕も……愛してる」
答えなんて、もう決まっていた。腕に抱く、みゆの身体も、心も、欲しかったものを手に入れた僕に、迷う余地なんてない。
頬を伝う一筋の想いが、喜びか憂いか。迷いであるはずがないと。もうじき、みゆが指先一つで拭い取ってくれると……。
今は何も考えず、小さな温もりを腕に抱く刹那に酔い痴れていたかった。
如何だったでしょうか。暇のお供として、役不足ではなかったでしょうか。ホラー要素を入れた小説を書きたいなと思った結果、こうなりました。
本来、戦闘要素を入れる予定はなかったのですが、キャラクターとは不思議なものですね。僕の意思の範囲外で、勝手にストーリーを紡ぎ始める彼らには、一種の命が宿っているのでしょう。
僕としては、彼らが紡ぐストーリーを、上手く表現するための表現力や語彙力を培うために、今後も精進していきたいところです。
最後に一言だけ。ご一読下さいまして、ありがとうございました。
もし、ほんの一糸でも琴線に触れるような場面、表現がございましたら、今後とも僕の作品をよろしくお願い致します。